この家で暮らし始めて二週間あまりが経ち、生活にもだいぶ馴染んできた。朝起きて、キッチンの小窓のカーテンを開ける。それから、前日にメイドさんが用意してくれた朝食を温めたり、パンを焼いたりする。お湯を沸かし始めれば、クラッカー様が起きてきて、ふたりで朝食を食べる。食べ終えたらクラッカー様が仕事に行くのを見送って、少し本を読む。

(……はずなんだけど、どうして今日はクラッカー様はずっと家にいるんだろう)

私が食器を洗い終えても、まだ仕事に行く気配のないクラッカー様を見ながら首を傾げる。いつもならもう来ているはずのメイドさんも姿を見せない。

「クラッカー様、もしかして今日はお休み?」
「……昨日言ったはずだぞ」

呆れ返ったようなクラッカー様の声。そう言われると眠る前にそんな話をされた気がする。だけど、ちょうどそのときは読書の最中で、つい聞き流してしまったんだろう。

最初にこの家で夜を迎えたときは、とても緊張したものだけど、クラッカー様からの要求は本の話をすることだけだった。それからも毎晩ベッドの中で本の話をして、眠くなったら眠るし、寝れない夜は小さな読書灯の明かりで本の続きを読む。
時々、読書の途中で寝てしまったはずなのに、朝を起きると綺麗に布団にくるまっていることがあるのは、クラッカー様のおかげだと知っている。世間の夫婦が夜の寝床でどんなことをするのか、知識では当然知っているけど、私たちがそんな夜を過ごすことがどうにも想像できない。

(……でも、クラッカー様なら私は)

そこまで考えたところでハッと我に返る。そして同時にカッと頬に血が上っていく。きっと今ごろ顔中真っ赤に違いない。それを誤魔化すように窓から外を見渡す。
ああ、今日はとてもいい天気だ。どこまでも晴れ渡る大空というのは、まさにこんな空のことを言うんだろう。すうっと心が吸い込まれていくような心地がする。

「家の中にいるのがもったいないくらい」
「……散歩でも行くか」

そう呟いてしまったのは無意識だったのに、予想外に返事が返ってきたので驚いて振り返る。当たり前だ。あの国と違って、ここでは私の声はちゃんと人に届くのだ。それなのに、ついそのことを失念してしまう。

「あ、ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないの」

毎日家の中にいる私と違って、クラッカー様にとってはせっかくの休みなのだ。それをわざわざ私のために使わせるなんてとんでもない。こんなに良くしてもらっておきながら、さらにわがままをいうような自惚れた女にはなりたくないのに。

「別に散歩くらい遠慮するな」
「ひとりで行くから大丈夫よ」
「……普段からひとりで家から出ているのか?」
「いいえ、まだないわ」
「それなら、これからもひとりで家から出るな。ほら、さっさと準備しろ」

そう言って足早に部屋を出て行ってしまうクラッカー様を追いかける。クラッカー様によって管理されているこの島で、その妻である私が歩いても、危険なことなんてそうはないはずだ。そんなこときっと、クラッカー様の方がわかっている。それなのに、私がひとりで出歩くことを嫌がる。
ああ、駄目だ。これはただの庇護欲なのに、勝手に独占欲じゃないかなんて勘違いしてしまいそうになる。





唇からこぼれるロマンス



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