赤い色が嫌いだった。
幼稚園でのお絵描きの時間にはリンゴは緑で、ポストは黄色で塗った。友達に変だって言われたら、青くても美味しいリンゴはあるし、外国には黄色のポストもあるって返した。偏屈な子供だった。
クレヨンや色鉛筆の箱の中で赤色だけが減らずに残っているのを見ると、自分の嫌いが体現されているみたいで、お母さんに黙って捨てては叱られた。可愛くない子供だった。
それでも、私がどんなに嫌いだって世間には赤い色は溢れている。スーパーの野菜売り場、信号機、神社の鳥居、エトセトラ。そんなものにいちいち腹を立てていたらキリがないから、小学校の高学年にあがる頃には諦めることを覚えた。そうやって赤との適当な距離を見つけて、昔ほど過度な毛嫌いはしないようになってきた。
それなのに、幼い頃からの憧れだったヒーローを目指すために足を踏み入れた雄英で、私はどうしようもない赤と出会ってしまった。そして知ってしまった。
私はずっと、赤い色が嫌いなのではなくて、怖かったんだって。本当はあの色相手にびくびくと怯えていたのだ。
赤という色の攻撃的に激しく、妥協を許さない鮮烈さが怖かった。そう、真っ赤な血、真っ赤な──爆豪くんの瞳。
▽▲▽▲
目を覚ますと部屋中が青白い月明かりで満たされていた。
時計を確認するとちょうど日付が変わったところ。頭が重たいのは寝過ぎたからじゃないことくらい分かっている。鏡を見るまでもなく、まぶたはきっと赤く腫れている。
すう、と吸い込んだ空気を肺に溜め、しばらく止めてから吐き出す。どんなに泣いたところで流れきってはくれない不甲斐なさが重くのしかかる。リカバリーガールにすっかり治癒してもらったはずの右腕を摩りながら、いっそ治してもらわなければよかったなんて考えてしまいそうになって我に返る。いけない、世話をかけておいてそんなことを考えたら、本当に戻れなくなってしまう。
今日のインターン。一年生のときからお世話になっている事務所でのパトロール中ヴィランに遭遇した。都市部でのパトロールだったから、それ自体は珍しいことでもない。そんなことを思ってしまったのがいけなかった。もう何度かこの手のヴィランの捕縛の経験はあって、今日だって上手くやれると思った。事実、敵を追い込み、ねじ伏せた。そこで、慢心した。
完全に気絶させたと思っていた相手は意識を失っているフリをしていただけで、拘束するために近づいた私の不意を突いて持っていた刃物を振り上げた。武器はいち早く取り上げる、拘束が済むまで気を緩めない。そんな当たり前のことができていなかった。
反応が遅れて、目の前に刃の切っ先が見えたとき、私を庇うように敵の前に立ったのは今年から同じインターンを受けている後輩だった。彼女が切っ先を受けてくれたおかげで、私の怪我は右腕を掠める程度で済んだ。せめてもの救いは、その後は茫然とすることもなく自然と身体が動き、今度こそ完全に敵を拘束することが出来たことだ。
事務所に戻って報告をすれば、無論、厳しい叱責を受けた。完全な私の驕り。言い返す言葉もなかった。最後にはこれも経験だと優しくフォローもしてもらえたけど、もう自信もプライドもぼろぼろだった。
寮に戻れば、私がリカバリーガールの元へ行ったことを知ったみんなが心配してくれたけど、それが余計に居た堪れなかった。食事とお風呂を済ませて早々に部屋に戻れば、堪えていた涙がとめどなく溢れてきて自分の情けなさに泣き崩れた。そして、いつの間に眠ってしまっていたらしい。
「……水でも飲んでこよ」
散々泣いて、そのまま寝たせいで喉がからからに乾いていた。それに、少しでも気分転換をしたかった。開け放たれたカーテンは月明かりを遮ることなく、この部屋はまるで海の中みたいに青い光が溢れている。このままじゃ溺れてしまいそうなくらい。
▽
誰もいないとタカをくくって降りていった共同スペースには思いがけない人が立っていた。今、一番会いたくなかった後ろ姿に気づいて身体が竦む。慌てて来た道を戻ろうとしたら、運悪く爆豪くんが振り向いてしまう。
「あ? んだその顔」
「爆豪くん……」
赤い瞳。その虹彩に私が映ってしまったことに竦み上がる。情けなく思い上がり、不甲斐なく自分だけでなく後輩までもを危険に晒した私。爆豪くんに見つめられていると、そんな自分が浮き彫りにされるような気がしてしまう。
