知っていたはずの距離


「ヴィランがいる限り、ヒーローって世界中どこでも仕事があるわけだよね」
「まぁ、そうだな」

踏み出した足にこつんと当たった小石がころころと転がる。それを目で追ってから顔を上げると、隣を歩く轟はただ真っ直ぐ前を見ているだけだった。
鉄哲の騒がしい声に物間の鼻につく笑い声が混じって騒がしいはずの喧騒が、不思議と心地よく感じられるようになったのはいつからだっただろう。

訓練も終わり、校舎に戻ろうと歩き出した私の隣にさも当然のように並んだ轟。どうしたの? と尋ねることが逆に不自然になるような自然さだったから、何も言えずにこうして二人で最後尾を歩いている。いつも一緒にいるイメージの緑谷と飯田は私たちの少し前にいるのに轟は追いつこうとする仕草もない。だから、とりあえず三年生らしい進路の話題を振ってみた。

「それなら私、北極でヒーローやろうかな」
「北極にはヴィランもいねぇんじゃねぇか?」

にべもない轟の返答にはおそらく悪気はない。まともに話したことはないけど、轟が実力のイメージに反してマイペースでどこか抜けているというのは流石に知っている。
北極と言ってみたのは一番現実味がないと思ったからで、まさか本気じゃないから深く理由を考えたわけでもない。何言ってんだ、とでも笑ってくれないかなと思ったけど、あの轟が笑うわけないかと冷静になる。北極か、と心の中で永久凍土の世界を思い描いて、ふと浮かび上がったもの。

「でもさ、オーロラが見えるよ」
「オーロラが見てぇなら他にあんだろ、カナダとか北欧の方とか」
「そっか、それもありだね」

訓練で疲労した身体を伸ばすように空を見上げる。春らしい澄んだ空には、とうに散ってしまった花の面影が今も残っている気がする。視界の端の轟の横顔が綺麗で、気づかれないようにしばらく見つめていたら、何故か急に寂しくなった、そしてただ遠くに行きたくなった。
オーロラなら遠くに行かなきゃ見えないなって思って、もしもオーロラを見たって話したら轟はどんな顔をするかなって知りたくなった。

──ああ、そうだ。だけど、あのとき本当は、どこにも行くなって、そう言われたかった。ちゃんと話したこともないような轟に、どうしてそんなことを願ったのか分からないから、何か分かりやすい別の綺麗なものと置きかえた。











「……夢か」

枕元で鳴り響いたアラームにパッと目を開けると、真っ白い天井が目に入る。混乱した頭が一瞬ここが雄英の寮と勘違いしそうになって、あれからもう数年が経っているのだとじわじわと理解する。

懐かしい夢だった。
初めて轟とまともに交わした会話。今思い返しても、たったあれだけのきっかけで本当に北を目指すなんてどうかしている。だけど、それだけ抗いきれない衝動だった。今この瞬間を逃したら、あの光みたいなものはもう見えなくなってしまうような気がしてしまった。

静かな室内に反響する雨の音。瞼を閉じて、重たい雲の垂れ込める空を想像する。ここ数日、ずっとこんな天気が続いている。職場で見たニュース番組では秋雨前線の動向を説明する天気予報をやっていて、来週にはこの前線も抜けるだろうと言っていた。

そうしたら今度は、空がどこまでも高くなったような秋晴れの季節がやってくる。作物の実りの季節。そして、次には冬だ。長く厳しく、そして壮大な北の大地の雪景色。そこに今年、私はいない。
寝返りを打ってベッドサイドで充電していたスマホを手に取る。こっちにきて半年、結局一度も所長への連絡はできていなかった。最初は忙しさのあまり後回しにしていて、今は所長の声を聞いて自分がすっかりこっちに根付いてしまったことを知るのが怖かった。




△ ▼ △ ▼





屋上の壁にもたれかかりながら、今日の出勤前にコンビニで買ってきた紙パックのジュースを飲む。目の前に広がるこの街の景色と青く澄んだ空。秋の空は見上げれば見上げるほどに色が濃くなって、宇宙直結って感じがする。
そんなことを考えていたら、がちゃんとドアノブを回す音が聞こえて自然と視線をそっちに向ける。

「あ、轟だ」
「ここにいたのか」
「私のこと探してた感じ?」
「ああ、報告書のことで頼みがあって。でも、休憩終わってからでいい」

壁から起き上がってそっちへ向かおうとしたら手で制される。そして、轟の方から私の隣に並んだ。ここは事務所なのにヒーローコスチュームじゃない私服姿で、ついさっきシャワーを浴びたのか髪はわずかにまだ湿っている。

