チクタクと時計の音が響く。ひとりの家で過ごすのももう慣れたものだ。今日は昼にクラッカー様から帰りは遅くなると連絡があったので、先に夕食は済ませてしまった。
居室のソファにすっぽりと埋まりながら、昨日から読み始めた本のページをめくる。物語は佳境に入っている。勇者はドラゴンを倒し、世界の真実へと近づく。

「おい、ナマエ!」
「……え?」

頭の中で構築されていた物語の世界がシャボン玉のように弾け、驚いて顔を上げるとそこにはクラッカー様が私を見下ろしていた。

「あら、いつ帰ったの?」
「一体何度呼んだと思っている」
「ごめんなさい。でもね……」
「面白かったって言うんだろ? もういい、それより言うことがあるんじゃないか」

私の隣にクラッカー様が座ると、その衝撃で思わず彼の方に倒れ込んでしまう。読みかけの本を閉じて顔をあげれば、ぶすっとした表情のまま私を見下ろすクラッカー様。

「おかえりなさい、クラッカー様」

フンッと鼻で笑ったその表情を見るに満足したのだろう。時折見せるこうした可愛らしい一面も、きっと私だけに許された特別だ。

「お腹がすいたでしょう? 夕ごはん温め直すわ」

今日はグラタンを作ってもらったの。そう言いながらソファから立ち上がると、何故かクラッカー様に腕を引かれ、再びソファへと戻されてしまった。
時間はとっくに普段の夕食の時間をすぎているのに、途中で何か食べてきたのだろうか。

「まだいいから座っていろ」

訳が分からず首を傾げる私にクラッカー様は小さな紙袋を手渡した。

「……お土産?」
「土産ではない。開けてみろ」

いつも仕事から帰るとお菓子を買ってきてくれるクラッカー様だけど、今日はどうも違うらしい。紙袋から取り出した、いつものお菓子よりも厳重にラッピングされた重厚な箱のリボンをするすると解き、蓋を開ける。

「えっ、素敵……栞?」

そこに入っていたのはシルバーの栞だった。手に持ってみるとその滑らかな手触りと見事な曲線美は職人の手作業の業だと分かる。所々には鳥の羽や花弁を模した緻密なレリーフが施され、すらりと垂れたチャームにはキラキラと輝くアメジスト。クラッカー様の瞳の色だ。

「これを……私に?」
「他に誰にやると言うんだ」

なかなかこっちを見てくれないのは照れているせいだということくらい分かっている。
早速さっきまで読んでいた本の栞を差し替えれば、思わず口元が緩むのを堪えきれないまま、ぎゅっとその本ごと抱きしめる。

「ありがとう、クラッカー様!とても嬉しい!大切にするわ!」

この本を持ったまま踊り出してしまいたいような気分で、出来もしないダンスのステップを真似て見せる。そんな私を見て呆れたようなクラッカー様の表情は、決して私をバカにするものではなく、むしろあたたかい。

「それだけで喜ぶな。まだ他にもあるだろう」
「え?」

手に持っていた本をテーブルに置いて、紙袋の中を確認すると確かにもうひとつ小さな箱があった。同じように巻かれたリボンを解き蓋を開け、言葉を失った。

「……うそ」

シルバーの指輪。そこには栞と同じレリーフが施され、中央にはアメジストが鎮座している。
ドキドキと鳴り止まない心臓を抑えながらクラッカー様を見れば、楽しそうにしたり顔で笑っている。

「嘘なわけあるか」
「待って、クラッカー様の手も見せて」

まさかと思い、クラッカー様の左手をとる。帰宅し、手袋を外したその薬指には、今朝まではなかったはずの指輪が嵌められている。私が持っているものより大きくて、シンプルながらも同じレリーフが施されたそれ。驚きのあまり固まる私に、クラッカー様はおもむろに指輪を外してその内側を見せた。

「これ……」

そこには私の指輪についているアメジストとは違う宝石が埋め込まれていた。この色は知っている。毎日鏡で見ている、私の瞳と同じ色。そして、その隣に刻印されているのは見まごうはずもない、私の名前。

「ほら、さっさと左手を寄こせ」
「クラッカー様がつけてくれるの?」
「……これは、そういうものだろ」

照れているの隠すようにぶっきらぼうに差し出された手に、そっと左をのせる。箱から取り出された銀の指輪が、するりと私の薬指へと収まった。
まるで、もう何百年も前から私の指輪となることが決まっていたみたいにぴったりと。長い長い眠りから覚めたアメジストが、室内のシャンデリアの明かりを浴びて輝く。

「こんな形式だけのもの不要だと思っていたが、まあ、悪くないな」

クラッカー様の大きな指が、私の手の輪郭をなぞるように触る。まるで触れられたその場所から私の存在が明確になっていくような気がする。
解けるはずもない呪いが今この瞬間に綻んだような錯覚。私がクラッカー様のものだという証と約束。

やっと心がこの幸福を処理するのに追いつくと、瞳からボロボロと涙が溢れ出す。幸せすぎる涙はどうしてこんなに熱を帯びているのだろう。
もうしばらくは泣き止むことの出来なそうな私を抱き寄せて撫でてくれるクラッカー様の手も、同じように温かかった。





縛るのなら優しいリボンで



back/silent film