本当はずっと見つけて欲しかった


そこから結局、所長が漏らした轟が蕎麦好きの話が広がって、本当に蕎麦打ち大会が始まってしまった。事務所内に入る暇もないまま、ご婦人方に囲まれて蕎麦の指南を受けている轟の分の荷物も持って、所長と一緒に事務所の中へと向かう。
そして、ロビーに入るなり足が止まった。

「これ……」

飾り気のないエントランスだったはずのロビーに設置された掲示板。そこに貼られたたくさんの私の写真と記事の切り抜き。それは全部、向こうに行ってから私が関わった事件のものだった。
ヴィランを取り押さえる後ろ姿、事件現場で避難を促す横顔、こんな小さな写真までよく見つけてきたものだと驚いて言葉も出ない。

「凄いでしょ、これじゃ誰の事務所か分からない」

そんな私の隣に並んだ所長が苦笑しながら、みんな記事を見つけるとここに持ってくるようになっちゃって、と困ったように、だけど優しい声で語った。

「みんな、ナマエちゃんのことを自分の娘や孫のように思っているのさ」
「そんなの……」
「もちろん、僕もね」

柔らかく微笑む所長。そのまなざしを見ていられなくて、逃げるように視線を窓の向こうへと移した。楽しげな声が響くその向こう、まだ雪を多く残す山肌が太陽に照らされ、眩しいくらいに輝いている。

「そして、娘とは巣立つものさ」

聞いているこちらが躊躇うくらい、迷いのないあっさりとした所長の声。反射的に所長の顔を見て、それからまた何も言えないまま俯いてしまう。所長が声を潜めて笑ったのが気配で伝わる。

「ナマエちゃんが、ここに囚われる必要なんてないんだよ」
「囚われてなんて……」
「本当に? 向こうで僕らに対して何か後ろめたさでも感じてたんじゃないの」

だから、連絡のひとつも寄越さなかったんでしょう、とすべて見透かしたようにからかってくる所長。轟に好きだと言われたとき、轟の事務所に誘われたとき、この場所を簡単に捨てたと失望されることが怖かった。轟と出会って、その隣に根付いていくことを薄情な裏切りのように感じてしまうときがあった。
だけど、このロビーを見たらわかる。町の人たちは誰も、私に対してそんな失望を抱いたりなんてしていなかった。私の活躍を、こんなにも素直に喜んでくれる人たちに対して、勝手な心配をしている方がよっぽど薄情な裏切りだった。

「僕も当分は現役でいるつもりだしさ。君は君の好きなところにいるべきだよ」
「……ここが、好きです」
「うん、知ってる。でも、もっと好きなものがあるんだろ?」

なんとか絞り出した声は、情けないくらいに震えてしまう。優しく所長に肩を叩かれて、俯いていた顔を上げる。そして、所長が指さした先。額に飾られて壁にかけられた写真に目を奪われる。

「役場にあったやつ、頼んでウチに移してもらったんだ」

私がこの町を目指すきっかけとなった、遠い昔に撮られたオーロラの写真がそこにはあった。暗い夜空に舞い降りるように揺れる光の幕。
吐息とも囁きともとれない声が唇の隙間から漏れだして、代わりに胸の奥底が焼けるように熱を持っていく。事務所の外からは一際大きな笑い声が響いて、それが室内の静けさをより浮き彫りにするせいで、こんな陳腐な部屋がどことなく神聖さを帯びているようにすら感じてしまう。

「私が初めてここに来たとき、オーロラが見たいって言ったのを覚えていますか?」
「もちろん、あれはそう簡単に忘れられるものじゃないよ」
「私も、忘れられません。所長はあのとき私に、いつか見えるさって、そう言ったんです」

試すように所長の瞳を見つめる。もしもあのとき、所長が私にあの言葉をかけていなければ、所長が私を受け入れてくれなかったら、今の私はどうなっていたのだろうと思う。じゃあ、もっと北を目指そうと本気で国を飛び出す勇気もなかったから、大人しく元の事務所でサイドキックとしてお世話になることを決めただろう。そこで轟と再会したとして、私は、私たちは、同じように恋を自覚できただろうか。
あの日、轟に感じた美しさへの衝動。手に入れがたい光のようなものを、この自然の先に求めた。今なら、迷子でもなんでも、あの時間が必要だったと思える。だから、そのきっかけをくれた所長の真意を知りたかった。

「この町で次にオーロラが見えることなんて、奇跡みたいな確率でしかない。それなのにどうしてあんなこと言ったんですか」

少しだけ驚いたように瞳を揺らした所長が、それから柔らかく微笑んだ。

「よかったね、今夜はとても綺麗に星が見えるはずだよ」










楽しかった庭での軽いお祭り騒ぎも終わり、このまま三人で事務所に泊まることになっている私たちはそれぞれの支度を整えていた。
そして、時計の針が夜の十時を回った頃、所長が立ち上がって天井を指さした。

