「じゃあ、別れるってことでいいよね」

一週間ぶりにまともに顔を合わせる同棲中の恋人。そんな彼に向けて発した自分の声は、まるで持っていた風船から手を放すみたいだった。
ずっと欲しくて、大切だった真っ赤な風船。しっかりと握っていないと飛んでいってしまうから、爪の痕が癖になるくらい握りしめていたのに、いざ放してみればなんて呆気ないんだろう。
空高く飛んでいってもう二度と手に入らない。それなのに、久しぶりに自由になった右手は随分と軽かった。

「……おまえがいいなら」

この部屋に住み始めるときに二人で選んだダイニングテーブルに向かい合いながら、勝己くんはすうと視線を窓へと向ける。閉め切ったカーテン。リネンのアイボリーの生地は、黒にしたいという勝己くんの反対を押し切って私が選んだものだ。
その代わりにリビングのソファと寝室のベッドは勝己くんの好みのデザインのものを探した。この家全部、そうやって二人で作り上げてきたものだ。そんな幸せの証とさえ思っていたこの部屋から、私はこんなにもあっさりと出ていこうとしている。

別に勝己くんを嫌いになったわけではないし、勝己くんからも嫌われたりはしていないと思う。だからそう、簡単にいってしまえば倦怠期。
前までなら喧嘩になっていたようなことが喧嘩にならなくなって、お互いに言いたいことも飲み込んで一人で解決してしまうようになった。会話もしないわけじゃないけど、スマホをいじりながらとか聞き流されることも多かった。そして、それは勝己くんに対する私も、きっと同じことをしてしまっていた。

そうやって、私たちの距離は確実に広がっていて、そのことに薄々は気づきながらも距離を縮める努力を怠った。そして、もう手の施しようがないくらいに私たちは離れ離れだ。
決定的だったのは先週の勝己くんの一週間の遠征で、最初の日から三日間、私たちは一切の連絡を取らなかった。昔だったら勝己くんが危険な任務をしていることに夜も眠れないくらいに気が張っていたのに、何か送っておこうかなって思いながら後回しにしているうちに三日が経ってしまって、その間に勝己くんの方からも何もなかった。
毎日、「今から帰る」の定型文が溜まるだけだったトークアプリに三日間の空白が生まれて、それを見ながら私たちはもう限界だって悟ってしまった。

三日ぶりに勝己くんへ送った『帰ったら話がある』のメッセージには、電話すら折り返されることなく一言『わかった』とだけ返ってきた。

「部屋、どうする」
「このまま勝己くんが住みなよ。一人で持て余すようなら引っ越したらいいけど、とりあえずは私が出てく。私なら実家帰っても通勤の手間もたいして変わんないし」

勝己くんのいない間、一人で考えた別れるまでの手順。相変わらず私の方を見ないままの勝己くんは特に何を言うでもなくわずかに頷く。

「家具は」
「大きいやつはだいたい勝己くんにあげる。あっ、でも寝室の本棚と鏡は気に入ってるから欲しいかも」

部屋の中を見渡して、私のもの、勝己くんのもの、と心の中でラベリングしていく。流石にこれだけ暮らしていれば自然と増えてしまう物たち。引越しのための荷造りの手間を簡単に算段する。

「明日、明後日は休めないから金曜日に有休取って、土曜との二日間で荷物まとめるね。それで日曜日に出てく」
「……日曜、俺も休む。んで、車借りてくるから荷物乗せてけや」
「え、手伝ってくれるの?」

驚いて勝己くんの顔を覗き込めば、やっと私を映した真っ赤な瞳がキッと睨みつけるように細くなる。

「結構荷物あんだろ、一人でどうする気でだったんだよ」
「軽いものは往復して、大きいのは……宅配とか?」
「どんな手間かける気だ、アホか!」

舌打ちを零した勝己くんがドカッと椅子に座り直した。別れる恋人に最後までそんな情けをかけてくれる素直じゃない姿に、思わず呆れと愛しさが入り交じって苦笑が漏れる。
チェストの上に置いた卓上カレンダーを確認しようと立ち上がって、日曜日の日付をすでに囲んだ赤い丸印が目に入る。それを見て「あっ!」と上げてしまった大きな声に、勝己くんは目を丸くして私を見た。

