初めて飛び出した国の外は、様々な匂いがした。海から風に運ばれた潮、太陽の光、緑の強い草木、そして辿り着いたここは、慣れ親しみつつもどこか違う甘いお菓子の香り。
「初めてお目にかかります。ミョウジナマエと申します」
ドレスの裾を摘んで深々と頭を下げる。目の前に立つのは、港に着いた私を迎えてくれた私の旦那様。私よりもずっと大きなその身体に思わず怯んでしまったことに、どうか気付かずいてくれますように。
「もういい、顔を上げろ。クラッカーだ」
ゆっくりと顔を上げ、先程は一瞬しか見ることの出来なかった旦那様を視界に収める。クラッカー様。声には出さず、心の中でひっそりとその名前を反芻する。名前すら知らずに結婚が決まるだなんて、不思議な話だ。いや、政略結婚といえども、普通は相手の簡単なプロフィールくらいは聞かされているものなのかもしれない。
「何を呆けているんだ、ナマエ。ついてこい」
彼の顔をじっと眺めたまま何も喋らない私に、クラッカー様が訝し気な視線を向ける。それよりも、久しぶりにお父様が以外から呼ばれた自分の名前に、何とも言えない気持ちになる。胸の奥がざわつくような、心が少し高鳴るような、おそらくはきっと嬉しいに近い感情。
「名前で、呼んで下さるんですね」
「ああ?名前以外に何と呼ぶんだ」
「いえ、なんだか嬉しくて」
思ったことを素直に言えば、少しだけクラッカー様の雰囲気が和らいだ気がした。とても怖い顔をされているけれど、意外と優しい人なのかもしれない。なんて、名前で呼ばれただけで、随分と都合よく解釈しすぎだろうか。
お父様から突然告げられた、かの四皇ビッグ・マムの息子と結婚の話。驚かなかったといえば嘘になるけれど、私に何か国の為という役割を貰えたことが素直に嬉しかった。生まれてからずっと、ひっそりと隠れるように生きてきて、それでもずっとあの国が好きだった。
私がいなくなったあの国は、どう救われるのだろう。
□■□■
「ここで、暮らすのですか?」
クラッカー様に案内された、大きな城の一室。可愛らしいその室内をキョロキョロと見回せば、ここはあくまで結婚式までの仮住まいで、家はクラッカー様の治める島にすでに用意してあると告げられる。
「それから、そんな硬堅苦しい口調はやめろ」
「……なにかおかしかったでしょうか?」
一生懸命に覚えた王族らしい口調も、ここに来るまで出番なんてものがなかったから、傍から聞いたらどこか見苦しいものだったのかもしれない。途端に不安になって彼に問いかければ、そういうわけじゃないと言われて安心する。
だけれど、まだ出会って手前、急に砕けた口調で話せと言われても困ってしまう。助けを求めるように彼を見つめるけれど、彼はどうした早くしろ、とでもいうように私を見つめるだけだ。結局、根負けするしかない私は、意を決して口を開く。
「ほんと?私、普段はこんなんよ?」
「ハッ、途端に子供っぽくなるな」
顔を破綻させて笑う彼に、思わず頬が朱に染まる。私よりずっと年上に違いない彼に、子供っぽいと言われようと当たり前のはずなのに、なんだか不満に感じてしまうのは何故だろう。
「ああ、そうだ。お前には見せておく必要があるな」
急に真剣な顔つきに戻ったクラッカー様。その顔がポロポロと崩れ始めて、思わず小さな悲鳴が漏れる。しかも、崩れ落ちたその先にまた新たな人影を見つけて、今度こそ本当に叫びだしてしまいそうになる。
だけど、それは淑女の嗜みに反すると、グッと堪えて、祈るように彼の名前を呼んでみる。
「……クラッカー様?」
「これが本当のおれだよ」
先ほどよりもずっとくだけた笑顔。私の反応を随分と楽しんだに違いない。ああ、意地悪だ、そう思いながらも、心にじんわりとした温かさが生まれる。
「……良かった」
「良かった?」
安堵のため息と共に零れ落ちた言葉に、クラッカー様が怪訝そうに眉を顰める。
「あのままじゃ、甘すぎて大変だって思ってたから」
「……甘い?」
「昔から、鼻が利くんです」
「まるで犬だな」
意地悪の仕返しとでもいうように言ってみせれば、クラッカー様もまた愉快そうに笑顔を浮かべる。
城の中でひとりぼっちでいては決して味わう事のできなかった喜び。国のための結婚だと、それが国のためだと、それだけで私には十分以上の感動であったはずのに、そこでまたこんなにもの幸せに出会えるなんて、いったい誰が予想できたというのだろう。
バニラライクな夢を見させて
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