「さて、そろそろ天体観測に向かおうか」

事務所の屋上へと続く階段。なかば物置代わりにされているそこは、所長が貰ってきたという動物の剥製やよく分からない古い本達が置かれ、一列でないと上へと上がっていけない幅になってしまっている。そこを所長を先頭に三人で上り、重たい青い扉を開ける。

「……暗いな」

囁く轟の声。月の見えない今夜、ここにあるのは本物の暗闇だ。都会で、街灯やビルの明かりを吸い込んで、本来あるべき濃度を薄めた闇とは違う、純粋な夜空。

「だんだん目が慣れてくるよ」

もっと暗く果てのない宇宙という闇の中を、途方もない時間をかけて流れついてきた星の光を見るために、人の目には少しだけ時間がいる。
じっと空を見つめていた轟が静かに息を飲んだ。

「……すげェな」
「でしょ?」

誰のものでもない星空を、思わず自分のもののように誇ってしまう。私たちの真上にある無数の星々。所長が言ったとおり、今夜は最高の星空だった。

「人類で初めて月の表面を見たのは、ガリレオなんだそうだよ」

そんな私たちの様子を静かに見守っていた所長がゆっくりと口を開く。天文学の父。そう呼ばれる天才の作った天体望遠鏡。

「それまで人類は、こうして今の僕らみたいに空を仰いで光の届く範囲の星を見つめることしかしてこなかった。それが初めて、月の形を知り、木星の衛星たちを見つけたんだ」

イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。木星が伴う衛星の名前を心の中で唱える。その間も所長は、水が上から下へと流れるように滔々と言葉を連ねていく。

「自分の見ていたものがすべてではなく、この星の外には途方もない広がりがある。そのことを知った畏怖と昂揚を僕は時々、ここで想像する」

ちらりと隣の轟の方に視線を向けると、何を言うでもなくじっと夜空を見上げていた。暗い闇の中だと、むしろ輪郭は濃さを増すのだということを知ったのもこっちにきてからだった。隣の轟、少し前に立つ所長。今、私たちはバラバラに、だけど確かにこの宇宙の片隅に存在している。

「僕たちはこうして個性なんて力を手に入れたけど、まだまだ宇宙のすべてを把握することも出来ていない。正義も悪も、このちっぽけな星の中でしか完結することはできない」

正義と悪。私たちがヒーローであり続ける限り背負い、立ち向かい続けなくてはいけないもの。だけど、宇宙から見ればそんなもの、あってもなくても関係のない矮小なものなのだ。そして、たぶん所長はここで、そのちっぽけさに救われた人なんだろう。
時折、所長が見せる強さと寂しさの片鱗。ちゃんと聞いたことがあるわけではないけど、所長も昔は別の場所で事務所を開いていたのだという。そして、この地へと流れ着いた。所長だけの物語。
そこで不意に所長と目が合った。優しく向けられる微笑み。

「奇跡みたいな確率の出来事が、この宇宙では毎日のように起きてるんだよ。ナマエちゃんが、オーロラくらい、いつ見えてもおかしくない」

それは夕方、二人きりで所長に投げかけた問いの答えだった。毎日のように起きる奇跡。その言葉がすうと胸に溶けていく。

「さて、じゃあ僕はそろそろ寝るよ。二人は好きなだけ見ておいで」

後を引くものなんて何もないというかのようなあっさりさで、所長は踵を返した。屋上のドアの鍵を私に手渡し、帰っていく所長。扉の閉まる音が静かに響くと、私と轟、どちらからともなくその場に腰を下ろした。
春先のひんやりとしたコンクリートの冷たさ。夜空が少しだけ遠くなる。

「いい場所だな、町も、人も」
「うん、私はここが大好き」
「ミョウジがここに居てェって言うのもよく分かった」

星明かりを見つめる轟の瞳の虹彩。その奥が星を閉じ込めたみたいにきらきら揺れる。そしてたぶん、私の瞳の奥にも。ゆるやかに私たちの視線が交わって、互いの内側に閉じ込めた星と星がぶつかり合って銀河がうまれる。今この瞬間も断続的に起きる宇宙の奇跡。その一端を担ったような錯覚。

「けど、俺もミョウジを手放したくねぇ」

不意をつくような微笑みに息を飲む。
それがあまりに美しくて、気を抜いたら泣いてしまいそうだった。ただ目の前の美しい光のようなものに対して、屈服したいと押し寄せる衝動。
私がずっと、探してきたもの。

「私はさ、オーロラが見たくてここまで来たの。轟に見たいと言ってしまったオーロラを探したかった」

わずかに身動ぎした轟が、だけど何も言わないまま私の言葉に耳を澄ませている。

「オーロラを探して、だけど私の探すオーロラはここにはないから、ただひたすらにさ迷ってきた」

私は確かにここで迷子だった。オーロラを探すふりをして、本当はずっと見つけてもらいたかった。
轟の瞳を見つめて、それから微笑もうとしたら、溜まっていた涙が流星みたいに頬を伝って流れ落ちていった。