「日曜日、勝己くんと行きたいねって話したイタリアン予約した日だ。実家に荷物置いたら車返して、そのまま夕ご飯食べて解散にしない?」

職場の同僚から聞いたレストラン。行ってみたいと勝己くんに話して、一ヶ月前に予約を入れたのだった。先週までは確かに覚えていたのに、色々考えているうちに頭から抜けてしまっていた。
私の提案に勝己くんは明らかに不満げに片目を眇める。

「だって、予約なかなか取れない人気店だよ? キャンセルなんて勿体ないじゃん」
「テキトーに誰か誘ってきゃいいだろ」
「流石に急すぎるって。それに勝己くんと行きたいって話したとこなんだしさ、円満なお別れの思い出に行こうよ。最後のデート」

円満と自分で口にしてみて、その言葉の陳腐さに少し傷つく。私たちが共に過ごした時間は、こんな後腐れなく別れることが出来る程度のものだったのか。
勝己くんも私も、何が悪かったというわけではないと思う。お互いが楽に過ごせる距離を探して、気がついたらあまりに離れた場所に落ち着いてしまっただけ。だからまた、ここから新しい道に歩き出すのだ。背を向けあって、同じ方向を見据えることなく。
黙ってしまった私と同じく、何も話さない勝己くんが何を考えているのかは分からない。昔ならもう少し分かったかもしれないと思ったけど、それはただの思い込みで勝己くんのことをちゃんと理解できたことなんて一度だってなかったような気もする。

「あっ、もしかして私への未練タラタラで無理な感じ?」
「んなわけあるか! 最高のデートにしたるわ」

わざと煽るような口調でからかえば、勝己くんは喧嘩腰にのってくる。こんなやりとりを、もう数え切れないくらいに繰り返してきた。だけど、これがもう最後になる。明日からの五日間をかけて、私はこの部屋のすべてとお別れをする。
大事に大事に包み込んできたものを手放して、一生かけて愛していくんだと思っていた人を捨てていく。そうなることを私が選んだ。後悔と寂しさに揺らぎそうになる心を、しっかりと脚に力をいれて踏み止まる。これからはもう、勝己くんに寄りかかることなんてできないのだから。










勝己くんとの出会いは偶然の重ね合わせだった。

大学の友人が当時付き合っていた彼氏がヒーローで、一緒に遊んでいたときにその彼の忘れ物を届けるために少しだけ彼の事務所に寄りたいと言われた。もちろん断る理由もないから了承して、初めて足を踏み入れるヒーロー事務所に内心緊張しながら中に入ったら、たまたま所用でそこに訪れていたダイナマイトがいた。
今ほどではなかったけど、その頃から人気のあるヒーローだった勝己くんに友人は興奮し、彼氏へ紹介してくれるように強請った。そして、なりゆきで私も彼女の友人として紹介されたのだった。

もちろん、その程度のきっかけで私たちの間に何かが始めるわけでもなく、二度目に顔を会わせることになったのは早朝の駅だった。
仕事に行く前に自販機でお茶を買ったら、まさかの当たりが出てしまった。当たったからにはとコーヒーのボタンを押して、落ちてきた缶を取り出しながら複雑な胸のうちをどうしたものかと考えていた。これから仕事に行くというのに、別に必要なわけでもない荷物が増えてしまった。通勤用の鞄には微妙入らないし、今ここで飲みきってしまうには時間もない。ラッキーの無駄遣いだな、と顔を上げたら向かいから歩いてくる人影に妙に見覚えがあった。

思わずじっと見つめていたら向こうもこっちを見て、その顔に声を上げてしまった。数日前に顔を合わせたばかりの私を勝己くんも覚えていてくれたらしく、慌てて両手で口を覆って周りの注目を集めていないかキョロキョロとあたりを見渡す私に仕方なそうに「どーも」と声をかけてくれた。だからつい、「コーヒー飲めますか?」なんて尋ねて当たっただけの缶を押し付けた。そして、少し戸惑いぎみの勝己くんを残してホームに向かった。

