臆病者の天秤


朝のニュースで言っていたとおり、今日は今期一番の冷え込みとなって、冬用に変えたコスチュームを着ていても身体の芯から冷えるような寒さだった。
それなのに今日は丸一日ずっと外で過ごさねばならない任務で、よりによってこんな日じゃなくてもなんて心の中で悪態をつきながら、コンビニで買った肉まんを齧り昼休憩を取っていた。肉まんの湯気と私の吐き出した息が、白く凝結して灰色の空の下で混じり合う。
片手でスマホをいじっていれば、ぽんとメッセージの受信を知らせる通知が届く。開いてみれば轟からで『今日は寒ぃから鍋食おう』という夕飯の誘いだった。

それに思わずふっと笑ってしまってから『了解!』とスタンプを送り返す。すぐに既読の着いた画面を閉じて、何鍋にしようかな、なんて考えながら空を仰いだ。
灰色に重々しく広がる雲が覆い尽くす寒々しい冬の空。もしかしたら今夜あたり雪が降るかもしれない。季節はもうすぐ一年をまわろうとしているのだ。
爆豪と会った秋の終わりから、もう一ヶ月以上がとうに過ぎている。だけどまだ、轟からはなんの話を聞けていない。










「なんか手伝うか」
「んー、具材切るだけだからカセットコンロと鍋出しといて」

帰りにスーパーで買ってきた白菜やキノコたちを切りながら轟に返事をする。先週、轟がホームセンターで買ってきたという土鍋とコンロ。こんなに早く活躍することになるとは思わなかった。
今日は定番に水炊きにしたけど、次は変わり種に挑戦してみてもいいかもしれない。前にネットで見たトマト鍋とか美味しそうだった。そんなことを考えながら、ふとネギを切っていた手が止まる。
この冬、あと何回くらいこうして轟と夕食を食べることが出来るだろう。来年も私は間違いなくこのマンションに住んでいる。だけど、轟は──

「ミョウジ」
「え?」
「手、止まってんぞ」

はっと我に返るとテーブルのセッティングが終わったらしい轟が不思議そうに私を見つめている。

「ごめん、ぼーっとしてた」
「刃物使ってんだから、怪我しねぇように気をつけろよ」
「轟にそれを言われる日が来るとは……」

わざとらしく落ち込んだフリをしながら、切り終えた野菜たちを轟に手渡す。それを受け取った轟もさも当たり前のように食卓へと運んでいく。流れるような自然さでこんなやりとりが出来るくせをして、私たちの距離は思っているよりもずっと遠い。そしてこれから、ずっとずっと離れ続けてしまう。

鍋に具材を入れ込んで蓋をしたまま火が通るのを待つ。こうして向かい合って座ってから、轟の様子が少しおかしい。いつもならこういうとき、もっと隠しきれないそわそわした感じで蓋で隠された鍋の中身を気にしているのに、今日はどこか緊張した面持ちに見える。
そんな雰囲気につられて私まで話しかけるのを躊躇っていたら、鍋の蓋をじっと見つめていた轟がゆっくりと口を開いた。

「爆豪に、会ったんだってな」
「あ、うん。先月だけど」

突然の爆豪の名前に一瞬面食らって、それから轟の今日の現場が爆豪と一緒だったことを思い出した。

「話、聞いたんだろ」
「……うん、聞いたよ。独立するんだってね」

何の話を言われているかはすぐに分かってしまう。そして轟が、爆豪から話を聞いていることを知ったから、私に独立の話をする気になったのだということも。込み上げそうになる失望を押し隠して、無理やりに笑顔を貼り付ける。

「爆豪が独立するのもびっくりしたけどさ、やっぱり轟も凄いよね。だけど、これから私たちの中からも自分の事務所持つ人も増えてくんだろうな。私はとりあえず、もうしばらくはここでお世話になって、いずれは向こうに戻れたらと思ってるけど、独立まではまだ考えられないや」

轟の顔を見れないまま早口に紡いだ言葉たちが、行き場をなくして部屋の中をさ迷っているような気がする。気まずい沈黙が続いて、居たたまれなさに何かしら理由をつけてキッチンにでも立とうかと思ったとき、先に動いたのは轟だった。

