回帰する場所


全体的にシックに統一された小洒落た店内。仕切られた個室の小窓から少しだけ覗き見れるカウンター越しの厨房の様子。白いエプロンを身につけたシェフがフライパンを振るうと一気に炎が立ち上って「うわ、フランベだ!知ってる!」と内心テンションが上がる。
そんな不躾な昂揚に気づいた物間に視線で窘められて、慌ててきちんとテーブルに向き直る。白いクロスの掛けられたテーブルの上に並ぶオードブルの小皿とワイングラス。そして、目の前の物間。

「で、どうせ轟くんの話だろ」
「別に、轟の話だとは限らないじゃん」
「じゃあ、何の話か言ってみなよ」
「……轟の話です」

グッと押し殺した声に物間が馬鹿にするように鼻で笑う。相談する相手を間違えたと不貞腐れつつも、やっぱり物間以外に話せる話だとも思わなかった。私が北へ行くと決めたとき、唯一本気で叱りつけてくれた物間。
事務所のこと、轟への気持ちのこと、とても一人では抱えきれないと判断して、仕事終わりに物間に連絡をとった。ご飯奢るから相談に乗って。そのメッセージに返ってきたのは、この店のURLだった。
名前からしてフレンチの店であることは分かって財布の中身を気にしたけど、フランスの家庭料理を気軽に楽しんでもらうことを売りとした価格設定は比較的リーズナブルなものだった。黙ってれば顔もいいし、こういうセンスもいいんだよなと改めて感心した。
そんな物間は目の前で面倒くさそうにため息を吐きだす。

「それで、内容は?」
「……轟の新しい事務所に、誘われてて」

許可もなく、告白されたことまで他人に話すのはいくら相談と銘打っても違う気がするから今日はそこまで話す気はなかった。別にすべて物間の言う通りにしようと思って相談するわけでもない。ただ少しだけ、話を聞いてもらって楽になりたいと思ってしまった甘え。
もっと大袈裟に反応して「へェ、あの轟くんがねェ!」なんて鼻についたような哄笑をあげると思っていた物間が存外に静かなので、不思議に思ってその顔を窺う。そして思わず息を飲んだ。なんで物間がそんな真剣な顔してんの。

「君たちが再会したって聞いた時から、どうせ面倒くさいことになるとは思ってたさ」
「なにそれ、再会っていったって、学生時代に私たちに大した繋がりなんて……」

本当は細々と私が思っているよりも轟と関わることはあったのだけど、そんなことを物間が知る由もない。慌てる私と対照的に物間は随分とゆったりとした手付きでグラスを手に取り、中に注がれた白ワインを一口飲んだ。

「だって、轟くんは昔からミョウジのことが好きだっただろ」
「は?」
「あいつは、合同訓練でも、廊下ですれ違う時でもB組と一緒になるといつも最初にミョウジを探してたんだから」

自然と目で追うようになって、そんなことを確かに轟も言っていた。だけど、私でさえ気づいてなかったことを物間が気づいていたなんて思いもしなかった。驚きで声も出ない私を置き去りに、物間は話をやめない。

「三年になったときの合同訓練のでもそうさ。だけど、あの日は珍しく二人で何かを話しているなと思ったら、突然ミョウジが北に行くなんて言い出して、呆れてモノも言えなかった」

嘘つき。人のことをあんなに本気で怒鳴りつけておいて忘れているはずがない。そうやって言いたいのに、声帯が凍りついたように固まって声が出ない。

「そして、ミョウジだってあの頃から轟くんが好きだった」

ぱん、と張りつめていた何かの砕ける音が身体の内側から聞こえた。自分でだって気づいていながら目を逸らしていた事柄を、こうやって言い当てられて、逃れようのない真実となってしまった気持ち。

「ちょっと待ってよ、私たちはやっと……」
「へえ、ついに告白されたんだ」

関心というよりは嘲るような表情に、自分が掘ってしまった墓穴に気づいてかあと頬が熱くなる。だけど物間は、そんなことなどたいした驚きでもないと言うように肩をすくめる。