「だからさ、私をここから連れ去ってくれるのも轟なんだよ」





△ ▼ △ ▼






それからの数ヶ月、轟の事務所に移ることを決めて、そこでの生活が軌道に乗るまでは本当にてんやわんやの大忙しだった。

「ほんと、忙しすぎた。轟の人気を甘く見てた」

真新しいカーペットに手を付きながら天井を仰ぐ。新しい事務所への通勤を考えて引っ越した轟の部屋は、今はまだ入居したときと変わらないフローリングのままだ。本人は落ち着かねェと、たまに言っているけど、前の部屋のように改装する気はまだないらしい。
そして、こうして轟の部屋でくつろぐ私の部屋も、実はこの隣だったりする。二人揃っての引越しに際して、同棲しようという轟に、付き合いたてでそれは嫌だと反対する私。徒歩圏内ならいいじゃんという私に、付き合ったのに今より遠くなる意味が分からねェと反論する轟。
その折衷案として、現状維持の隣同士で入居できるマンションを探した。無論、その話を聞いた物間をはじめとするB組の面々からはひどく呆れられた。

「落ち着いたら、旅行でも行くか」
「どこに行くの?」

テーブルを挟んだ向かいに座りながら、自分で茹でた蕎麦を啜っていた轟が口を開く。

「カナダとか」
「……おお、思ったより遠くでびっくりした。もしかして、オーロラ?」
「ああ、ミョウジはもういいって言ったけど、一度くらい二人で見てえなって」

あの日、私の中のオーロラ探しの旅への衝動はきっちりとした終わりを迎えたつもりでいる。所長も、あの町も大好きなのは変わらず、何かあればいつだって駆けつけるつもりのまま、私が選んだのは轟の隣なのだということも自覚している。
だけど、別に星空のことを嫌いになったわけでもない。いつか轟と一緒にあの美しい極光を見れるとしたら、それはそれで普通に楽しみだと思う。

「まあ、そんな休み取れるのいつになるかなぁ」
「そのうち取れんだろ」
「本当に言ってる?」

海外旅行となれば一泊や二泊の話では済まない。こんな一日休みを取るのも精一杯な毎日の中で、よくもそんな想像が出来るものだと感心してしまう。それも私よりずっと轟の方が忙しいというのに。
私の複雑な視線など気にもとめないまま、轟はせいろにまだ半分ほど残る蕎麦へと箸を伸ばす。

「新婚旅行くらい、ちゃんと行きてぇし」

沈黙。部屋の中に轟が蕎麦を啜る音だけがしばらく響いて、はっと我に返った。

「……轟、それ、私に言う意味わかってる?」
「ミョウジと行く気なのに他に誰に言うんだよ」

轟が視線を私に向けて、何を言っているんだと首を傾げる。その表情を見ていたら、変に動揺した私の方が馬鹿らしくなってきて肩の力が抜ける。関係が恋人同士に変わったところで結局、私の方が轟のペースに振り回されてばかりだ。

「それもそうか、轟だしね」
「でも、そしたらミョウジも轟になるんだな」
「そうだね、夫婦経営の事務所になっちゃうね」

どうせまた大して深くは考えていない轟のセリフをあしらうように受け流しながら、私も中断していた食事を再開することにする。
だけど、視界に入った轟は何故か目を丸くしたままフリーズしたように箸を止めている。

「え、どうかした?」
「いや……夫婦とか言うから、少し照れた」
「自分から新婚旅行の話はするのに?」

一瞬呆気にとられてから、思わず声を出して笑ってしまうと轟の耳がわずかに赤く染まる。こんな些細な幸福に込み上げる愛おしさ。

「……焦凍」

唇の隙間からこぼれ落ちた轟の名前。その瞬間に、轟がテーブルに手をついて立ち上がる。衝撃で、湯のみからわずかにお茶が溢れた。

「ミョウジ! 今の……」
「そんな過剰に反応しないでよ! 仕事中はいつも呼んでんじゃん!」
「いや、やっぱヒーロー名のときとは違うもんだなって」

無意識に呼んでしまった轟の名前が、急に恥ずかしくなってきて頬に熱がこもる。確認しなくたって分かるくらい、私の顔は今真っ赤になっているはずだ。

「あー、やっぱ恥ずかしい。まだ早かった! ごめん、忘れて! あ、お茶。お茶入れてくるから」
「待ってくれ、俺も呼ぶ」
「いや、いいって」

とにかくこの場を離れたくて、お茶のこぼれた轟の湯呑みを持って立ち上がると、その腕を掴まれる。

「ナマエ」

身体の温度が何度も跳ね上がってしまったような、だけど柔らかなあたたかい衝撃。何度も聞いてきた自分の名前なのに、轟の声で聞くそれは初々しく、そして瞬くように輝いているような気がした。
ゆっくりと目を合わせて、二人で顔を見合せて笑い合う。
こんな陳腐なマンションの一室で、片や湯のみを手に持ったまま、何故か遠い宇宙の果てを想像した。
そして、あまりにも自然と確信できてしまう。私たちはきっといつか、あの美しく儚い薄光の下で寄り添い合うように空を見上げるのだと。





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