「もしかして現場帰り?」
「ああ、一晩かかって、朝方こっち帰ってきた」
「それはそれは、お疲れさま」

二日前から轟は他県の事務所と協力で任務に当たっていて姿を見ていなかった。新幹線で少し寝た程度であろう疲れた表情を労わるように微笑みかければ、眠たげな瞳が少し柔らかくなる。
最近の轟はひとりでの任務も増えてきている。今回みたいに他事務所から名指しで協力を要請されることも少なくなく、それもあって以前ほどの頻度で夕食を共にはしていない。
轟が凄いやつだということを忘れていたわけじゃないけど、こうやって実力の違いというものを目の当たりにすると私たちが日頃親しくしていることが急に変な感じがする。B組の中でだって骨抜とか切奈は当然凄い。でも、こんなふうに一緒にいることを不思議に思うことはこれからもないと思う。それは、私たちにクラスメイトという繋がりがあるから。三年間、同じ教室で同じものを見て思い出を共有してきた。その結束は疑いようもなく強い。

だけど、轟は違う。たった半年、同じ事務所で過ごしただけの私たちにそんな確かな地盤などなくて、これからどんどん先へ進んでいく轟と私の距離は開いていく一方なんだろう。そして、それを私は置いていかれたとさえ思えない。一生に一度だけすれ違う彗星。近づいてきた光が同じ速さで遠ざかっていくのを眺めながら、その場で回ることしかできない惑星に出来ることなんてないんだから。

「冷えちゃったらいけないし、戻ろうか。報告書、書いといたらいいんでしょ」

そう言って階段へ続くドアに向かおうとしたとき、不意に腕を掴まれた。思いがけない行動に驚いて轟を見たら、轟もなぜ自分がこんなことをしたのか分からないとでもいいたげに瞳をきょとんと丸くしている。

「轟?」
「……もう少し、ここでいい」

秋空の下、しばらく見つめ合ってから戸惑い気味に轟の名前を呼べば、少しだけ気まずそうに目を逸らされた。私の腕から手を放して、そのまま壁に寄り掛かってしゃがみこむ轟。私もそれ以上何か言うことも浮かばず、踏み出した足を元に戻す。

「今日は天気はいいけど、少しだけ肌寒いね」
「もう秋も終わるからな」

秋の終わり。だけどきっと、この場所で雪が見られるのはずっと先になるだろう。雪も降らないまま冬をどう感じるのか、すっかりもう忘れてしまった。

「轟、雪虫って知ってる?」
「見たことはねぇけど、名前だけなら。白い綿みてぇな虫だろ」
「私も向こうに行って実物を初めて見たんだけど、意外と可愛いんだよ。それから、雪虫は初雪を連れて来る」

初雪? と不思議そうに私を見上げた轟に頷いて返す。
所長について町を歩くパトロールなんだか散歩なんだか分からない業務の途中で白い雪みたいなものが固まって飛んでいるのを見かけた。思わず足を止めると、それに気づいた所長が雪虫だと教えてくれた。そして「もうすぐ初雪が降るぞ」と楽しそうに笑った。
そして本当に数日後には初雪が降った。それは次の年も、また次の年も。

「なんか、嬉しそうだな」
「うん、冬好きだから。向こうの冬って凄いんだよ。寒さもそうだけど、銀世界ってこういうのを言うんだなって思い知った」

向こうで過ごした初めての冬。寒さに雪かきに、その厳しさを痛感しながらも、それ以上にその美しさに圧倒された。

「早朝、まだ陽も昇りきらない時間に外を見るの。ほのかに明るくなった世界は、道も木も全部が雪に覆われて静かに輝いてる。人の気配なんてまったくしなくて、自然と原初の景色みたいなのを想像する」

詩でも読むみたいに語った私の言葉に轟からの返事はなかった。まっすぐに遠くの街並みを眺めながら、それでもちゃんと私の話を聞いてくれているのは空気で伝わってきて心地いいと思ってしまう。

「あと、冬はやっぱり星が綺麗だから」
「昔から好きだよな、星とか宇宙とか」
「……昔?」
「三年になったばっかの頃、合同訓練の帰りに俺にオーロラが見たいって話してたろ」

その言葉に身体ごと轟の方に向ければ、私の勢いに気圧されたのか轟がわずかにたじろぐ。だけど、そんなこと構っている余裕はなかった。吸い込んだ空気が喉に詰まってしまったみたいになかなか声にならなくて、それでも必死に搾り出す。