「なあ、それは牽制か?」
「牽制?」
「独立したらミョウジにはついてきて欲しいって、そう頼むつもりだったのに、向こうに戻るつもりだとか言うから」

困ったように眉を下げる轟。だけど、それより間違いなくもっと私の方が困っている。二、三度大きくまばたきをしてから、なんとか轟の言葉の意味を飲み込む。

「な、にそれ……今まで独立の話すらしてくれてなかったじゃん」
「それは、誘うつもりだからこそ、もう少し準備が整ってから言うつもりだったんだ」

バツが悪そうに少し声を潜める轟。私たちの間では真新しい飴色の土鍋が静かに煮え立つ瞬間を待っていて、話の唐突さとこの部屋の変わりなさ、その落差で脳が麻痺しそうになる。それでも、轟の隣に私が釣り合わないことくらいは回らない頭でも理解出来てしまう。

「なんで、私なんて」
「もう、ミョウジにどこにも行って欲しくねェ」

轟にしては珍しい強い声音にびくりと背筋が伸びる。そんな私を気遣うように視線を寄越した轟は、それからすぐに悔いるように目を伏せた。

「あのとき、本当はどこにも行くなって、そう言いたかった」

消え入るような力ない声。あのとき。たったそれだけの言葉なのに、それがいつのことかなんて考えるまでもなく分かってしまう。
花の面影を抱く青空、そこに映える赤と白の髪が風になびいて揺れる。忘れることが出来なかった、遠い過去の日。

「引き留めねぇとミョウジは本当にどこか行っちまいそうな気がして、だけど俺にはそんなこと言う資格もないのが分かってた」

なんてことだろう。あの日、私たちはお互いに似たようなことを思って、それでいて決定的にすれ違ってきた。だって、自分の内側から込み上げる焦燥の理由も分からないくらい、私たちの間には曖昧な繋がりしかなかったのだから。それなら、今なら、その資格を得たと、そういうことなんだろうか。

何を言っていいか分からず黙り込む。その間にもふつふつと土鍋から漏れ出す蒸気の勢いは増していて、見かねた轟が火を弱めて蓋をはずす。白い湯気が一気に立ち上って、徐々に霧散し消えていく。
互いに何も言わないまま自分のお皿に取り分けて、箸を手に取る。だけど、熱々の具材はなかなか食べ進めることが出来ず、張り切って用意した様々な種類の薬味は、さっきまで浮かれていた私を物語ってるみたいで虚しさを際立たせる。轟がどこまでこの展開を予想していたかは知らないけど、こんな日に鍋なんて選んだことを恨んだ。

「なあ、もうオーロラなんて諦めろよ」
「……なんで、そんなこと言うの」
「俺は、ミョウジが好きだ。だから、そばにいて欲しい」

いっそ暴力的なくらいに真っ直ぐぶつけられた轟の言葉。それに結び付けられるみたいに形を持っていくのは私自身の恋心だった。
轟と再会して、学生時代には知ることも出来なかった様々な一面を知るたびに、一見分かりにくい表情の変化に気づけるようになるたびに、あの日掴めなかった熱がまた燃え上がるのを感じていた。

だけど、その正体を認めるわけにもいかなかった。これを恋だと認めてしまったら、私はもう北を目指す理由がなくなってしまう。ずっと何かを探し求めることに慣れてきて、それを失うことが怖かった。
衝動のまま住みついた北の地で過ごした三年間。その間に、私は所長も町の人も、あの土地のすべてを好きになったつもりだった。はじまりの理由など関係なく、かけがえのない宝物だった。
だけど、轟を好きだと認めてしまえば私はもう向こう戻ることを選ばないかもしれない。あんなに大切だと思ったものを、あっさりと手放せる。そんな薄情な自分を知りたくなかった。

それに、轟に好きだと言われたことに対して反発する心の理由はそれだけじゃない。私なりにちゃんと持ってるヒーローとしての矜恃。それが愛だの恋だのなんて理由で自分のもとに召し抱えようとすることを許さない。

