夜は静かだ。かつてその静かさは、孤独を際立たせるものであったけど、今は静寂の中にある音に耳をすませることが出来るようになった。時計の秒針が進む音、本をめくる紙と紙が擦れる音、がちゃりと重い扉の開く音。

「おかえりなさい、クラッカー様」
「あァ」
「今日は遅かったのね。先にお風呂入っちゃった」

顔を上げた際に、耳にかけていた髪が落ちた。鼻腔をかすめるシャンプーの香り。クラッカー様の帰宅時間はまちまちだ。早い日もあれば、今日みたいに日付が変わる頃の日もある。

お城にいた頃、夜になるとお父様が私を訪ねてくれることをずっと心待ちにしていた。その時間が遅くなれば遅くなるほど、ついにお父様も私のことを見捨てたんじゃないかと、ひどく胸が痛かった。
だけど、クラッカー様の帰宅を待つ時間にはそんな苦しみはなくて、むしろどこかうきうきと焦れったい。それはきっと、クラッカー様が必ずここに帰ってくるという確信があるからなんだろう。

「今日は何を読んでいたんだ」
「有名な戯曲でね、私の一番大好きな本なの」

読みかけのページに栞を挟んで、ぱたんと閉じる。そして、クラッカー様にその表紙を見せながら、ざっくりとしたあらすじを語る。

とある一国の王様は、退位にあたって三人の娘に国を分け与えようとする。だけど、上手に王様に取り入ったのは二人の娘だけで、末の娘は王様の怒りを買って国から追い出されてしまう。しかしその後、王様は娘に裏切られ荒野をさまようことになる。そんな王様を救おうと立ち上がったのは、かつて国から勘当した末娘。しかし、その娘は王様を救おうとしたことで敵国の捕虜となり、獄中で殺されてしまう。そして、それを知った王様は、末娘の亡骸を抱えながら嘆き、絶命する。

「そんなお話」
「ハッ、随分と悲劇的な話だな」

そう言って笑ったクラッカー様に同意するわけではなく、曖昧な微笑みを返す。悲劇的、その言葉を声には出さず、口の中でそっと呟いてみる。
この本はクラッカー様の用意してくれた書斎にあったものではなくて、お城からたった一冊持ち出してきたものだ。幼いときから何度も何度も読み返してきた宝物。間違いなく悲劇の物語だ。この物語の中で救われるものなんてほとんどない。
優しくその表紙を指で撫でる。ああ、だけど、私はずっとこの物語に救われてきた。

「私ね、いつか、この本の少女のように死んでいきたいの」

ぽつりと呟いた言葉。その声は、まるで熱に浮かされるような響きをしていた。ふたりしかいない部屋に沈黙が続く。クラッカー様は私に言葉の続きを求めているのだろう。
夢の中にでもいるように、頭の中がふわふわと落ち着かない。それでも、何かに導かれるように唇は言葉を紡ぎ続ける。

何から何までこの物語と自分を重ねているつもりはない。お姉様たちが、お父様を裏切ることなんてありえないだろうし、お父様に私の死を嘆いて死んで欲しいわけでもない。ただ、私の死に何か意味が欲しいだけなのだ。
だからずっと私は、ひとりぼっちのお城の部屋で、私を生かしてくれたお父様のために、あの国のために、この身を尽くす日が来ることを祈っていた。

「厄災と呼ばれた私が、あの国のために死んだなら、お父様もお母様もきっと報われる。国民だって、私が生きていたことを良かったと言ってくれる」

そうでしょう?と微笑んでみせるけれど、クラッカー様の表情はひどく不機嫌そうだ。じっと私を見つめる瞳に吸い込まれてしまいそう。怒っているのだろうか。だけど、彼を怒らせてしまうような心当たりがなくて、ひどく戸惑う。
先程までの夢の中にいたような心地が、冷たくどこか遠くに去っていく。

「とんだ自己満足の自己犠牲だな」
「……どういうこと?」
「自分で考えろ」

苛立たしげにそう吐き捨てて、クラッカー様は部屋を出ていってしまった。自己満足、自己犠牲。その言葉を何度も頭の中で繰り返してみるけれど、どうにもピンと来ない。
お父様や国のために死にたいなんて願望は間違っているのだろうか。でも、間違いならそもそも、私が生まれたことから始まっている。だから私は、その間違いを出来るだけ役に立つ形で正したいのだ。

(……そうか、それは確かに自己満足かもしれない)

厄災に消え去って欲しいというのが人々の願いであるならば、それがどんな形であろうと関係ないだろう。そこに意味を持たせたいのは私の勝手な願いだ。
だけど、自己犠牲を否定されるのは困ってしまう。私のこんな気持ち、クラッカー様には分からないのだろう。だって彼は、私よりずっと多くのものを持っているから。誰かを大切にしたいと思ったとき、それをひとつひとつ分け与えることが出来る。

だけど私には、この命しか差し出せるようなものなんてないんだ。






つめたい夜の物語



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