クラッカー様と二人きりの部屋には気まずい空気が流れている。ぶすっと不機嫌さを隠そうともしないその瞳が見つめているのは、私の腕に貼られた大袈裟すぎるほどの湿布で、その下には大きな青アザが出来ているはずだ。

「そんなに大したことじゃないわよ」
「今回は、それだけで済んだだけだろ」

沈黙に耐えかねて無理やり吐き出した声は、素っ気ないクラッカー様によって跳ね除けられる。再び訪れた沈黙に、まだ鈍い痛みを残す腕をぎゅっと握る。

ただちょっと脚立に乗って本を取ろうとしただけなのに、と口にはできない言葉が心に募る。たまたま足を踏み外してしまって、落ちた先にテーブルがあっただけ。
派手な音に駆けつけたメイドさんが、慌ててクラッカー様に連絡したりなんてするから、彼は仕事中なのに駆けつけてきてしまって、ついにはお医者様まで呼ばれてしまった。お医者様はただの打撲だって言っていたのに大袈裟すぎる。

「不注意だ。何のために人をつけてると思ってる」
「何よそれ、まるで彼女なら怪我をしてもいいって言ってるみたい」
「そうは言ってないだろう」

ピリピリと刺のある言葉をお互いに投げあって、目には見えない小さな傷が増えていくような気がする。
頭ではクラッカー様が私を心配して怒っているのだと分かりながら、どうしても素直にその気持ちを受け入れられない。

「生きていたら傷ぐらい負うわ」
「おれは、その傷を負ってもいいという態度が気に食わない」

歪められた瞳と吐き捨てるような言葉。それに、ずっと触れないようにしていた、初めてクラッカー様との距離を感じたあの夜のことを思い出す。
いつか、あの物語の少女のように死にたいと口にした私を自己犠牲と比喩した夜。あの苛立ったような声を思い出して、カッと喉が熱くなる。

「そうよね、大事な妻に傷なんてついたら責任を感じるものね」
「……なんだその言い方は」

クラッカー様の声が明らかに温度を下げる。こんなことを言ってはいけないと思っているのに、熱を持ってしまった声帯は歯止めが効かず、堰を切るように言葉ばかりが流れ出す。

「クラッカー様だって、お父様と同じで責任感で私を愛してるんでしょ」

一瞬、室内から、いや、世界から、全ての音が消えたかと思った。クラッカー様の瞳がすっと冷たく細められ、私を睨みつける。これは怒りなんかではない。ただ、彼を傷つけてしまったのだ。
だけど、一体何が彼をそこまで傷つけると言うんだろう。妻だからと優しくしてくれた、それが責任感でなくて、なんだと言うんだ。

「次にそんなこと言ってみろ、ここから追い出すぞ」

謝ることも、取り繕うことも出来ないまま、ただ唇を噛み締めて俯く私に、苛立たしげな舌打ちを残してクラッカー様は部屋から出ていってしまう。

そして結局、夜になっても帰ってきてはくれなかった。






□■□■






翌日、朝起きても隣にクラッカー様の姿はなく、ただベッドの広さが主張するだけだった。謝らなくてはいけないと思うものの、どうすればいいのか分からない。良く考えれば誰かと仲を違うこともまた初めてなのだ。

書斎で本を読もうとしてみるものの、まるで内容は入ってこない。今夜はちゃんと帰ってきてくれるだろうか。私はまた、ひとりきりになってしまうのだろうか。そんな不安ばかりが胸を過って、ただただ苦しい。

そんなとき、急に電伝虫の鳴る音が響いて驚いて肩が跳ねる。

「奥様、申し訳ありせんが今、手を離せなくて。この時間であれば旦那様でしょう?」

キッチンから聞こえるメイドさんの声。昨夜、私たちが喧嘩をしたことを知らない彼女は、時折クラッカー様が私宛にかけてくる電話だと勘違いしているらしい。
クラッカー様からの連絡があるのは書斎に置かれた私専用の電伝虫だ。だけど今鳴っているのはここではなく居室に置かれたもの。クラッカー様からの連絡ではない。

一瞬躊躇ったものの、手が離せないのなら仕方が無いと居室へと移動し、受話器を耳に当てる。

「もしもし……え、お父様?」

そこから聞こえた間違えるはずもない声と、切羽詰まったよえなお父様が口にする耳を疑うような言葉。なるべく手短に伝えるようにと用意された会話は要件だけの短いものであったはずなのに、随分と長い時間が経ったような気がする。

もうなんの音も聞こえない受話器を元に戻し、息の浅くなってしまった呼吸を整えるように目を閉じる。わずかに陽の光を感じる暗闇の中で、ひとつひとつ今伝えられた言葉を反芻していく。そして、これからしなくてはいけない裏切りへの覚悟も。

瞳をあけて、しっかりと前を見据える。クラッカー様と過したこの家に帰ることはもう、ないのだろう。そう胸に刻むように一歩一歩廊下を歩く。

私のために用意された本が並ぶ書斎、私の話を毎晩聞いてくれた寝室、色とりどりの花の咲く庭園。そして、二人で並んでビスケットを焼いたこともある、キッチン。

「クラッカー様からの呼び出しだったわ。多分今日はもう帰らないから、あなたも適当に帰って大丈夫よ」

キッチンの彼女に笑顔でそう声をかけて屋敷を出る。まだ日の高い空から太陽の光が容赦なく照りつける。
眩しさに顔を顰めたことで、貼り付けた笑顔が溶けるように消えていく。いつの間に私は、こんなにも平然と、息をするように嘘をつけるようになったのだろう。

いつもならクラッカー様と並んで歩く海へと続く石畳の道を一人で足早に急ぐ。本当なら走ってしまいたいところだけど、島の住人たちに怪しまれるわけにはいかない。
こんな嘘がいつまでもバレずにいられるとは思っていない。どうせすぐにクラッカー様には私が屋敷を抜け出したことが知られるだろう。いや、屋敷どころか、この島からも消えたことを。

だから、その嘘がバレてしまう前に、少しでも早く進まなくてはならない。せめて私が、あの国で使命を果たせるまで。

「──ナマエ様」
「お迎えありがとう。無事で何よりだわ」

海岸の岩陰に隠れるように停泊した船には、私の生まれ育った国の国旗が揺れている。これこそが、命を賭してでも私が背負っていかなくてはいけないもの。
甲板に立っていた兵士が私を引き上げ、そして深々と敬礼をした。その顔には疲労と悲しみが隠しきれずに表れている。

「お父様も、お姉様たちも無事なのね」
「ええ、今のところは……」

重々しく伏せられた瞳は、目の前の私という厄災に怯えているのではない。今、私は初めて一人の姫として祖国の人間の前に立てたのだ。
すうっと、深く息をする。心の中の寂しさと躊躇いに気づかれないように、声を研ぎ澄ませる。

「では、私を早く国まで」

出航の準備に取り掛かる兵士たちを見つめながら、クラッカー様と過した島に背を向ける。振り返ることは出来ない。私の幸せなおとぎ話はもう、最後のページまで辿り着いてしまったから。







太陽にはもう会えない



back/silent film