まるで月と地球みたいにぐるぐると


夏も盛りを迎え、日中にはうるさいくらいの蝉の鳴き声が響くようになってきた。だけど今、すっかり入ることへの抵抗がなくなった轟の部屋に響いているのは私の悲鳴だ。

「待って待って、怖い怖い。絶対、手切らないでよ!」
「大丈夫だ」
「大丈夫って感じじゃないから心配してんじゃん!」

キッチンに立って、いかにも怪しい手つきでジャガイモを切っている轟。その後ろから手元を覗き込みながら、轟の指の無事を願っているのが私だ。もし轟の指がさっくりいったとして、明日エンデヴァーさんのにそのことを聞かれたらなんという気だ。私のためにご飯を作ったからです? 言えるわけがない。

出来ることなら私が代わりに作りたいに決まっているけど、そういうわけにもいかないのは右腕に嵌められた仰々しいギプスのせいだ。今日のパトロール中に遭遇したヴィラン。相手は復数人のグループで、全員見事に私との相性最悪だった。こっちも一人ではないけれど、相性というのが大事なことには変わらない。
結果、右腕がぽきっといった。幸いにも、民間人や建物への被害はなくヴィラン全員を確保できた。私の右腕は最小限の犠牲だった。無論、相対したのが私でなければ、誰も怪我すらしなかったのは承知の上だ。それでも報告を受けたエンデヴァーさんからのお咎めはなかった。それどころか、なんと労ってさえもらった。
ただ、あいにく利き手ないせいで生活は不便になったし、業務には支障を来たす。しばらくは事務処理を任せられることにはなったけど、片手ではパソコン入力も一苦労だ。そんな感じで、目に見えて落ち込む私の元に表れた轟は心配しながら「今日から作れるときは俺がメシ作るぞ」と言った。それが今に至る回想。

「作ってくれるのは助かるけどさ、なんで今日に限ってカレーにこだわんの。得意の蕎麦でいいよ」
「昨日、ミョウジが明日はカレーでいいかって言ったんだろ」
「それはこんな怪我する予定が入ってなかったからだよ! 自分で作ろうと思ったの!」

なんとか野菜をカットするミッションは無傷に終わり、鍋の中で煮込まれた具材が柔らかくなるのを待つ。まさかカレーを作るだけでこんなに疲れる思いをすることになるとは思わなかった。あとはルーを入れるだけだと思えば、やっと肩の力を抜ける。
あからさまにほっとした私を見て、轟はわずかに不満げな表情を浮かべる。

「俺だってカレーくらい作れる。林間合宿でも作ったろ」

確かに林間合宿でみんなでカレーを作ったことがあるのは私だって覚えている。そう、日中の訓練でヘトヘトになりながら鍋を掻き混ぜていた私は本当にちゃんと覚えているんだ。あのとき、A組の方を見て「うわ、ずる……」って思ったことを。

「そんとき轟何してた?」
「火出してた」
「ほら!作ってないじゃん!」

私の言葉にハッといかにも今気づきましたみたいな顔をする轟。それを見て思わず声を出して笑ってしまう。雄英の頃からずっと、轟は表情が変わらないやつだと思っていたけど、実は結構分かりやすいんじゃないかって最近思いはじめている。










「あー、美味しい」
「だろ?」
「そんな誇らしげな顔されましても」

市販のルーで作ったカレーではあるけど、サイズのばらばらな大きめ野菜のカレーは悔しいことに美味しい。食卓に並んだカレー皿はこの間、私が均一ショップで買ってきたものだ。こうして週に何度か轟の部屋で食事を共にするようになって、轟の部屋にある食器が少なすぎるという話になったときに必要そうなの買っといてくれと頼まれたのだ。おかげで棚にある食器は大抵が二つずつセットで置かれている。私の部屋で食べてもいいんだけど、どっちにしろ食器は買い足さねばならず、大半は私が作っているのだからキッチンくらいは自分が提供するという轟の提案にしたがった結果とはいえ、少し気恥ずかしい。
誰か来てこの棚見たら、絶対彼女だと思うだろうな。なんてことを考えながら轟の方を見たら、不意に目が合った。