三度目も駅で、先に声をかけてきたのはなんと勝己くんからだった。仕事終わり、駅を出たところで「おい」と呼び止められ、振り返ったら勝己くんがいて死ぬほどびっくりした。帰宅ラッシュを過ぎた人のまばらな駅前。簡単な挨拶をなんとか口にしたら。近くのコンビニを顎で示され「好きなもの買ったる」と言われた。聞けば、この間のコーヒーの礼だと言われて、あんなものでお礼を貰うなんてと当然断ったら「うるせえ、貰いっぱなしは癪なんだよ」となかば引きづられるようにコンビニへ連行された。

そんなこんなで当時住んでいた部屋が近かったことも判明し、見かけたら声をかけるような仲になり、いつしか偶然ではなく予定を合わせて会うようになった。そうやって、私たちの関係は恋人へと変わっていった。ヒーローの恋人になるなんて考えたこともなかったし、それが思っていたよりもずっと不安や心配と隣り合わせなことも知らなかった。大きなものから些細なものまで多くの喧嘩もしたし、同じ数だけちゃんと仲直りをし、手を取り合うように幸せの形を築き上げてきた。

あのときの私は、この恋が終わることなんて想像もしていなかった。すべてのものには終わりがあると、当たり前に知っていたのに、なんで愛だけは永遠だなんて勘違いをしていたのだろう。




△ ▼ △ ▼





二日をかけてゆっくりとまとめた荷物は段ボール四つと数個の家具になった。たくさんの思い出を詰め込んでいたつもりの部屋から持ち出すには少ない気もしたし、これから一人で背負っていくものとしては多すぎるような気もした。

ソファやテーブルなんかの大きな家具はそのままなのに、私のものがすべて抜け落ちた部屋はまるで別の場所みたいによそよしくて、ここがもう私の居場所ではないんだってことを思い知らされた。
土曜日の夜に帰ってきた勝己くんが玄関で少しだけ足を竦めたことと、部屋の隅に固めておいた段ボールにできるだけ目を向けないようにしていたことには、気づいていたけど何も言えなかった。

そして、最後の日。起きたらまず勝己くんが作ってくれた朝ごはんを食べて、お昼過ぎに荷物を載せて勝己くんの運転する車で実家に向かった。両親はおそらく敢えて家を留守にしてくれていて、二人だけで荷物を高校生の頃まで私が使っていた部屋へと運び込んだ。それから時間を見計らってレストランへと足を向けた。
評判通りの瀟洒な内装と手の込んだ料理は美味しくて、お互いに少しだけお酒も飲んだりなんかもしてしまう。勝己くんと食べる最後の食事。それなのに、私たちが交わすのはいつもと変わりないくだらない話で、明日も明後日もこの日常が続いていくように錯覚してしまいそうになる。

お店の窓ガラス。すっかり日の暮れた街中を車のヘッドライトの光が赤や白の流動線を残して流れ去っていく。一番強い光から取り残された残影。まるで私たちがいる場所みたいだ。
勝己くんと別れることを決めてから、何度も今のままでもいいんじゃないかと思いもした。倦怠期といったって、険悪になっているわけでもないし、このままだっていられるんじゃないかって。恋に落ちた瞬間と同じだけの熱量を抱き続けることなんて出来る方が難しいのだし、こうやって落ち着くのもまた一つの愛のかたちなんじゃないかって。

だけど、爆豪勝己という男に対して抱いた愛と理想が、そんな生ぬるくて甘ったれた愛に変わり果ててしまったことを許してくれなかった。いつまでも激烈に熱を持ち、身を尽くす業火のような愛が似合う男だと思ってしまったから、こんな陳腐な愛で満足されるなんて、とてもじゃないけど我慢できなかった。

「そろそろ出んぞ」
「……うん」

いつもだったら帰ると言われていたはずの言葉一つで、こんなにも身が裂けそうになる。それだけまだ勝己くんのことが好きだと言えることに対する安堵。どんなに喧嘩をしたって、一度だって勝己くんのこと嫌いだと思ったことはなかった。これが私たちの終わりだというのなら、私は最後まで勝己くんのことを好きでいられたということだ。

