「なっ……!」

なかなか訪れない衝撃と痛み、そして父の声に驚いて閉じていた瞳を開ける。一瞬その明るさに眩んだ視界が正しさを取り戻した時、そこにいたのは、ずっと瞼の裏で思い描いた姿だった。
ステンドグラスに描かれた英雄の絵を背後に、いつも身につけているはずの鎧もまとわず、今ここに立っている。

「何勝手なことしてやがる」

明らかな怒気を帯びた声。驚きなのか、喜びなのか、判然としない感情が込み上げて言葉が出ない。そんな私の喉元に短剣を当てたまま、鎧姿のクラッカー様しか知らないお父様は、突然の乱入者に呆然と立ちつくしている。

クラッカー様の手がお父様の持った短剣を掴み、そして私の喉元に小さな傷を作ったそれは、あまりにもあっさりと砕けた。剣の折れる透明な音が響く。かの英雄の剣、それはもう私の命を奪うことは出来ない。

ぼんやりとその破片が飛び散るところを見つめていると、不意に身体が引き寄せられる。

「何が大丈夫だ。自己犠牲を愛だなんて、履き違えるな」

クラッカー様に抱きしめられた腕の中で、すうっと肺いっぱいに空気を吸い込む。こんな大きな体で、甘ったるいお菓子みたいな匂い。これがクラッカー様の匂いだ。

「ねえ、クラッカー様、私この匂いだけで世界中からあなたの作ったビスケットを見つけられる気がするわ」

張り詰めた緊張の糸が切れ、安堵によって満たされる心。ついクスクスと音を立てて笑ってしまえば、呆れたようにクラッカー様が瞳を眇める。

「……そんな呑気なこと言ってないで、まずはあの言葉を撤回しろ」
「え?」
「おれがお前を責任感で愛しているなんて、ふざけたことを言ったことだ」

クラッカー様を傷つけてしまった私の言葉。自分で口にしたその言葉にまた傷ついたように顔を顰め、そして、私をだく腕の力より強まる。

「そんなものでこんなにも心が乱され、ナマエが島を出たと聞いて心臓が止まりそうになるものか」
「……私が妻だから、優しくしてくれてるって」
「一体、いつの話をしてるんだ。そんな責任なら、とうの昔に果たしてる」

出会ったばかりの私に向けられたのは、確かに責任感ゆえの愛であったはずだ。妻としてやってきた女を、夫として不自由なく過ごさせてやらねばならないという、ただそれだけの。
苦しいくらいに私を掻き抱いていた腕が、するりと私の背骨をなぞるように触れ、髪を梳きながら、そっと頭を撫でる。まるで、私がここにいることを確かめるように。

「今はただ、愛しいだけだ」

クラッカー様の声が鼓膜を揺らした瞬間、声も出ないくせに唇が震えた。本当は、ずっと気づいてはいた。私に向けられる愛が、見返りなど必要としない無償のものであることを。だけど、それを認めるわけにはいかなかった。

優しく愛される時間の中で、何度も何度も、占いも厄災も幽閉された城の記憶も、私にかけられた呪いが薄れていくように感じることはあった。それでも、その呪いが解けることがなかったのは、私が必死にそれに縋りついていたからだ。

この呪いがなければ、私は今日ここに来ることを躊躇ってしまったはずだから。船に乗る足が竦んでしまったはずだから。厄災として生まれ、厄災として死ぬことを、誰よりも私が私に強いていた。

それが今、こんなにも自由になってしまった。

目じりに溜まった涙がこぼれ落ちそうになった時、カシャンと無機質な音が響いた。振り返ればお父様が折れた短剣を床に落とし、震える唇で彼の名前を呼んだ。

「貴殿が……クラッカー……様?」

私たちのやり取りを見て、お父様も彼がクラッカー様であることを理解したのだろう。狼狽えながら「ああ、これは……」と、頭を抱えたお父様が、その場に膝をつき深く頭を下げる。

「どうか、お咎めは私の命だけで!国の者にも娘たちにも、なんの罪もないのです!」

額を床に着け、何度も謝罪の言葉を口にするお父様を見て急激に体の温度が下がっていく。そうだ、私たちがしたことは裏切りで、欺きなのだ。かの四皇の一角である大海賊を裏切った報復、無残に殺され晒しあげられるお父様……そこまで想像してその恐ろしさに首を振る。
お姉様たちもお父様の後ろで同じように膝をつき、許しをこおうと懇願している。私もそれに続こうとクラッカー様の腕から抜け出し、お姉様たちのもとへ駆け寄ろうとした時、引き止めるように腕を引かれた。