「そういや風呂はどうする? 手伝うか?」
「……は? え、いや、大丈夫だけど、片腕は使えるし」
「そうか、遠慮すんなよ」

そう言って、また何事もなかったようにカレーを掬う轟。それを見ながら完全にフリーズして、轟の言葉を反芻する私。え? 今、轟は風呂、しかも手伝うって言った? 確かに、利き腕は使えないし面倒そうだなと思ってはいたけど、いくら何でもお風呂を手伝おうとまで言い出すだろうか。

でも轟の様子を見る限り、冗談で口にしているようには思えない。それにたぶん、轟はそんな下世話な冗談を口にしたりしない。それなら本当に善意で言い出したのか。それほど私は異性として見られていないのか。それとも、誰にでもこんなこと言い出すんだろうか。本気で轟が心配になってきた。こういうのって誰に言うべきなんだろう。エンデヴァーさん? それともA組の緑谷や飯田だろうか。自分が困惑のあまり血迷ったことを考えていることに気づいて、ハッと我に返る。

「……待って、私が無理って言ってたらどうする気だったの? 一緒に入る気でいた?」
「いや、それはやべぇだろ。姉さん呼ぶつもりだった」

真顔で首を傾げる轟が一応やばいという認識を持っていたことに安心した。いや、お姉さん呼ぶのもどうかと思うけど。轟のお姉さんのことは話に聞いたことはあるけれど、実際に会ったことはない。そんな初対面の相手にお風呂の世話を頼むのは流石に気まずすぎるよ、轟。
た息とも安堵とも言える息を吐き出してから、止まっていた食事を再開する。

「もし無理でも自分でB組の女子の誰か呼ぶから」
「ああ、それもそうか」
「もうさ、こんな話してるのエンデヴァーさんが聞いたらびっくりするよ」

仕事以外の話をエンデヴァーさんとすることは滅多にないけど、時々轟のことを聞かれることはある。そっちで決めた部屋なのだし、私たちが隣同士に住んでいることは知っているだろうけど、たぶん、こうして週に何度かは轟の部屋で一緒にご飯を食べていることは知らないんじゃないかと思ってる。
そんなことを考えていたら、轟がどころなく不満そうな顔で私を見ていることに気がついた。

「轟、どうかした?」
「前から思ってたんだけどよ、別にさん付けじゃなくてもいいだろ」
「ああ、エンデヴァーさんのこと? 」
「昔は普通に呼んでただろ」

轟の口にした、昔という言葉に引っ掛かって首を傾げる。雄英時代に轟の前でエンデヴァーさんの話をしたことなんてないはずだ。だけど、直接話した覚えはなくても廊下とか食堂とかでエンデヴァーさんの話題を出したことはあった気もするから、そういうのを聞いていたんだろう。

「ほら、なんか本人前にすると緊張しちゃって。今はこっちの方がしっくりくるし」
「なら、別の呼び方にしたらどうだ」
「別って? あ、所長はなんか前の事務所の印象が強くて無理だよ」

エンデヴァーさんのことは本当に尊敬しているし、関係上は所長であることは分かっているけど、「所長」と言葉にしたときに脳裏に浮かぶのはどうしたって向こうにいた頃の日々だ。代案を考えていたらしい轟が何か思いついたのか「あっ」と声を漏らした。

「……オイ、とか」
「名前じゃないじゃん! それで呼べてんの轟だからだよ。あと絶対、事務所で言わないでね。悪ノリする人出てくるから」

エンデヴァーの事務所ともなれば、もっと仰々しく堅苦しい雰囲気を想像していたけど、意外と気さくな人たちも多い。こんな話を聞いたら「一度、呼んでみろよ」なんてからかわれるのが目に見えていた。轟に言えって言われましたって説明したら、許してもらえるかもしれないけど、普通に怒られると思う。
そんな光景を想像したのか、わずかに轟の口元が綻んだのを見逃したりはしない。拗ねたように睨みつけてやれば素直に「わりぃ」と謝られたので許す。

それから急に、轟とこんな気の抜けたやりとりをしていることが可笑しくなってきた。あれからB組での集まりはまだないけど、轟とこんな軽口を言えるような仲になってるなんて言ったら、さぞかし驚かれることだろう。