伝票を持った勝己くんに私がお財布を出すことは許してもらえず、店を出てから口にしたお礼の言葉にはぶっきらぼうな返事をされた。そのまま店の前で解散するつもりだったけど、私が別れを口にするより先に勝己くんは駅の方へ向かって歩き出してしまって、私もその後を追うしかなくなる。

駅へと続く細いわき道。ここには私たちしか歩いていない。大通りから聞こえる車の行き交う音には現実味がなく、私の方を振り返りもしない勝己くんの背中は近くて遠い。付き合ってから勝己くんと訪れた様々な場所。お気に入りのカフェや雑貨屋には、少しだけ時間はかかるかもしれないけど私はまた足を運ぶだろう。デートに行った海や水族館にだって、いつかまた勝己くんではない誰かと行くこともあるかもしれない。
だけど、この道だけは絶対にもう二度と通らない。そんな確信がある。

「……駅まででいいんか」
「え?」
「送るの」
「あ、うん。むしろ駅までも送ってもらえるとは思わなかった」

別れることを決めた恋人に実家まで送ってもらう最後はなんとなく格好つかないよねって冗談めかして笑ってみたけど、勝己くんが一緒に笑ってくれることはなかった。夜の薄闇で影を濃くした木々の葉が風に揺れる。しばらく何も話さないまま並んで歩いて、駅までの最後の階段の前で足を止める。

「この階段でさ、一段下りるごとにお互いの質問に答えるってどう?」

ふとした思いつきを口にしてみれば、勝己くんは訝しげに眉をひそめる。

「何段あると思ってんだよ」
「えー、二十くらい?」
「今さらそんなに訊くこともねぇだろ」

そうは言いつつも一段下りて足を止めてくれる勝己くん。そんな姿に思わず口元を緩めてしまいながら、私も隣に並んだ。

「じゃあ、質問。好きな映画は」
「……先月おまえと観た、アレ」

しばらく間をあけて勝己くんが口にした答えに、一瞬何を観たっけと首を傾げる。先月は勝己くんが忙しかったから映画館に行くようなデートなんてしていない。そこでふと、お風呂上がりに勝己くんが観ていたロードショーを途中から一緒に観たことがあったことを思い出した。

「え、あのテレビでやってたやつ? そんなに好きならそのとき言ってよ」
「言ってどうすんだよ」
「勝己くんが好きな映画だ、って心して観たよ」

ほとんど流し観をしていたから所々しか思い出せない映画の内容を嘆けば、勝己くんは馬鹿にしたように鼻で笑う。
子供のころの夢、初恋の人、お遊戯会の役、今まで一番痛かった怪我。一段一段、歩みを進めるごとに、こんなにもまだ知らないことがあったことに驚かされる。全部知ったような気になって、すっかり頭打ちだと思っていた私たちの道はまだまだどこかに続いていたのかもしれない。それなのに、私はあっさりと歩くことをやめてしまった。

こんな遊びを始めなければ、最後に食事に行こうなんて言わなければ、引っ越しの手伝いを断っていれば、この恋はもっと簡単に終わることが出来たはずだった。浅くすんだはずの傷を、無理矢理に押し広げているのは私自身だ。それでも、生まれて初めてこんなにも好きになった人のすべてを覚えておきたかった。
だけど、こんなに悲しくて苦しいのに、この傷はきっと一生残ってくれたりはしない。勝己くんと離れて暮らしていくうちに痛みなんて少しずつ薄れてしまう。それでも、どこを傷つけたのかも分からないような痛みを伴わないただの過去の思い出になったとしても、忘れたくはなかった。

「最後の一段は私かぁ。じゃあ、今願いがひとつ叶うならどうする?」

このまま終わりなんてこなければいいとさえ願っても、最後の一段はやってくる。わざと軽々しく飛び降りて勝己くんの方を振り向けば、じっと私だけを見据えたまなざしの真剣さに思わず怯む。

「おまえと、別れねェ」
「え?」

吐き捨てるような口調で、だけどその声音は痛いくらいに切実だった。
駅の方から聞こえてくる乗車アナウンス。今から行ったって間に合うわけもないのに、逃げるように身体が動きそうになる。そんな私の腕を勝己くんが掴んだ。振り払おうと思えば振り払える程度の強さ。だけど身体は動かなくて、どこを見たらいいのかわからないまま視線がさ迷う。