「別にずっと好きではあったんだろ。ただ気づいてなかっただけ。それが、一緒に過ごす時間が多くなってやっと認識が追いついたんだ」

それは轟から想いを告げられてから今日まで、一人であれこれと思い悩みながら私も考えていた。轟と話してから湧き上がったオーロラへの執着と北への衝動。そして、それが本心ではないという自覚。
私はあのとき、轟に恋をした。もしかしたら、兆候はもっと前からあったのかもしれない。心のどこかでずっと轟を意識して、あの日、春空を背負う姿に完全な恋に落ちていた。そして、その名前も所以も分からずに、ただ迷子になった。

「君たちはお互い、自分の感情に鈍いんだよ」

突き放すようで、なのに慈愛のこもった声だった。

「……なんで、そのとき言ってくんないの」
「言うわけないだろ? 憎きA組のやつを、ウチのミョウジが好きだなんて認めたくもない事実。なんでそれをわざわざ教えてやらないといけないのさ」

少し拗ねたように口にすれば、物間はハッと鼻で笑う。B組の誰かを呼ぶときは枕詞のように「ウチの」と付け加える身内バカ。

「大体、言ったところであの頃のミョウジは聞く耳も持たなかっただろ」
「そんなの、分かんないじゃん」
「分かるよ。ミョウジはそんな器用なやつじゃない」

今度は馬鹿にするでもなく、平然と断言された言葉に何も言い返せなくなる。ヒーローを目指すための学び舎で恋をする。私は決してそれを否定はしないし、恋をしたから強くなれることも確かにあると思う。

だけど、あのときの私は理想を追うのに精一杯で、恋に割くような余裕はなかった。そんな状態で恋をしていたなんて、指摘されたところで決して認めはしなかっただろう。
だから物間は、ヒーローとしての私に北へ行く意味を問いただした。ヒーローとしての理想があり、その上で無自覚なまま恋を抱いた私の中で湧き上がる衝動がなんとか折り合いをつけることが出来る場所、それがあの場所だった。

──君のヒーローとしての理想はなんなんだ。
あの二人きりの共同スペースで、まるで自分のことのように悔しそうに私を睨んだ物間のことを思い出す。
──物間だよ。
自分だけのものなんて何一つ持たないまま誰かの代わりになりたい私にとって、物間の個性は初めて見た時から理想そのものだった。

でも、そんなことを言われるのを物間はきっと嫌がるから、今まで一度も言えないできた。だけど、お互いにあの頃より成長できたと思える今なら、伝えたって許されるだろうか。
物間は出会ったときから雄英の誰よりもずっと私の理想で、なんだかんだあんたをずっと尊敬してきたんだって。

「言ったことなかったけど、私ずっと物間に憧れてたんだよ」
「知ってたよ」

躊躇いもない予想外の返答に思わず面食らう。だけど、当の物間は今さらそんなことかとでも言いたげな何食わぬ顔をしている。

「ミョウジはさ、自分で思っているより分かりやすいんだよ」
「……嘘だ。みんな轟へのことだって知らなかったじゃん」
「じゃあ、僕だけがミョウジの感情に敏いのかもね。さて、そろそろメインでも頼もうか」

動揺する私のことなど気にも止める気のない物間を睨みながら、ふとある可能性に気づく。そして、深く考える間もないまま唇から転がり落ちるようにこぼれてしまった。

「物間ってもしかして、私のこと好きだった頃あった?」
「……君はさ、なんでそう突拍子もないかな」

メニューを閉じながら深くため息を吐き出して、アシッドブルーの瞳がまっすぐに私を見つめる。真鍮製のソケットに取り付けられた曇りガラスの照明が、ゆらりゆらりとその光を反射させている。

「……僕は、B組みんなが好きだよ」
「物間の素直すぎるデレだ、珍しい! 今度みんなに話そ」
「いいけど、今日はミョウジの奢りだってことを忘れないでくれよ」
「あっ、ちょっと……お手柔らかにね」

ひとつのメニューを二人で覗き込みながら、私にはよく分からないカタカナだらけの料理名を物間と選んでいく。そのときふと、ページをめくる物間の手が止まった。

「こっちに来てから、向こうには一度も戻ってないんだろ?」
「あー、うん。色々と忙しかったし」

色々と理由をつけては連絡さえ取れないままでいる気まずさ。所長からの連絡もないのは、私が忙しくしていることを気遣ってだと分かりながら甘えきってしまっている。

「今度、戻ってみたらどうだい?」
「え?」
「今なら、見えるようになったものもあるんだろ」

物間がそんなこと言うなんて、と言おうとして開いた口は何も言えないままゆっくり閉じた。だって、決してこっちを見ようとしない物間の横顔が、いつもより少しだけ寂しそうに見えてしまったから。