「ねえ、轟」
「なんだ」
「明日、帰り同じくらいだったらスーパー寄って帰ろっか」

気の合う同僚。今の私たちの関係を言い表すなら、きっとそうなるんだろう。こっちにきて向こうにいた頃よりも、間違いなくヒーローとしての経験は積めている。今もまだ、いつかはきっと向こうに戻るという気持ちは変わらないけど、最近は前よりずっと、ここに来てよかったとも思えるようになっている。そして、それは轟の存在が大きいことにも気づいている。






△ ▼ △ ▼





仕事終わり、部屋に帰り荷物をおろしていると妙な違和感があった。ヴィランなどの気配ではない。ただ、いつもとは違う部屋、あるいは視線。そう思って部屋を見渡して、壁の一点に目が止まる。
──真っ白い壁に蛍光灯の光を反射して光る黒点。

その正体に気づくと、驚きのあまり声も出なかった。忙しいながらも掃除はこまめにしているつもりで、それでも出るときは出るのだと知っていた。B組女子の集まりでも時々ヤツの名前が出ることもある。ヒーローやってても怖いもんだよねぇ、なんて笑って話していたけど、実のところ私が遭遇するのは初めてだった。
向こうにもいないわけではないらしいけど滅多にいないと聞いていたし、事実あのオンボロアパートでさえ現れはしなかった。

だから、これは私の人生で初めてのヤツとの邂逅なのだ。いざとなれば倒せると思っていたけど、実際目の当たりにしてみると想像以上の存在感で、あれに近づくと思うと鳥肌が止まらない。だって、急に飛んだりすんでしょ? と話にだけは聞いていたせいで色々と得てしまった情報が余計に恐怖に拍車をかける。

壁を睨みつけたままこの戦いの負けを悟り、ついポケットの中のスマホに手を伸ばしてしまう。











「急に部屋に来いって言うから何かと思った」
「緊急事態だよ、轟」

今日はお互い事務所で簡単に食事を済ませてから帰ってきていたので夕ご飯を共にすることはなかったけど、だいたい同じくらいの時間に部屋に帰ったことは知っていた轟を電話で呼びよせた。
鳴ったチャイムの音に玄関に走ったドアを開けるなり、轟を部屋の中へと引き込む。そしてずっと動向を見守り続けていた壁の黒点を指差せば、轟は「おっ」とわずかに目を丸くして、どうして自分が呼ばれたのかを理解したようだった。

「アレ、片付けたらいいんだな」

こういうときは理解が早くて助かる轟に必死で首を縦に振れば、部屋の中ほどまで足を進め、そっとその右手をかざす。それから一瞬でフローリングに転がった氷の塊。
昔、琥珀の中に閉じ込められた虫を見たことがあって、その見た目のインパクトもなかなかのものだったけど、これはそれ以上の衝撃だった。おそるおそる近づいて透明な氷を覗き込むと、今にも動き出しそうな六本の肢やすっと伸びた触手の質感の生々しさに竦み上がる。

「わー、ダメだ。これ、コールドスリープ的なやつでしょ? うわぁ、生きてると思うと触れない」
「わりぃ、燃やしちまえばいいんだけど部屋ん中だから」
「あっ、いや、ごめん。轟、ありがとね、助かった。もう部屋戻って大丈夫だよ。これは袋にでも入れて捨ててくる」

轟だって仕事後なのに、わざわざ部屋まで呼び寄せて私の勝手に付き合わせてしまったことに思い至って慌てて謝る。だけど、轟は部屋に戻ろうとするのでもなく私の隣にしゃがみこんだ。

「いいよ、俺が捨ててくる。袋だけくれ」
「え、流石にそこまでは悪いって」
「気にすんな。それに、これ溶かさねぇと氷付けのゴキブリは普通に不審物だと思われるぞ」

その言葉にハッとする。そんなに大きなものではないし、目立たないところに捨てるつもりではいたけど、もし何も知らずに見かけたら狂気的なものを感じる。

「確かに……じゃあ、申し訳ないけどお願いしてもいい? もちろん私も一緒に行くから」
「ミョウジは別に部屋にいていいけど」
「そういうわけにはいかないって。ついでにコンビニにも行こうかな」