「咎?罪?……何の話だ」

興味無さそうに鼻で笑ったクラッカー様の胸にぐいっと、頭を押し付けられる。

「おれはただ痴話喧嘩の末に実家に帰ってしまった妻を連れ戻しに来ただけだ」

軽快に声を上げて笑ったクラッカー様の瞳がゆるかな弧を描いたまま私を見つめる。その目から視線を逸らすことも出来ないまま、トクトクと心臓は足早に鼓動する。

「まァ、帰るついでにおれの邪魔をしようとした、どこぞの国は潰して帰るかもしれんがな」
「クラッカー様!」

爆ぜるように飛び上がってその首に手を回して抱きつけば、不意をつかれたのか珍しくバランスを崩して少しよろめいた。
危ないだろ、と窘める声なんて聞こえないふりをして、言葉にしきれないこの想いを伝えるようにその首筋に顔をうずめる。止まらない涙も、零れる嗚咽も、まるで小さな子供のようだ。そんな私に呆れたように短いため息をついたクラッカー様が、それでも愛おしそうに、その大きな手で私を抱えながら優しく背中を撫でてくれる。手のひらから伝わる体温。それがこんなにもあたたかい。









□■□■









一通り泣き尽くして顔を上げると、お父様とお姉様たちも肩を寄せ合って慈しむように私を見ていたものだから、急に色々なことが恥ずかしくなってしまった。顔を赤らめる私を鼻で笑って、クラッカー様が「帰るぞ」と口にする。

お父様がお礼の品を宝物庫から用意させようとするのを憮然として断るクラッカー様に、お父様が困ったように眉を下げる。だからこっそりと、「まずは国民のために使えと言ってくれてるのよ」と耳打ちをする。それがどうもクラッカー様にも聞こえていたようで、面映ゆそうに顔を背けられてしまった。

そしてクラッカー様がここまで乗ってきた船に今度はふたりで乗り込もうとした時、お姉様たちが駆け寄ってきた。その手には一枚の写真が握られている。

「お母様の写真よ」
「……お母様?」
「ナマエが傷つくと思って、今までずっと見せないようにしていたのだけど……今なら大丈夫でしょう?」

受け取ったその写真には、上品に微笑む女性の姿があった。確かに髪や瞳の色は私と同じで、目鼻立ちも少し似ているかもしれない。でも私にはこんな気品や美しさはありはしない。

「あと数年もすれば、もっとそっくりになるわね」
「……そうかしら?」
「そうよ。その写真は持って行って、お守りよ」
「ありがとう……お姉様」

この広い海の上で別の国へと嫁いだ私が、次にここへと帰って来れる日がいつになるかは分からない。そう思うと後ろ髪を引かれる思いはあるものの、私にはもう帰るべき場所があるのだ。
先に船に乗り込んで私を待っているクラッカー様に手を振る。少し照れたように肩を竦める彼を、こんなにも愛して強いるのだから。








そうして帰ってきた万国、ビスケット島の浜辺でゆっくりと両手を広げる。一週間と離れてはいないはずなのに、不思議ともう何年も長い旅をしてきたような気がする。

いつか、この浜辺でしたのと同じようにヒールを脱ぎ捨て、素足で一歩一歩と歩いてみる。打ち寄せた波がざぷんと、白く泡立って、再び海へと戻っていく。

「ねえ、クラッカー様。私は今、人魚姫みたいな気持ち。初めて陸を歩いたみたいに、すべてが新鮮で、だけどなんだかぎこちない」

後ろを歩くクラッカー様にそう言ってみせれば、片側だけ口の端を上げてからかうように笑った。

「そんな可愛らしいものか。せいぜい生まれたての小鹿だよ。これからはその足で、おれの隣をしっかり歩け。そして泡になんてなろうとせず、幸せになるんだ」

ああ、そうだ。私はもう悲劇のお姫様ではない。もうどこにだって、なんの運命にも縛られず歩いていくことが出来る。そんな私の手を引いて、世界の広さと愛情と幸せを教えてくれた人。

駆け出して勢いよくその身体に抱きつく。だけど、まるで私がそうすることがわかっていたとでも言うように、動じることなく抱きとめられてしまった。砂浜に倒れ込んでみたかった気もするから少し残念だけど、それもまた今度でいい。
これから何度だって、二人でこの浜辺を訪れることが出来る。おとぎ話なんかじゃない。こうして伝わる体温と心音が、私が歩いていく現実なのだから。







泡になんてなってやらない



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