そんな私の気持ちなんて知るはずもない爆豪くんは遠慮なく私の前まで詰め寄ると、まじまじと不躾に人の顔を見つめてくる。間違いなく目は赤いし、もしかした涙の跡だって残ってしまっているかもしれない。せめてもの抵抗に顔を伏せるけど、たぶんもう意味はないだろう。下げた視線の先では、爆豪くんの持っているペットボトルの水がゆらゆらと波打つ。
「あれか、泣いたんか」
「そういうのはさ、気づいても言わないもんじゃん……」
不躾な爆豪くんの言葉に、言葉尻をすぼめながら非難する。芦戸ちゃんや葉隠ちゃんなら、爆豪くん相手にだってもっと大きな声で言えるんだろうなって思ったら、急に惨めになった。ひとつだけ点った蛍光灯。いつもは明るい共同スペースは私たちのいるここ以外は薄墨でも零したような夜に侵食されている。
「今日してたっつー怪我か」
「……他に、ないでしょ」
私を心配してくれたみんなの輪の中に当然だけど爆豪くんの姿はなかった。だけど、近くのソファに座っていたから騒がしい私たちの声くらい耳に入っていただろう。怪我をした経緯については誰にも詳しく話していない。ただ、自分のミスだったと口にしたとき、隠しきれなかった自責と後悔の色にみんなが何か察してくれたことは分かっていた。深くは追求されず、そのまま受け入れてもらえる優しさ。それが嬉しくて、痛かった。
「もう、爆豪くんは部屋に戻りなよ。私も水飲んだら戻るし」
「あ? そんなブスくれた顔見せられて、そのまま戻れっか」
「いや、爆豪くんなら戻るでしょ」
それどころか、そもそも関わってすらこないはずだ。相手が緑谷くんや切島くんだったら、もっと何か言っていたかもれないけど、爆豪くんにとっての私はただクラスメイトでしかない。そんなただのクラスメイトが深夜の共同スペースで、どれだけしみったれた顔をしていても一瞥するだけで去っていく。むしろ、一瞥してくれただけクラスメイトだと認識されている証拠だとでもいうのが爆豪くんだったはずだ。
「……ココアでいいか」
「え?」
「作ったるっつってんだ。おまえいつも飲んでんだろ」
「……作ってやるとは言ってなくない?」
「うるせえ、その辺座ってろ」
確かにみんなと話ながら何か飲むときにココアを選ぶことは多いし、ココアのストックを常に用意しておくように気にかけているのも私だ。だけど、そんな些末なことに爆豪くんが気づいているとは思わなかったし、それが今の状況にも繋がらない。驚きで言葉の出ない私を置いてキッチンへと戻っていってしまった爆豪くんの後ろ姿。今さら呼び止めることも出来ず、しばらく視線をさ迷わせてから、近くの椅子に腰を下ろした。
▽
キッチンに点った明かりで伸びる自分の影を見つめながらしばらく待っていると、目の前に置かれたマグカップ。本当に用意されたココアからふわりと漂う甘い香り。背中を向けて座っていたので、キッチンに立つ爆豪くんの様子は見えていないけど、音から察するにお湯を注いだだけとか、牛乳を電子レンジで温めたわけでもなく、わざわざミルクパンで作ってくれていたのだろう。
おそるおそる口をつければ、思わずハッと吐息が漏れた。
「え、美味しい」
「たりめーだろ。誰が作ったと思ってんだ」
向かいの椅子に座りながら、得意げに笑う爆豪くん。確かにココアはよく飲んでいるけど、だいたいはお湯を注いで牛乳を足してくらいで済ませてしまう。こうして手間をかけた、そして誰かに作ってもらったココアを飲むのは随分と久しぶりで、胃に流れ込む甘さと温かさに強張った身体がほどけていくの感じる。
こんなにも簡単に、楽になってしまう心への抵抗と罪悪感。今日の私の失態は到底ヒーローを目指す者として許されることではない。誰よりも強さを求め、妥協を許さない爆豪くんを知っているから、そんな私を見られるのが怖かった。爆豪くんの瞳の赤は、私の未熟さを暴いてしまうから。
マグカップから唇を離し、ゆっくりと顔を上げる。断罪を受ける罪人のような気持ちで、爆豪くんの瞳を見据えて、あっと息をのんだ。
「……私さ、爆豪くんのこと苦手だったんだよね」
「は? てめぇ、普通このタイミングで喧嘩売るか?」