「あんな顔してんじゃねェぞ。最後まで楽しかったで終わるような、いい思い出にされるような、そんなつまんねェ愛し方してきたつもりはねェんだよ」
「……勝己くん?」

らしくもない緊張で引き締まった表情。呼吸をするのもためらうくらいに、その張り詰めた空気が私まで絡めとる。

「俺と別れるなんて口にして、んな清々しい顔してくれんなよ。もっと泣けや。そして別れたくねェって縋ってこいや」

わずかに震えて掠れる声が、勝己くんの必死さを物語るみたいに聞こえてしまう。お互いに納得して別れたはずだった。なのに、なんで今さらこんなことを言うの。声にしたつもりはないけど、そんな私の戸惑いも見透かしたように爆豪くんの瞳が苦しげに歪む。

「でなきゃ、俺も黙って従うしかなくなんだろーが」
「……だって、私たち冷めきってたじゃん」
「んなわけあるか。余裕で毎日好きだわ」

衒いなく口にされた好きに身体がぴくりと跳ねる。掴まれた腕に引き寄せられそうになって、なんとか思い止まった。だってもう、私たちは戻れないところまで来てしまったはずだ。

「勝己くんが危険な仕事してるのに、呑気に過ごせちゃってたんだよ」
「当たり前だろ。いちいち昔みてえに心配かけねぇようにしてんだから」
「最近、喧嘩もしてないし……」
「それもする必要がなかっただけだろ」

俯きながらぽつぽつと話す言葉がすべて勝己くんによって否定されていく。

「倦怠期? ふざけんなよ、ただおまえと過ごして安心してただけに決まってんだろ」
「だって、そんなの、勝己くんらしくないよ……」

なんとか声を絞り出して、掴まれた手を振り払おうと足掻く。だけど、そんな抵抗まるでなかったように勝己くんの手に力が籠って、気がついたらその胸に抱き止められていた。

「俺らしいって何だよ。おまえがいたらいい、それがすべてだろーが」

耳元で呟かれた声は小さく、だけど確かに鼓膜を揺らす。まるで泣いてるみたいな悲痛な声で、それなのにあまり鮮烈な愛の色をしている。
私たちの頭上を強い風が吹き抜けて、ざあと葉音を立てた。そして、もうすっかり火なんて消えてしまっていたと思っていた心の中に真っ赤な炎が燃え上がる。
だけど、それを認めてしまうには遅すぎる。あの家にはもう私の荷物はなく、私たちはあの日に別れることを決めてしまった。

「……だって、今さら……そんなの私、都合よすぎない?」
「あ? 誰の都合だよ。知るか」

吐き捨てられた声はあまりにも呆気なく、こんなにも一世一代の別れを決意したのが馬鹿みたいに思えてしまう。気の抜けた笑いがこぼれて、張り詰めていた糸が解けて力が抜ける。そのまま勝己くんの胸に寄りかかると、耳元に届いた吐息に安堵が混じった気がした。

「……お母さんたちに、なんて言おう」
「まあ、それは相当カッコ悪ぃし、迷惑かけたからな」

たぶん今頃、娘の失恋をどう癒すか考えているであろう両親を思って渋い唸り声をあげると、勝己くんが馬鹿にするように鼻で笑った。

「仕方ねぇから、一緒に謝ってやる」
「……なんか私だけが悪いみたいな言い草だけど、勝己くんだってこんなギリギリまで私のこと引き留める勇気もなかったくせに」

顔を上げて、下から勝己くんのことを睨みつけるとバツの悪そうに舌打ちが返ってくる。

「うるせぇ。いいから帰んぞ……ウチに」

おそらく意識的に言葉にされたそれを、もう一度心の中でなぞるように繰り返す。そう、帰れるんだ。あの部屋に置いてきた幸福はもう頂点に達してしまったのだと思っていた。だから、あとは降下するだけの曲線を恐れて逃げだした。
だけど、そんなの全部、計算から間違えてたんだ。私たちの幸せを示すグラフは、どこまでも真っ直ぐ伸びていく。空まで突きぬけて、ずっと果てなく。今ならそう信じることが出来た。






幸福曲線なんて飛び越えて


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