それを人は、オーロラと呼ぶ。
そう教えてくれたのは今の事務所の所長だった。職場体験やインターンに来たわけでもないのに突然面接に現れて、「オーロラが見たかったから」なんて舐め腐った志望動機を口にした私に、しばらく唖然とした所長がやがて大笑いしながら言ってくれた「いつか見えるさ」の言葉をたぶん私は一生忘れない。
この国の最北端に近い町。自然豊かといえば聞こえがいいけど、要するに人の少ないド田舎のこの町で唯一のヒーロー事務所。そこでサイドキックとして働き始めてもうじきに三年目を迎えようとしている。ヴィランによる犯罪なんて起きる方が珍しく、大抵の仕事は落し物探しや道案内。あとは時々、野生動物と戦う。
最初こそ雄英時代にお世話になったヒーロー事務所の忙しなさとのギャップに困惑したりもしたけれど、今となってはすっかりこの平穏に慣れ親しんでしまっている。
「そっか、今日は新月だっけ」
事務所の屋上に寝そべって見上げる星空には幾億という光がばら撒かれている。幾星霜という時間をかけてここまで届いた光の残骸。
夜勤の日は休憩時間に決まってこうして屋上で過ごす。天体観測が趣味の所長の望遠鏡を好きに使っていいとも言われているけど、別に特定の星が見たいというわけではないので滅多に使ってはいない。
ただ漠然と、目の前の光の海を見つめているだけ。
オーロラがこの町で大昔に観測されたことがあると知って、それならそこでヒーローをやろうと思った。それなりに本気で、同じくらい自暴自棄だった。そんな私を採用するのだから所長も所長で大概だ。
前に一度、どうして私を採用したのかと聞いたことがある。所長は笑って「あんなこと言うヤツが大物にならないはずがないから」と返された。所長はやっぱり少し変な人だ。
それにオーロラだって、正直に言えばそこまでこだわっているわけじゃない。発端はただの同級生との些細な会話だった。いや、それでこうして人生左右されているのだから些細なとは言いきれないのかもしれないけど。
だけど、間違いなく私たちはただの同級生でしかなかった。
轟焦凍。隣のクラスの何かと目立つ凄いやつ。
あれは確か三年生になってからしばらくした頃の共同訓練が終わったあとで、校舎まで戻る道すがらを何故か私は轟と二人で歩いていた。
前の方では鉄哲とA組の切島が騒いでいて、そこに絡みまくってる物間に一佳の鉄拳が食らわされようとしていたのをよく覚えてる。
三年生にもなれば今さら珍しくもない光景で、それなのに隣に轟がいることだけが違和感だった。轟といえば緑谷や飯田と一緒にいるイメージだったけど、あの日はどうして私の隣にいたのだろう。でもまあ、何か話さないとなって思ったから深い意味もなく「オーロラが見てみたい」というようなことを口にしたんだ。あの頃、数百年に一度とかいう、毎年のようにあるような気もする何かの星の記念すべき年で、世間はすっかり世紀の天体ショーなんて騒いでいた。だから、それに乗っかってみた。
そして、言ってしまったからには、とりあえず出来る限りで北の地を目指してみた。
冷静に考えるとなかなかにとんでもないことをしているけど、今となってはここに来れてよかったって思っている。きっともう会うこともない轟に感謝しないといけない。満天の星空と美しい自然に素朴な町の人たち。私が今、なにより守りたいもの。
そうやってこのまま、ずっとこの町で私はヒーローをやっていくんだって、本気でそう思っていた。
それなのになんで、こんなことになったんだろう。
▽
「それは……つまり、クビってことですか」
「違う違う! 君も随分と立派なヒーローになってきたから、これからさらに上を目指すならあとは経験だろ」
愕然と立ち尽くす私に所長は慌てたように両手を振った。
出勤するなり呼び出されて所長室へと入れば、単刀直入に言うけどなんて不穏な前置きのあと言われたのは「次の春からは別の事務所で働いてもらう」という解雇通告だった。
「こんな辺鄙な土地じゃヴィランの犯罪も少ないし、若いうちにできるだけ様々な経験をしておいた方がいいって、俺は思ってるんだ。そのうえで本当にウチが気に入ってくれているなら、数年後また戻ってきてよ」
私がよほど絶望的な顔をしているのか、所長はいつになくわたわたと焦っている。ウチじゃヒーローとしての経験は養えない。それは確かにここ半年ほど所長がよく口にしていたセリフだった。