線路をまたぐ跨線橋の上で足を止める。まっすぐに伸びたまま闇の中へ消えていくレール。空を見上げても、街の灯りを含んだグレーの雲が空を覆い尽くして星を見ることはできなかった。だけど確かにこの雲の向こうには、人間に見られることなど関係なく、いつまでも寿命の尽きん限り輝き続ける星々がいる。
その事実と気高い美しさに今はどうしようもなく背中を押される気がした。

ポケットから取り出したスマホを耳に当てる。規則正しく鳴り響くコール音、それがぷつりと途切れる。

「ミョウジ、どうかしたか?」
「あ、轟。今って……」

そこまで言いかけたところで、電話越しに騒がしいエンデヴァーさんの声が耳に届いた。

「ごめん、まだ仕事中か。終わったらかけ直すよ」
「いや、今パトロールから戻ってきて帰るとこだったからいいよ」

かたん、と何かの揺れる物音はおそらく轟がデスクを立つ音だろう。廊下で話すつもりなのか、帰り支度をするつもりなのかは分からないけど、このまま通話を続けることに問題はないらしい。

「今日はB組の物間と会ってきたんだろ」
「うん」
「どうだった」
「楽しかったよ。フランス料理に詳しくなった」

なんだそれ、と轟が微かに笑った声が耳元に届く。電波に乗った声はいつもより少し違う気もするけど、それでもやっぱり轟の声で、滅多に電話で会話をすることなんてないから、少しだけこそばゆいような気がする。美味しかったから今度行こうか、なんて返しながら、すうと視線を上げた。
遠くにある信号機がちかちかと闇を照らすように点滅し、赤や白、青色の光の組み合わさる街の夜景。ふと、星空みたいだなと思った。

「ねえ、轟。今どこにいんの?」
「俺か? 事務所だ」
「それは分かってるって。事務所のどこ? 更衣室?」
「いや、その途中の階段。そこの踊り場」

もうすっかり通い慣れた事務所。轟がいる階段の踊り場を想像することは難しくはなかった。あそこにある大きな窓、そこからはきっと私が見ているのと同じような夜景が広がっているはずだ。

「私さ、向こうに戻ろうと思う」
「……それが、答えか?」

電話越しでも分かるわずかに強ばった声に、轟は本当に私のことが好きなんだと改めて分かってしまう。そして、それに引っ張られるように昂揚する私の心。轟のことを好きだと認めた上で、その誘いに乗れない理由。向こうに置き忘れてきた心残り。それをちゃんと片付けに行かないといけない。

「ううん、違う。その答えを探すために、もう一度あの星空を見ないといけない気がする。出来れば、轟と」
「俺と?」
「だからさ、一緒に来てくれないかな?」




△ ▼ △ ▼





ガタガタと不規則な揺れ。二両編成のワンマン電車内にはさっき巡回の駅員さんにスタンプを押された切符を手にどこかそわそわした様子の轟と、一年ぶりの所長や町の人との再会を前に変に落ち着ききった私しかいない。
窓の向こうの景色は、例年稀に見る暖かい日が続いたせいで、ほとんど溶けきった雪と芽吹き始めた新緑が見える。春めきはじめた懐かしい風景だった。

あれからスグに所長に連絡を取ると、顔を見せに来るのは大歓迎だけどショートもいるなら雪が溶けてからにしなよと言われた。あの雪景色が見たい気もしていたのだけど、どっちにしろ日帰りは厳しい距離なので連休を取らねばならず、私ならまだしも轟の休みと合わせるとなると結局この時期になってしまった。

そうして辿り着いた慣れ親しんだ無人駅。そこを出れば目の前に止まっている白いバン。

「おー、来たね! 一年間連絡も寄越さない薄情娘だ」

その窓を開けて、作業着姿の所長が大きく手を振っている。一年程度じゃ何も変わらないけど、高級車に乗り、たまに見る私服もきちんとしているエンデヴァーさんとの違いがえげつない。

