「明日は食事に行くぞ」

突然のクラッカー様の言葉に、パスタを食べる手を止めてぽかんとその顔を見つめる。クラッカー様はそんな私のことなど素知らぬ顔でフォークを大きな口に運ぶ。

「どこかに食べに行くってこと?」
「そうだ。支度の手伝いは全て任せてある」

上手く状況を飲み込めないまま、傍に控えてくれているメイドさんを見つめると大きく頷かれた。以前のお茶会の時も彼女が支度を整えてくれたので、おそらく明日もそうなのだろう。

「……珍しいのね」
「あァ、そうだな。いいか、夕刻だぞ」
「分かってるわ。どうせ本に夢中で忘れると思ってるんでしょ」

拗ねたように膨れて見せれば、クラッカー様は愉快そうに笑った。
散歩の時に何か買って帰ることはあるけれど、食事に出かけることは初めてで自然と胸がドキドキと高鳴る。止まっていたフォークを握り直して食事を再開しながらも、気持ちは既に明日のことばかり考えてしまって味に集中できなくなってしまった。






□■□■








夕方、いつも通りに書斎で本を読んでいるとメイドさんに声をかけられ、そろそろ支度の時間だと思い出した。「旦那様の言う通りでしたね」と悪戯するように笑った彼女がクローゼットから出してきたドレスに目を見張る。
鮮やかなコバルトブルーに豊富にレースが使われ、見るからに高級なドレス。この間お茶会に出かけた時の淡いピンクのものよりも遥かに豪華だ。

今日は何かの社交界なの、と驚き言葉を失う私に構わず、手馴れた手つきで着せ替えられ、あれよあれよという間にヘアセットまで済まされてしまう。鏡の前で呆然とする私の耳には真珠のイヤリングが揺れている。

だけどそれよりも更に驚いたのが、帰ってきたクラッカー様が着替えてくると言ったかと思うと、その身を包んでいたのがこれまた立派なスーツだったことだ。

「待って、クラッカー様。本当にどこに行くの?」
「行けばわかる」
「そうは言っても、こんな格好してただの食事じゃないでしょう?」

すっかり日の沈んだ道を並んで歩きながら、一向に行き先を教えてくれないクラッカー様を「もう……!」と睨みつけるも効果はない。
これで着いた先がホールケーキアイランドのお城で、一家総出のパーティーだったりしたら一週間は恨み言を言い続けてやろうと心に誓う。

「ほら、ついたぞ。乗れ」
「船に乗ったらどこに向かってるか教えてちょうだいね!」

海岸に辿り着き、クラッカー様にエスコートされながら船へと乗り込む。その船内を見て、息を飲んだ。

「……え?」
「どこに行くも何も、ここが目的地だ」

目の前に広がるのは、真っ白なクロスをかけられ、中央に真っ赤なバラの花束が置かれたテーブル。室内の雰囲気も以前乗った時よりも随分と変わっている。あかりのついていない室内で、燭台のろうそくの炎だけがゆらりゆらりと揺れている。

「今日は何か特別な日だったかしら……?」
「まさかとは思ったが、本当に忘れているのか」

信じられないとでもいうように眉をひそめたクラッカー様が大きく溜息を吐いた。

「誕生日だろう?ナマエの」
「そう、いえば……そうね」

ああ、そういえばそうだったと納得する。今日が誕生日だったことを忘れていたというよりは、誕生日は祝うものだということを失念していた。
私のために飾り立てられた船内で、私のために仕立て上げられたドレスを身にまとい、ただ呆然と立ち尽くすだけの私はいっそ滑稽だろう。

「浮かない反応だな」
「あ、違うのよ。とっても嬉しいんだけど、誕生日を祝ってもらうのは初めてだから、どう反応したらいいか分からなくて……」
「初めて?」

その理由を問いただすようなクラッカー様の視線に、言葉を続けるのを躊躇う。私のためにここまでしてくれた人を前に、こんなことを言っては、きっといけない。だけどクラッカー様はそれを隠して喜んだふりをする方が怒ることも分かっている。