私がこの事務所でサイドキックとして働き始めてから戦ったヴィランの数は両手で数え切れてしまう。もちろん戦闘のためのトレーニングは今もきちんと行っているし、特段に身体衰えたとも思わない。それでも、年に数回クラスのみんなと顔を合わせると、私だけが置いていかれているような気がするのは否めなかった。
「ナマエちゃん、君はヒーローになりたかったんだろ?」
「……そうです。でも、ここでだってヒーローです」
「ああ、それは間違いない。だけど、君はまるで迷子みたいにここに来て、ただ立ち止まっているだけのように見えるよ」
迷子、と口にしようとした声は上手く喉を震わせることが出来なかった。
ここに来た私は迷子だったんだろうか。そう言われると、そんな気もしてくる。だって、迷子の人間はとりあえず北を目指す。方位磁石の指し示してくれる分かりやすい真っ直ぐな方向へ。
ぎゅっと唇を噛み締めたまま何も言い返せない私に優しく笑いかけて、所長はゆっくりと椅子に腰を下ろす。どんなに駄々を捏ねたって、一度こうやって決意を固めた所長が意見を変えてくれないことは、もう嫌という程に知っていた。
「それで、新しい事務所って……」
「それならコッチで見つけておいたよ」
観念して口を開けば、所長は嬉々として一枚の封筒を見せてきた。おそらくそこに私の受け入れのための手続きの書類や何かが入っているんだろう。
印刷された事務所名──
「なんと! あのエンデヴァー事務所が君を受け入れてくれるって」
「な、なんで、そんなところが」
「僕もまさかとは思ったんだけどさ、ナマエちゃんってあのショートと同級生だろ? 身勝手に送り出す手前、せめて知り合いがいるところにしようと思ってさぁ。とりあえず有名所から声掛けていこうと思ったら、まさかの一発目でオッケー!」
やっぱり君はすごいなぁ、なんて呑気に口にしている所長とは対照的に、私は叫び出す余裕もないくらいに困惑でいっぱいだった。雄英時代の成績は可もなく不可もなく、ヒーローになってからもそれなりにやっていけるだろうけど、それはつまり一生それなり止まり。そういうヒーロー人生になるんだと思っていた。
だから当然、ナンバーワンのお眼鏡にかなうような人間じゃない。学生のインターンじゃあるまいし、経験は大事ですよねなんて軽く受け入れられるはずもなく、それならどうして、と思えば浮かんでしまうのはあの顔だ。
轟は今もまだエンデヴァーの事務所にいたはず。まさかわざわざ轟が私を推薦してくれるなんて思わないけど、それ以外の理由も思いつかない。
「じゃあまあ、そういうことで残り三ヶ月よろしくね」
「……はい」
所長室の大きな窓。まるで額縁みたいに切り取られたその向こうの景色は一面の銀世界だ。白樺や樅の木々は白く染め上げられ、雲はないのにどこか色の淡い空から降り注ぐ太陽の光を受けて春までは溶けないであろう積雪が輝いている。
「あっ、そうだ。田中さんとこのおじいちゃんが屋根の雪下ろししたいって言ってたから、後で様子見に行ってあげて」
承諾はしたけれど納得はしきれない私を置いて早々に部屋を出て行こうとしていた所長が、ふと足を止めて振り返る。さっきまでの話なんて夢だったんじゃないかと思ってしまいそうになるような気軽さで言いつけられた今日の業務。
次の春、この雪溶けと共にここを出ていく。
心の中で繰り返したところで現実味なんてわかない。所長は私が立ち止まっているだけだと言った。本当に私のためを思って送り出そうとしていることも分かっている。だけどそれなら、私はどこでオーロラを探したらいいんだろう。
ビル群と山間の景色を車窓が交互に入れ替える。
自分で言い出しておいて、この三ヶ月間、事務所の誰よりも寂しそうにして、見送りのときには今にも泣き出さんばかりだった所長の顔を思い出してつい口元がゆるむ。そしてそれが余計に本当にあの土地を出てしまったんだと実感させた。
年に数度の帰省にだって使っているはずの飛行機も新幹線も、まるで別の乗り物みたいだ。がたんがたん、と等間隔の揺れ。窓の向こうの景色はいよいよ見知ったものへと変わり、車内のアナウンスが目的の駅の名前を告げた。
荷物はほとんど先に送ってしまっているので、必要最低限のものだけを詰めた小さめのキャリーケースを引きずって駅を出る。ごった返す人も街も、三年前までは日常だったというのに今やすっかり圧倒されてしまう。着いた早々にホームシックだ。戻りたい。
「ミョウジ!」
ホームに引き返したくなる衝動と葛藤していると、ロータリーの方から私を呼ぶ声が聞こえてあたりを見回す。そして、人を避けるようにしてこっちに向かってくる黒のキャップを被ったイケメンを見つけた。