明日は一応、内勤だけの予定だから下まで降りたついでに昼食でも先に買ってしまおう。そう思って袋を用意しながら、鞄から財布だけ取りだしてポケットにしまう。そして、平然と氷づけのヤツを渡した袋に入れる轟のつむじのあたりをなんとなく見つめる。

「ああ、じゃあ俺も行く」
「え? 轟もくるの」

立ち上がって玄関へ向かっていく轟。その後を慌てて追いながら、妙な展開になったものだなと内心で首を傾げてしまう。
幸いにもエントランスを出るまで誰ともすれ違うことはなく、駐車場の植木の影で解凍されたヤツは本当にまだ生きていて、解き放たれるなり颯爽と消え去って行った。
そして、轟と並んで歩く夜の閑散とした住宅街。近くのコンビニまでの徒歩五分の道のり。昼の蒸し暑さに比べれば随分と涼しくはなっているものの、相変わらず湿度の高い中を歩くと自然と汗で首筋に髪が張り付く。轟の方に視線を向ければ、街灯に照らされる横顔はなんとも涼しげで、轟も汗かくことなんてあるのかな、なんて考えてしまう。

「どうかしたか?」

そんなときに轟もこっちを向くものだから、予期せず交錯した視線に思わず言葉につまる。どぎまぎと気恥ずかしさを抱える私を不思議そうにしばらく眺めた轟は、それからまた真っ直ぐに道の先へと視線を向けた。この道はもうすぐに突き当たりに差し掛かると知っているのに、等間隔に街灯が並ぶ光景を見ていると終わりなんてないんじゃないかって錯覚を覚えそうになる。

「意外だった」
「え、何が?」
「ミョウジは虫とか平気なのかと思ってた。向こうは山の中だから虫多かったって話してただろ」

ああ、と頷く。夏の初め、蝉たちがようやく長い幼虫の時代から儚く短き地上の世界へと顔を出し始める頃、なんてことはない世間話としてそんな話をしたこともあった。

「私も平気かもって思ってたんだけど、その辺の虫とは威圧感が違った。アレは勝てない」
「ミョウジも個性使ったら簡単に倒せたんじゃねぇか」
「……私のだと直接触れなきゃいけないじゃん。それならまだ新聞紙丸めるよ」

相手に触れることが発動条件となっている私の個性。言ってからそのことを思い出したらしい轟は「ああ」と納得したように頷く。

「やっぱりさ、数億年以上この星で生き抜いてきた相手に、たかが百万年程度の種としての歴史しか持たない人類が勝とうなんて根本的に間違ってるよ。生命としての格が違う」
「なんだそれ」
「前に本で読んだの」

道の先を見つめていた轟が私に顔を向けて首を傾げる。その表情を一瞥して軽く笑い返してから視線を道の先へと向ければ、轟も同じように倣ったのが気配でわかる。あの角を曲がれば、コンビニの明かりが見えてくるはずだ。
並んで歩く私たちは自然と歩幅を合わせている。隣合わせの手と手は触れてしまいそうで、だけど決してぶつかりなどしないのだろうという距離を保つ。地球と月みたいにわずかに距離を変えながらぐるぐると。

「そういえば、初めてミョウジの部屋に入ったな」
「あ、そっか。気が動転してて気づかなかった」

いつもは轟の部屋に私が行くばかりだから、私の部屋に轟を呼ぶような機会なんて今までなかった。この後、お茶でも飲んでいく? と声をかけるか悩んで、結局その言葉ごと飲み込む。

「また出たら、いつでも呼んでくれ」
「そこは出ないことを祈ってよ」

もしも、隣に住んでいるのが物間とか回原とかのうちのクラス男子だったら、私は今日みたいなときに頼っていただろうか。轟よりずっと付き合いも長くて仲だっていいはずなのに、たぶん、ひとりで何とかしようとしていた気がする。それで次の日なんかに大変だったんだって話を聞かせるんだろう。
それなのにどうして今日は迷いなく轟を頼ってしまったのか。理由も分からないまま、轟の前だと私はひどく無防備になってしまう気がする。







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