「待って、待って! 瞳が赤いから、怖くて」
テーブルに身を乗り出して私の手からマグカップを奪い取ろうとする爆豪くんからココアを死守する。声を潜めつつも叫んだ私の言葉に、眉間をシワを寄せながら赤? と爆豪くんが訝しげな声を出した。
「赤が好きじゃなくて、だから爆豪くんが怖かった」
「んなこと言ったら、切島や半分野郎とかの方がよっぽど赤ぇだろ」
「あー、切島くんと轟くんの赤はさ、許せる赤なの」
ただの色だと折り合いをつけられるようになった赤。成長するにつれて、世の中にはたくさんの赤が溢れていると知ると同時に、大抵の赤はそんな諦めきれる色だとも納得した。私は好きじゃないけど、誰かの好きではある色。だから、雄英で爆豪くんに出会って、こんなにも諦めきれない赤があることを知った方が驚きだった。
どれだけ私には関係ないと言い聞かせても、どんなに視界にいれないようにしても、その存在を意識せずにはいられないような赤。その瞳に見据えられるだけで、いてもたってもいられない居心地の悪さを押し付けてくるような赤。
「何が違ぇんだよ」
「爆豪くんの瞳はさ、見られてると許されない気になって、こう、緊張する」
「んなもん、知るか! 人の目に勝手に緊張してんじゃねェぞ!」
「あー、もう、そんな叫ぶとみんな起きちゃうよ」
共同スペース全体に響く爆豪くんの声。階上の部屋の眠りを妨げるほどではないと思うけど、夜が静かなだけ物音くらい届くかもしれない。宥めるように両手を爆豪くんに向ければ、ふんと不満そうに鼻を鳴らしながらも声のトーンは落としてくれた。
「……そのわりには、普通にこっち見れてんじゃねぇかよ」
「うん、今はね。ねえ、爆豪くん、今眠いでしょ」
「ったりめーだろ、今何時だと思ってんだ」
壁面にかけられた時計に目をやれば、もうすぐ一時を回ろうとしているところだった。明日も授業はあるし、普段ならとっくに寝ている時間だ。それでも、わざわざ眠さを押してまで私に付き合ってくれる爆豪くん。
「知ってた? 眠いときの爆豪くんの瞳の色は少しだけ柔らかくなるんだよ」
それはついさっきココアの飲みながら顔を上げて気づいたことだった。いつもの燃えるように峻烈な赤い瞳が、その激しさを潜めてまどろむような優しさを帯びる。
虚を衝かれたのか目を丸くした爆豪くんを見るのは、悪戯を成功した気分になって愉快だった。したり顔で笑って見せると、しばらく固まっていた爆豪くんが今度はやけに挑発的な笑みを浮かべた。
「……俺もひとつ、教えてやろうか」
そう言って立ち上がった爆豪くんが、椅子に座ったままの私の隣に立つ。キッチンのライトに照らされるだけの薄明かりの中で爆豪くんが私を見下ろす。
「おまえが俺だけが怖いっつーのは、要するに俺だけが特別ってことだろ」
冷蔵庫の稼動音が低く響くだけの静かなこの部屋で、はっきりと鼓膜を揺らした爆豪くんの声。特別、と心の中でその言葉をなぞる。
爆豪くんにだけは私の弱さを見られたくなかった。爆豪くんの前では失態を晒さないように気を張っていた。爆豪くんには完璧な私だけを見て欲しかったから。
散り散りに散らばっていた爆豪くんへの恐れだと思っていたものが、ひと繋ぎに結び合わされていく。その先で形作るもの、それは──
「顔、赤ェぞ。嫌いなんだろ? 赤」
爆豪くんの指先が私の頬に触れ、無理矢理に顔を上げさせられる。覗き込まれる瞳。さっきまでと違う獲物を狙うみたいに鋭い瞳が私を捕らえて放さない。鼓動がうるさいくらいに鳴り響いて、頬が熱を持っているのが分かってしまう。
そんな私を見て、爆豪くんはさも満足そうに唇の端を吊り上げた。勝ち誇った王者の笑顔。
「それ飲んだらさっさと歯磨いて寝ろよ」
それだけ言うと、すっと頬から手を放し、爆豪くんはさっさと私に背を向けてエレベーターの方へと向かってしまった。残されたのは当分は動悸が落ち着かないであろう私と、まだ温かなココアの残るマグカップだけ。きっともう眠れない今日の長い夜を思って、ああっと漏れた情けない声が窓の向こうの月夜に吸い込まれていく。
バイバイバグベア
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