「あっ、とど……」
私も思わず名前を呼びそうになって慌てて口を抑える。轟が若い世代の女の子たちを中心に人気を集めていることはよく知っている。ネットなんかで熱狂的なファンもいると聞いたこともあるから、たぶんこんなところで名前を呼ぶのはあまり得策ではないと思う。
人の流れを避けるように道の端へ寄った私の元へ轟が辿り着く。目の前に立つ三年ぶりに見る轟は、あの頃より幾分か背丈や体つきが逞しくなっているけど、相変わらずの顔の良さだ。こうして向かい合うとつい気後れしてしまうくらい。
「久しぶりだな」
「うん、久しぶり。わざわざ迎え来てもらっちゃってごめんね」
「いや、気にすんな。じゃあ、行くぞ」
駅舎に背を向けて歩き出す轟の後に私も続く。目的地は今日から私が暮らすことになるマンションだ。
こっちで新生活を始めるということは、当然ながら住む家が必要ということになる。ただ、家選びのためだけにわざわざ何度もここまで足を運ぶのはなかなかの面倒だ。それを慮ってかエンデヴァー事務所の方から家探しを請け負ってくれるとの申し出があり、素直にそれを受けた。
そして今日の入居に際して、事務所から一人、マンションまでの案内をつけてもらえることになっていた。特に誰と言われたわけではなかったけど、まあ轟だろうなとは思っていたので彼の登場にもさして驚きはせずにすんだ。
そっと視線を上げて目の前を歩く轟を見つめる。キャップから覗く赤と白に分かれた綺麗な頭髪。雄英に通っていた頃、クラスも違う私たちの関わりなんてほとんどなく、互いに顔と個性は知っているくらいの同級生に過ぎなかった。まともに会話したのなんて本当にあの合同訓練の帰りくらいで、ほとんどはこの後ろ姿をもっと遠くから見ていたのに、今は手を伸ばせば届く距離にいる。
「事務所来んのは明日でいいから、今日は荷解きでもしてろって」
「そうなんだ、助かる。とりあえず今晩寝れるくらいにはしないとなって思ってたから」
数歩先を歩いていた轟が振り返って歩みを緩めた。自然と私たちは隣合って歩くことになる。人混み、隣の轟。思い出すのはやっぱりあの日のことだ。自分との会話がきっかけで私が北を目指したなんて知るはずもない轟と今こうして再び同じ道を歩いている。そもそも、轟はきっとあの会話自体を覚えてなんていないだろう。
ちらりと横顔を窺えば、視線に気づいた轟もまた私の方へ顔を向けた。よく晴れた春空を背景に見る轟は痛いくらいに眩しくて、思わず瞳を眇めてしまう。
「なんか手伝うか?」
「あー、いいよいいよ。そんなに大荷物じゃないし。力仕事も、こんな仕事してたら大抵は一人で出来るしね」
「まあ、俺も家近ぇから遠慮すんなよ」
「うん、ありがと」
そうこうしているうちに見えてきたマンション。写真はいくつか送ってもらっているので外観も内観も一応は把握していたけど、改めてその立派さにたじろぐ。こんなところの家賃なんて払えないと思っていたけど、都会の給料体制と家賃補助でなんとかなるもんだった。さすがは大手事務所は福利厚生が違う。
「すごい、オートロックだ……」
「向こうでどんなとこに住んでたんだよ」
「いや、そもそもアパートが少ないからさ、事務所借り上げの築三十年近くになるとこに……」
エントランスに入り慣れた手つきでパネルを操作する轟の手元を覗き込む。
あのオンボロアパートも、雄英の寮が綺麗だったせいで最初こそ格差に戸惑いはしたものの、案外すぐに慣れるものだった。それに地元市民の有志というおせっかいで定期的な改修もされていたし。防犯どうのこうのなんてあったものじゃなかったけど、ご近所付き合いは下手なセキュリティより有効だともいう、なんて言い訳じみて口にしていた所長を不意に思い出して、上昇していくエレベーターの階数を眺めている轟に気づかれないように笑いをかみ殺す。
「ここがミョウジの部屋な。これが鍵」
六階の部屋の扉の前で立ち止まると、轟はポケットから鍵を取りだした。それを両手で受け取る。
「本当にありがとね。今日オフだったんでしょ? 今度なんか奢るよ」
「気にすんな。どうせ俺、隣の部屋だから」
「……待って。どういうこと?」
平然と言ってのけた轟の言葉に一瞬思考がフリーズする。そんな私を見て小首を傾げた轟はポケットからキーケースを取り出して隣の部屋の扉の前に立った。そして手に持った鍵を差し込んでみせる。わあ、本当に隣の部屋だ。そういえば歩きながら家が近いとか言っていた。いや、近いってレベルじゃないじゃん。