「あの時のこと、覚えてたの?」
「覚えてるだろ、普通に」
「だって、私と轟が話したのなんてあの時だけだし、とっくに忘れられてるんだと思ってた」

心臓がバクバクと脈打って、信じられない気持ちで轟を見る。たかが数年前のことだとはいっても、じゃあそのとき言葉を交わした人をみんな覚えていられるわけがない。
私だってA組の面々の何人かとは話したことはあるはずだけど思い出せるのは、鉄哲繋がりで切島と何か話したことがあること、女子たちとはそれなりに話したこともあるはずだけど詳しい内容までは朧げだ。だから、轟がそんなことまで覚えているなんて予想もしていなかった。
自然と多くなってしまうまばたき。そんな私を見つめながら、何か思案するように少しだけ眉根を寄せていた轟がゆっくりと口を開く。

「忘れてるっつーなら、たぶんミョウジの方がよっぽど忘れてるぞ」
「え?」
「俺たち、もっと前にも話してんだろ」
「嘘……いつ?」

しゃがんでいた轟が立ち上がって私と向かい合う。この距離だと、私からは見上げなければ轟の顔まで視界に入れることは出来ない。轟の動作を追うように顔を上に向ければ、秋空を背負うその姿にわずかに息を飲んだ。

「雄英入学した日、学校向かってる途中で俺の前にいたやつらがオールマイトの話してて、そしたら俺の後ろ歩いてたミョウジが、オールマイトも好きだけど、エンデヴァーの方が実は好きなんだって話しかけてきた」
「まったく覚えてない……それに待って。私その頃、轟がエンデヴァーさんの息子って知ってたっけ? 私の記憶だと入学してしばらくしてから知って、めちゃくちゃびっくりした気がするんだけど……」

そう、それはちゃんと覚えている。入学して間もない頃、廊下で轟とすれ違った時に誰かが「あれがエンデヴァーの息子か」的なことを言って心底驚いたはずだ。

「ああ、知らなかったと思う。でも、知ってて絡んできたんだと思ったから、そんなこといちいち俺に言ってくんなって言ったらキレられた」
「え、キレたの……?」

完全に虚をつかれた展開にぽかんと轟を見つめたら、神妙な顔つきで頷かれた。でも、ただそう言われるとそんな感じのなんか腹の立つ出来事があったのは思い出してきた。さっさと忘れてしまおうとでも思って、本当に忘れててたんだろう。都合のいい記憶力に愕然として、思わず顔を覆う。

「私がエンデヴァー好きで、アンタになんの関係があんの? って睨まれた」
「うわー……嘘でしょ、恥ずかしい。しかも感じ悪いね……今さらだけどごめん、轟」
「いや、俺も結構感じ悪かった、と思う」

目に見えてショックを受ける私を励まそうとオロオロする轟。でも確かに入学した頃の轟ってもっと怖いイメージだった。顔を覆っていた手をおろして轟を見れば、左右で色の違う綺麗な瞳もまた私を見つめている。そのことに、なぜかひどく安心してしまう。

「まだ、見てぇか?」
「え?」
「オーロラ」

轟の唇の動きを目で追って、その声を耳にしたとき、身体の内側から焼け付くような焦燥が込み上げた。オーロラを見たいと言いながら、本当に探しているものがそれじゃないことにはずっと気づいていた。ただ、あのときの抗いきれない寂しさの理由として、代わりにできるものが他に思い浮かばなかっただけ。だから、あの衝動は時間が経つにつれて少しずつ薄まっていたはずなのに、どうして今さらこんなにも突き動かされているのだろう。
一人きりの事務所の屋上で、幾度となく思い描いた夜空に浮かぶ赤と青の光の帳。私は今、確かにあの光が欲しい。

「……うん、見たいよ」

秋の空気に溶けてしまいそうなくらい、透き通った声だった。それを聞いた轟の瞳がわずかに揺らぐ。空を見上げれば、相変わらずどこまでも澄み切った青色で、このまま宇宙まで届けばいいのにと、そう願った。






△ ▼ △ ▼






街中のショーウィンドウを覗き込むと、どこもかしこも秋物セールなんてポップが目に入る。日に日に寒さは増すばかりで、ついこのあいだ色づいたばかりだと思っていたイチョウや紅葉は風が吹くたびに一枚一枚その葉を散らしていく。世間はすっかり冬の様相だ。
そのせいもあるのか最近は前より少しだけ仕事も落ち着いていて、今日はいつだかの休日撤回の緊急呼びだしの分だと突然のオフを貰えた。急な休みだったので誰かを誘うのも気が引けて、とりあえず一人で街に出てみた。何か気に入った冬物のアウターがあればいいな、くらいの気軽さで散策して歩く。
街を行き交う人たちは楽しそうに買い物を楽しんでいて、こういう光景を見ていると平和ってやつが身に染みる。特にこの半年は、ほぼ毎日のようにヒーローコスチュームに身を包みあくせくとヴィランと戦ったり、事故を防いだりしてきたわけだ。時々こうして街の人のありふれた日常の暮らしの中に身を置くと、私の努力はちゃんとこういうところで実を結んでいるんだと嬉しくなる。