「連絡しなかったのは、申し訳ないです」
「まあ、いいけどさ。あっ、初めましてショート。ナマエちゃんの元上司です」

私の後ろに立っていた轟に愛想のいい笑みを浮かべた所長に、轟も頭を下げて応える。その背を助手席の方へと押せば、わずかに驚いたように轟が私を見た。

「轟が前乗りなよ」
「いや、俺は後ろで……」
「この時期だと、たぶん畑道具乗せたままだから」

そう言って後部座席のドアを開けると、片側を空けるために奥へと押しやられたシャベルや軍手、麦わら帽、園芸用のネットに支柱などが現れる。ほら、としたり顔で轟を見れば、闊達な所長の笑い声が響いた。

「さすが元うちのサイドキック、よく分かってるね。ということで、僕の隣で申し訳ないけど、どうぞ」

こっちに来てから乗りなれない電車に無人駅、そして所長と、珍しくペースを崩されて気圧された様子の轟を見ながらクスッと笑う。そして、それぞれの席に乗り込めば、車は田舎道を走り出していく。開けっ放しの窓から流れ込む澄み切った風と、青々しい草木のにおい。

「あまりに田舎で驚いたでしょ?」
「いや……あ、はい」
「ショートは素直でいいね。だけど、事務所に行けばもっと驚くことになるよ」
「みんな来てるんですか?」

ミラー越しに所長と目を合わせると、含んだような笑みが帰ってくる。

「ナマエちゃんが帰ってくるって言ったら、もうみんな大はりきり。田中さんなんて山中の山菜すべて採り尽くさん勢いだったよ」
「あっ、山菜。タラの芽って今年もう出てます?」
「出てる出てる。ナマエちゃん好きだったから、奥さん方が張り切って天ぷらにしてくれるって」

やった、と声を上げながら、ふと轟に目が行く。車窓の風景を追うように首が動く後ろ姿。

「轟もいるし、せっかくなら蕎麦も茹でようか。山菜そばにしよ」
「おっ、ショートは蕎麦好きかぁ」
「はい、好きです」
「そんな話をしたら蕎麦打ちでも始まりそうだな」

車内に響く所長の笑い声。懐かしいな、と思う。こんなふうにこの車に乗っていたことが幾度となくあるはずなのに、随分と過去の思い出のように感じられる。あの頃私が乗っていたはずの助手席には轟がいて、それを後ろから見つめている。
田畑も森も、川も、空も、私が出ていった雪どけの光景とまるで違う。あれからたった季節がひと回りしただけで、こんなにもすべてが違って見えるのか。いや、きっとこうして見てきた景色が同じだったことなんて一度もなかったんだろう。ただ、停滞していると思い込んでいた私には気づけなかっただけで。

「ほら、ついたよ」

なだらかな坂道の先に見えてくる三階建ての建物。その庭先に集まった見慣れた顔ぶれから上がる歓声。始まりがどんなきっかけであろうと、たとえ迷子の末に住み着いた場所だとしても、ここで私が手に入れてきた幸福な繋がり。
その光景を前に、どうしようもなく熱いものが胸に込み上げてきた。

車を降りるとみんな待ってましたとばかりに駆け寄って温かい言葉をかけてくれる。「久しぶり」「なんだか少し大人っぽくなったね」「あらやだ、お婿さん連れてきたの」なんて声に笑ったり焦ったりしながら返事をしていく。そこでふと、後ろをついてきていた轟がいないことに気がつく。
足を止めて振り返ると、人混みの中から出てきた轟は、綺麗な髪を嵐にでも巻き込まれたかのように乱していた。それに周りを囲んでいるのはみんなお年寄りたちだ。驚きながら轟のもとへと駆け寄る。

「凄いね、轟。こんなにシニア層にも人気だったとは知らなかった」
「いや……」

乱れた髪を直しながら複雑そうに眉根を寄せる轟。

「別に俺のことはよく知らねぇらしい。ただ、めでてェ髪だって撫でられた」
「……ご利益」

思わずじっと赤と白にわかれたそこを見つめると、少しだけ口をへの字に曲げた轟が拗ねたように顔を逸らした。そんな珍しい轟の表情がおかしくて、声を上げて笑いそうになるのを我慢していると、庭の方から私たちを呼ぶ声が響く。
青い空の下に並べられた長机と自治会名の入った白いテント。机の上には様々な料理が並び、さながら町内会のイベント会場と化したその光景に、今度こそ声を上げて笑ってしまう。笑いながら少しだけ、目尻に涙も溜まった。
ああ、やっぱり私は、心からこの町が好きだ。






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