「……私の国では、今日は、お母様の亡くなった命日だもの」

なるべく声が沈まぬように心がけたつもりだけれど、余計に虚しく響いてしまった気がする。心は自然と、あのお城の窓から眺めた城下の景色へと飛んでいく。
いつもは多くの国民が行き来する市場には活気も色もなく、悲しみにくれ、過去を偲ぶように献花を持つ人々がゆっくりと歩くばかりだ。

毎日のように私の元にやってきてくれるお父様も、この日ばかりは会いに来てくれることはなかった。もちろん私を恨んでのことではないことはわかっている。次の日に会うお父様は少しだけ泣き腫らしたように目元を赤くし、いつも以上に優しく私を抱きしめてくれたから。

だから、私の生まれた日は決して祝福されるような日ではなかった。多くの人に悲しみを思い出させ、涙を流させてしまう日であったはずだ。私など生まれなければよかったのに、とあの国のどれほどの人がそう口にしていたのだろう。

「ナマエ」
「え?……あら、これ」

いつの間にか窓際に置かれたソファの上には丁寧にラッピングされた箱が山積みになっていた。私が故郷のことを考えている間に船員の方々が用意してくれたらしい。
おそるおそるそこに近づいてクラッカー様の顔を見上げる。

「全部、ナマエに渡してくれと頼まれたものだ」
「私に……」
「モンドールからは本が数冊、プリンからは新作のショコラの詰め合わせだと、あとは……よく覚えてないから自分で確認しろ」

一番上に積まれていた淡いブルーの箱を手に取る。そこに付けられたメッセージカードにはスムージー様の名前と私の誕生日を祝福する言葉が並べられている。

「……一生分の贈り物を貰ってしまった気分だわ」
「一生? 何を言ってるんだ、来年も再来年も、増える一方だぞ」

来年も再来年も、そんな先のことを今まで考えたことなんてなかった。今の幸せばかりに精一杯でそれ以上を望むことなど許されないのだと自分を戒めてきた。それなのに、こんなにも自然とクラッカー様の言葉が嬉しいと思ってしまっている。

「そろそろだな。窓の向こうを見てみろ」
「……わあ、綺麗」

顔を上げると、窓の向こうに煌々と輝く明かりの群れが見えた。暗い海の上に浮かんだ島々の光が、夜の闇と溶け合うように輝いている。なんて美しい夜景だろう。
あの光のひとつひとつに、この国の人々の生活があるのだ。お城から眺めた景色とはまるで違う。今の私は、あの光の中に足を踏み入れることだって出来るのだから。

「祖国でのことを忘れろとは言わない。縁を切れとも強要しない」

不意にクラッカー様の大きな腕に抱き寄せられる。すぐ近くに彼の体温を感じながら、そっとその顔を覗き込めば、同じように彼もまた私を見つめていた。

「ただ、これから先、お前を厄災などと呼ぶ人間がいれば、このおれが許しはしないということは忘れるな」

息が止まるかと思った。クラッカー様がそう思ってくれていることは分かっていた。ここで与えられる穏やかな生活は、私が生まれ落ちた呪いを少しずつ薄めてくれるんじゃないかとすら思ってしまうほどに。

「おれは、お前が生まれてきてくれて嬉しいよ」

飲み込まれてしまうんじゃないかと思うほど近づいたクラッカー様の瞳を見つめていると、唇に熱い熱を感じる。あっ、と驚いた私を愉快そうにクラッカー様が笑った。

毒林檎を食べたお姫様も、カエルに変えられた王子様も、おとぎ話で呪いを解くのはいつだって優しいキスよね、そう伝えたいと思ったけれど、次々に降ってくる雨のような熱い口付けの合間に息をするのに精一杯で、とてもじゃないけど言葉になんてできなかった。






あなたのおかげでこの世界をで息ができる



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