そんなことを考えながらチェーン展開のコーヒーショップの前を通って、ふと足を止める。入口に置かれたイーゼルに立て掛けられたブラックボードには手書きの新作商品の案内があって、そういえばコレ気になってんだと思い出した。飲んでいこうか悩んでいたら、背後に人の気配を感じて慌てて道を譲る。

「すみません、どうぞ先に……あれ、爆豪?」
「あ?」

店の入口を思いっきり塞いでしまっていたことを謝ると、そこに立っていた人物に見覚えがあって目を見張る。私服姿で目深く帽子も被っているけどけど、流石にこの距離じゃ見間違えない。A組の爆豪だ。だけど、その爆豪の私を見る目は訝しげで絶対に私が誰だけ分かってないなと伝わってしまう。そういえば、爆豪はよく他人のことをモブ呼ばわりしていた。

「あ、ごめん。覚えてないよね。B組だったミョウジです」
「……知ってるわ」
「え? 爆豪、私のこと覚えてんの?」
「うっせぇ。つか、入んならさっさと入れや」

足蹴でもしてきそうな勢いの爆豪に気圧されて、思わず一緒に店内入ってしまう。ちょうど昼時ともお茶時ともつかない時間のせいか人はまばらだ。頭上のメニュー板をとりあえず眺めていたら、レジに向かおうとしていた爆豪が振り返る。

「何にすんだよ」
「んー、新作かなぁ」
「買ってったるから、目立たねえ席取っとけ」

一瞬、言葉の意味が分からなくて首を傾げると苛立たしげに舌打ちをされた。

「え? 一緒に座る感じ?」
「ここで別なのも何か変だろーが」

爆豪がそんなこと考えるなんて完全に予想外で、ついまじまじとその顔を見つめてしまう。そうしたら爆豪の「早く行けや」とキレ気味の怒鳴り声が向けられて、跳ねるように背筋を伸ばす。そして慌てて二階席を目指して階段に向かった。
二階に上がってみたら私以外の客はおらず、それでも一応なるべく隅の席を選んで椅子に腰をかけた。しばらくぼうと壁に掛けられた絵画を見つめていたら、カップを二つ持った爆豪が上がってくる。

「ありがとう。これお金、きっちりお釣りなしです」
「おー」

テーブルにカップを置いた爆豪が私から受け取った小銭を財布にしまう。その横顔を見つめてから、手元に引き寄せたカップにストローをさした。

「でも、こんなとこで爆豪に会うとは思わなかったよ。爆豪も休み?」
「そうだけど、今日は事務所の下見」
「下見?」

爆豪の言葉をそのままオウム返しに口にする。そんな私を一瞥した爆豪は、そのまま視線を落として自分の分のカップに口をつけた。そして、少し躊躇うような間を置いてから口を開く。

「来年から独立すんだよ」
「え!」
「声でけェわ、カス!」

私より声のでかい爆豪の罵倒に慌てて口を噤む。
独立。どこかの事務所に所属しながらヒーローをやっていれば、少なからず意識はするはずのもの。私たちはまだ四年目だなんて思っていたけど、本当はもう四年目とも言わなければいけない。だから所長も私をここに送り出したのに、どこかでずっと目を逸らしていた気もする。

「そっか、もう独立なんてやっぱ爆豪は凄いな」

焦りを誤魔化すように笑って肩を竦めて見せれば、なぜか胡乱な目を向けられた。

「何そんな驚いてんだ。てめぇんとこの轟もすんだろ、独立」
「……え?」

完全に虚をつかれた爆豪の言葉に、今度はまともに声も出せなかった。私の反応が予想外だったのか爆豪も驚いたように目を丸くする。

「は? 聞いてねぇのかよ」
「……うん、初めて知った。最近の轟、事務所に居ないことも多いし、忙しそうだとは思ってたけど、そういうことだったんだね」

納得したと笑うと、爆豪は何か言いたげに私を見た気がしたけど、それ以上何を言われることもなかった。轟が爆豪ととびきり仲がいいというイメージはなかったけど、たかが再会して一年足らずの同僚よりもA組の仲間のほうが信頼されて然るべきだ。私だって轟とウチのクラスのみんなを線引したことだってあった。
それなのに、なんで私は今、何も知らずにいたことに傷ついてなんているんだろう。






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