「私が好きだから、自分の事務所に来いってこと? 言ってる意味、分かってる?」

苛立ちを隠す気もなく轟を睨みつける。こんなの裏切りだ。道はまっすぐではなかったかもしれないけど、憧れを貫いてここまでヒーローをやってきた私への。そして、敵を前にしても真っ直ぐに対峙する揺るぎないヒーローとしてのショートへ抱いた尊敬への、冒涜だ。

そんな私の視線を、決して目線を逸らすことなく受け止める轟。そのまなざしに潜んだ意志の強さに、思わず私の方が怯みそうになる。

「わりぃ、言い方が悪かった……それは違う。ただ好きなだけなら、今のままでいられるだけでいい。それに、でなきゃそもそも事務所に入れることにも賛成してねぇ。俺はミョウジの力を認めているから、ヒーローとしてもついてきて欲しいと思ってる」
「私の力って……」

轟にここまで言ってもらえるだけの力が自分にあるとは、とてもじゃないけど思えなかった。こっちに来てからは自分の未熟さを痛感することも多かったし、そして何より並ぶ相手が轟となればその差は歴然だ。だけど、それを言葉にしてしまうのは情けなさすぎて、言い淀んだまま次の言葉を紡げない。

「──私にしかできないことなんて、ひとつもなくていい」

唐突な轟の言葉。だけど、そのセリフには覚えがあった。でも、それを語った相手は間違いなく轟ではなかったはずだ。私の戸惑いに対して、轟は少しすまなそうに視線をさ迷わせてから深く息を吐き出した。

「勝手に聞いて悪かった。忘れもんして教室に戻ろうとB組の前に通ったとき、ミョウジが先生に話してんの聞いちまった」

そうだ、あれはインターン先で自分の思うような立ち回りが出来なかったことが歯痒く悔しくて、みんなが寮に戻った後もひとりで教室に残っていた日のことだ。沈んでいく夕日に教室がオレンジの海みたいになって、机の影を順番に目で追いながら前日の反省点を繰り返し思い返していた。
そんなところに先生がやってきて、その姿を見たら思わずクラスの誰にも話せなかった弱音がぽろぽろと溢れ出して止まらなくなった。

──積極性がない、そう言われました。そして、確かに昨日の私はそうだったと思います。やりたいことはあるのに、それができるだけの力が足りない。私の理想は実力がなければ、ただ消極的に見えるだけなんだって思い知りました。
──個人の力というのは当然とても大事なことだけど、その力がなければ敵わないことがあったらいけないと思うんです。誰かを救いたいと思ったとき、あの人じゃなかったからなんて言い訳にもならない。
──先生。私は、私にしかできないことなんてひとつもなくていい。その代わり、どんなときでも誰かの代わりになれる、そんなヒーローになりたいんです。

情けなく泣きじゃくる今よりずっと未熟な私の声がよみがえる。この日のことは今まで誰にも話したことはなかった。だから、私と先生しか知らないはずの一幕。あそこにまさか轟がいたなんて思いもしなかった。

「その話聞いて、ミョウジってこういうヤツだったんだって少し意外だった。それから自然とミョウジのこと目で追うようになって、あの合同訓練のときも派手じゃねぇけど、ミョウジの動きがあるからこそ出来てる連携が多くあって……あの日、ミョウジが言いたかったのはこういうことだったんだって分かった」

己の至らなさを痛感して、私だってそれなりに努力をしてきた。前線に飛び出すわけではない。観察眼も対応力も、培ってきたすべてをフル活用して仲間の誰かが次の動作に移るためのわずかな隙を補う。あの日の訓練は確かに自分でも及第点の働きだった。だけど、それをまさか轟からも評価してもらえていたなんて思わなくて、かあと耳の奥が熱くなる。

「だから、あの後そのこと話しかけようと思ったら、急に北極行きてぇとか言うから……戸惑った」
「それは……なんかごめん」

その戸惑いを思い出したのか、轟の眉がわずかに下がる。きっとあの日だって轟は今と同じような表情をしていたのだろう。私がそれに気がつくことが出来なかっただけで。

「あのあと結局、卒業までもうミョウジと話す機会もなくて、それがずっと胸ん中でつっかえて気持ち悪かった。だからミョウジと会おうとしたらインターンで行ってた事務所じゃねぇっていうし、ヒーローネットワークでも名前見なくて……」

