石畳の道を歩きながら、半歩前を歩くクラッカー様を見上げる。こうして歩くのは、初めてこの国を訪れた日以来だ。だけど、あのとき彼の周りには沢山の人がいて、空気だってもっと緊張感が漂っていた。
クラッカー様がこの国の中でもとても強いということは、結婚式の際に色々な人から聞かされた。そんな人と夫婦になって、今こうしてふたりで町を歩いている。不思議だ。ここに来る船の中では、私の孤独はこれからもずっと続いていくものだと思っていたのに。

「この国は本当に甘い匂いがするわね」
「そうかァ? そういえば、鼻がいいと言っていたな」
「ふふ、そうよ」

クラッカー様が私を見ながら笑うので、私も得意げな笑みを返してみせる。
道沿いに並んだ店のショーウィンドウには、色とりどりなお菓子たちが並んでいる。宝石みたいに輝くベリーのタルト、煮詰められたリンゴが緻密で華やか並べられたタルトタタン。あのタルト生地はこの島らしくさぞサクサクと美味しいのだろう。本当に、この町には沢山の色が溢れている。

「せっかくならどこか行きたいとこでもあるか?」
「それなら海に行きたい」

この島に着いたとき、海で船を降りた後、家まで歩いた道のりを思い出す。散歩にはちょうどよい距離だったはずだし、こう天気が良ければさぞ綺麗に輝く海が見えることだろう。そうするか、と呟いたクラッカー様の後を追って、再び石畳の道を歩き始める。





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「わあ、やっぱり綺麗。一度やってみたかったの!……はしたないかしら?」
「おれしか見てないんだ、好きにしろ」

履いていたヒールを脱ぎ捨てて、素足のまま砂浜を歩く。寄せては返す波が足を濡らして冷たい。頭の中で何度も想像していたこの冷たさ、それをこうして体験することが出来るなんて思いもしなかった。
この海は、世界中どこにだって広がっている。もちろん、私の生まれたあの国にだって。そして、宇宙にいこうと水は水なのだと、この前読んだ本に書いてあった。この海は、この星の始まりを見たのだろうか。そして、同じように終焉も見届けるのだろうか。

「おい、あまりそっちに行くな」

気が付くと、くるぶしよりずっと上にまで波が押し寄せてきている。無意識に少しずつ深いところへ向かって歩いていたらしい。不機嫌そうなクラッカー様の表情、それを見ながらへらりと笑う。

「クラッカー様って、意外と過保護よね。大家族が所以かしら?」
「大切なものを守りたいと思うのは当然だろ」

これくらいで溺れたりしないわと、からかうようなつもりで言ったのに、鼻で笑って一蹴された言葉に何も言えなくなる。その大切なものというものの中に、私は入るのだろうか。

ざばん、と高波が私をさらっていくところ想像する。無力に波に飲まれて、ぶくぶくと惨めに沈んでいく私を見て、クラッカー様はひどく焦るだろう。急いで誰かを呼びに行ってくれるのかもしれない。それとも、泳げないことなんか忘れて、私に手を伸ばしてくれるだろうか。

「──こんなところで呆けるな」

グイッと手を掴まれたかと思うと、そのまま引っ張られて、海から離れるように砂浜を歩かされる。脱ぎ捨てていたヒールはクラッカー様の手によって拾われたようだ。濡れた足に砂がまとわりついて気持ち悪い。このままでは靴が履けないなと、頭の中の冷静な部分で考えるけれど、うまく思考がまとまらない。
クラッカー様と繋がれたままの手。その大きな手から伝わる熱でのぼせてしまっているみたいだ。

禁断の果実を口にした男女は、その罰として地上に落とされた。悪魔の実を口にした彼は、その罰として海に嫌われた。それなら、厄災として生まれながら、幸福の味を知った私も何か罰を受けるのだろうか。





あなたと出会う前の空の色を忘れたよ



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