書斎で本を読んでいると扉が控えめにノックされた。文字の羅列から顔を上げて返事をすれば、メイドの彼女が顔をのぞかせる。

「奥様、プリン様がお見えに」
「……プリン様?」

先日お茶会で会った可愛らしい少女の顔を思い出す。思わず書斎に置かれた電伝虫を見つめ、しばらく逡巡する。クラッカー様に伝えた方がいいのだろうか、と悩んだものの、いちいち伺いを立てるのもおかしな気がする。

「如何なさいますか?」
「この部屋に通して頂ける?」
「承知致しました」

プリン様を迎えに行った彼女を見送ってから、読みかけの本に栞を挟んでテーブルへと置く。あのお茶会のあとのクラッカー様の言葉。あれは一体、どういう意味だったのだろう。







「ごめんなさい、急にお邪魔して」
「いいのよ、別に。プリン様にいらして頂けて、とても嬉しいわ」

書斎に置かれたソファに座るようプリン様を促す。テーブルには温かい紅茶とお茶菓子。その中にはプリン様が手土産として持ってきてくれたオランジェットもある。

「姉さんともっと話してみたくて」
「あら、嬉しい」

紅茶にひと口、口をつけたプリン様がゆっくりと部屋の中を見渡す。壁一面に備え付けられた本棚とそこに並ぶ物語の数々。

「これ、全部クラッカー兄さんが用意したんですってね」
「ええ、私が本が好きだと聞いて」
「……それに、その指輪。前にあった時はしてなかったわ」

左手の薬指に嵌められた銀の指輪。クラッカー様がこれを贈ってくれた日のことを思い出して、つい頬が赤くなる。そんな私の表情を見つめていたプリン様の瞳が、睨みつけるように眇られた。

「ナマエ姉さんはああ言って惚気けてたけど、クラッカー兄さんは本当に変わったのよ。昔からいい歳して子供っぽくて、結婚したところでろくなことにならないと思ってたのに……今じゃすっかり」

苛立ったような口調でまくし立てられいた言葉が、しだいに勢いをなくす。

「ホント、気持ち悪いくらい」

言葉の意味とは裏腹に、プリン様の声はまるで戸惑っているようだった。信じていた何かが揺らぎ始めて、だけどそれを認めるわけにもいかずに立ち竦む迷子のような表情。
あの日、溌剌と天真爛漫に笑いながらお茶会を仕切っていた彼女ではきっと見せなかったその顔に、あの日のクラッカー様の言葉がすとんと嵌る。

「……なるほど」
「何よ」
「いえね、あのお茶会のあと、プリン様の話を私がしたらクラッカー様が、いい子なのも今だけだ、って何か含むように笑ってたものだから」

きっとこれがこの子の本当の顔なのだろう。多感で傷つきやすく、けれど必死に自我にしがみつかなくてはならない、まだ幼い少女。
優しく微笑んで見せれば、プリン様は拗ねたように顔を背けた。

「だって、私たちはもう家族でしょ。家族の前でまでいい子のフリなんてしたくないわ」
「ええ、その方が嬉しいわ」
「……ナマエ姉さんも、もっと砕けて話していいわよ。クラッカー兄さんと話してるみたいに」

そんなこと言われると思わなくて驚いて目を丸くすると、プリン様はふんっと鼻で笑った。

「演技が下手ね。前からずっと無理してるの気づいてたわ」
「……あら、やっぱり付け焼き刃はダメね」

そういえばクラッカー様に出会ってすぐの頃も口調を戻すように言われた。あの時クラッカー様は別に変ではなかったと言ってくれたけど、本当はやっぱりおかしかったんじゃないかと不安と羞恥に駆られる。
そんな私を他所目に、プリン様は真剣な瞳で私を見据えた。

「ねえ、本当に結婚して幸せなの?」

お茶会の日、同じような言葉を彼女は口にしていた。今日ここを訪れたのもきっと、この話が目的だったんだろう。手に持っていたティーカップをソーサーに戻し、話の続きを促すように微笑む。

「私の姉さんの一人が、自由な結婚を求めて海へと飛び出したことがあるの……私はそれが羨ましくて、幸せなことだとと思っていたのに」
「ここから逃げ出したいの?」
「私は特別だもの。そんなこと許されないわ」

力なく首を振る表情は諦念を物語り、重く影を落とす。まだ十代も半ばの少女は、ビッグ・マム海賊団という世界を揺るがす大きな波の中で生まれ、その運命に多くのものを背負ってきたのだろう。

そっとソファから立ち上がり、彼女の方に触れる。

「ねえ、ナイショ話をしましょうか」
「ナイショ話?」

驚きと不信の宿る瞳を見つめながら、そっと人差し指を一本口に当てる。

「この話をしたら、クラッカー様はきっと私を心配するから」
「え、そんな話していいの?」
「だから、内緒なのよ」

プリン様の隣に座り直して、小さく深呼吸をする。

そうして語るのは、この海の上にある一国の話だ。占術によって未来を守るその国で、厄災として生まれ落ちた王女が辿った運命。

──悲劇にもにもなりきれない、私の物語。






その声は確かに震えていたんだ



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