轟が本当に私と会おうとしていたことに目を見張る。そして、まさか私がそんなにも見つけることが困難な存在になっていたことにも。
B組の中では私の所在はみんなが知っていることだったけど、A組には知れ渡っていなかったのか。それにヒーローネットワークも、向こうに行ってからの活動といえば慈善活動がメインの地味なものだったから、そのほとんどを所長の名前で報告書を書いていた。野生動物とばかり戦っている話は仲間内ではよく笑い話として話すけど、それが公式記録になるのは少し恥ずかしいし。

だからそう、私の名前が初めて目に留まるほど大きく載ったのは──。
ふと、私の考えを見透かしたみたいに轟と視線が交わる。

「去年、あんなとこにいるって初めて知った」
「……市街地でのわりと大規模の戦闘でしょ」
「ああ」

所用があって所長と出掛けた道内の大都市。そこで市民に危害を加えようとするヴィランと鉢合わせた。それは問題なく取り押さえることに成功したものの、警察へ連絡すれば同じような事件が市内で同時的に多発しているという。そこで私たちもあちらこちらを走り回って数人のヴィランを倒すことになった。そんな事件だった。思えば、所長が私にヒーローとしての経験を説くようになったのもあの頃からだった。

「ミョウジの居場所も分かって、今度はどうやって連絡をとるか考えてたとき、ミョウジの移籍の話がきたこと知って、気がついたら親父に頼み込んでた」

分かってはいたけど、私がここに来ることになったのは轟の後押しがあったからだった。そうでもなければ、卒業以来ほとんど名も聞いたことのないような私がこの事務所の門をくぐれるはずもない。だけど、ずっと想像もできずにいた轟にそこまでさせた理由は、あまりにも思いがけないものだった。

「あのままじゃ一生会えないまま、本当に北極でも行っちまうんじゃないかって思った。それに、今も……」
「さすがに、北極は行かないよ」
「でも、向こうには帰る気なんだろ」

本気で不安そうな轟に思わず笑ってしまえば、射抜くような視線を向けられる。轟に想いを告げられたことで、私自身の気持ちが形を持ってしまったことで、これから天秤にかけなくてはいけないもの。

正直に言ってしまえば、轟にヒーローとしての私をここまで評価してもらえたことは素直に嬉しかった。どこか平和ボケしかけていた意識が、こっちにきてから改めて明確な芯を取り戻しつつある。轟と一緒にいれば、私はもっと目指したかった場所に近づける。そして、たぶん、とても幸せになってしまう。

あの地を旅立つ私を見送りに来てくれた人たちに「いつか絶対帰ってくる」と約束した言葉、「待ってる」と応えてくれた笑顔。私がここで轟を選ぶことは、そんな大好きな人たちへの裏切りになるだろうか。失望されるところを想像して、ぐっと心臓が押し潰されそうになる。

「私、向こうでヒーロー……」
「じゃあ、俺も行く」

私が言い切るよりも先に、逃げ道を塞いでくるかのように言葉を発した轟。驚いて轟の目をじっと見つめたら、その綺麗なアーモンド型が苦しそうに歪む。

「……どこでだって出来んだろ、ヒーロー」

あの日の私の言葉への皮肉。なんとか絞り出された声は、そんなこと出来ないこと轟自身も分かっていることを痛いくらいに伝えてきた。
確かにヒーローはどこでだってできるのかもしれない。
でも、誰もが求められるわけじゃない。
轟はもっと多くの人を救える場所にいるべきだ。それは長閑で平和なあの町ではない。

だからやっぱり、選ぶのは私なのだ。どちらに手を伸ばして、どちらを捨てるのか。

「新しい事務所って年度明けから?」
「いや、土地の契約の関係で夏前になった」

ほとんど手もつけられないまま冷めてしまった手元の小皿。それを意味もなく見つめてから、覚悟を決めるために深く息を吐いて吸う。

「少し……時間が欲しい。どっちの答えも」
「わかってる。待ってる」








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