あの夜、クラッカー様が部屋に戻ってきてからも、ベッドの隅っこで背中を向けて寝たフリをして過ごした。クラッカー様もそんな私に気付いているようだったけれど、何も言ってくることはなく、大きなため息を一度だけついて眠ってしまった。
なんて子供っぽい拗ね方をしているのだろうと、ひどい自己嫌悪に陥りながら、気が付けば私も眠っていた。

だけど次の日、朝起きたときにはクラッカー様はいつも通りだったので、私もあのことは忘れるように努めて、生活もふたりの関係も元通りになったように見える。
それ以来あの夜のことには触れてない、なんとなくそれはふたりの間での共通認識となっているのだろう。

「今日は生憎のお天気ね」

窓ガラスに雨の雫が伝っていくのをぼんやりと眺める。どんよりとした曇天。黒く厚みのある雲が、雨の重みで落ちてきてしまいそうだ。

「今日はどうする?別に出かけられないことはないだろ」
「ううん、今日はいいわ。おうちにいましょう」

今日はクラッカー様のお仕事がお休みだ。前に海に行って以来、お休みのたびに彼は私を外に連れていってくれるようになった。最初は申し訳なさでいっぱいだったけど、クラッカー様が案内してくれるこの島の場所はどこも素敵だったし、彼も楽しそうなので、いちいち遠慮することはやめることにした。

クラッカー様と出会う前の私だったら、こんなこと考えられなかったはずだ。毎晩同じベッドで眠って、休日にはふたりで散歩をする。これはきっと世間一般では、とても仲のいい家族なんだろう。

(私とクラッカー様は家族なんだろうか)

キッチンに置かれたダイニングチェアに腰掛けながら、じっと目の前に座るクラッカー様を見つめる。結婚をしたのだから、事実上は家族であることに間違いない。だけど、夫婦なんていうのは所詮血の繋がりなんかないのだから、やはりそこにはなにかもっと夫婦を家族たらしめる何かがあるような気がする。

時々、その何かを掴めそうな気がするときがあるのだけど、いつも靄のように消えてしまって、その実態をとらえきれない。

「なんだ、やっぱり出かけたいなら付き合うぞ」
「ううん、そういうわけじゃないの」

じっとクラッカー様を見つめていたものだから、思わず目と目が合ってしまった。それを彼は、私が本心を言えずに遠慮でもしていると受け取ったのだろう。ふるふると頭を振って、気まずげに笑う。
こうやって私のことを気にかけてくれる優しさに触れると、どんな顔をしたらいいのか分からなくなってしまう。優しくされることだけじゃなくて、誰かに何かを与えられること自体にまだ慣れていないのだ。

その一方で、クラッカー様のこうした気遣いはどこか兄らしさがあるなと思う。ああ、それならまるで手のかかる妹とでもいうように私を扱っているのだろうか。それはなんだか嫌だな、なんて思ってしまうあたり、少し自惚れているのかもしれない。
よく考えると、私は結婚以前の彼について何も知らないのだ。私の知らないクラッカー様をもっと知りたいといえば、彼はどんな顔をするだろう。読みかけの本に手をかけるのをやめて、ソファに座る彼に声をかける。

「クラッカー様は、私と暮らす前のお休みの日ってどう過ごしていたの?」
「特に変わったことはしてないな。ビスケットを焼いたりはしてたが」
「クラッカー様のビスケット美味しいものね」

思わず笑みが零れてしまったのは、彼がすんなり答えてくれたからなのか、彼の作る美味しいビスケットの味を思い出したからかは、自分でもわからない。そんな私を見ながら、クラッカー様が何か思い出したように口を開いた。

「これから一緒に作るか」
「え?」
「前に言っただろ」

まだこの家に来たばかりの頃、初めて彼の作ったビスケットを食べた日に、そんな話をしたことを思い出す。あれからそれなりに日が経ったけれど、そんな何気ない会話を覚えていてくれたのか。クラッカー様と並んでキッチンに立つところを想像して、思わず口元がにやけてしまう。

「本当にいいの?」
「ああ」
「私、上手にできるかしら」
「おれがいるんだから問題ないだろう」

そうね、と彼の言葉に頷いて部屋を出る。自然と歩みは軽くなって、屋根を打つ雨の雫が心無しか弾むように感じる。ああ、嬉しいと感じるとき、人はこんなふうに世界の見方すら変えてしまうのか。






□■□■






キッチンで慣れた手つきで道具や材料を用意するクラッカー様。そんな彼の指示に従いながら、作業を進める。
お城にいた頃、身の回りのことはすべて自分でやらなくてはいけなかったので、一通りの家事は出来るようになった。この家に来てからは、ついついお手伝いさん任せにしてしまっていたので、こうしてキッチンに立つことすら新鮮に感じる。

「どうした、手が止まってるぞ」
「なんだか、こうしてクラッカー様とお菓子作りをしてるのが不思議だなって」
「もっと息の詰まるような生活を想像していたか」

ポンポンとビスケットの型抜きをしながら、意地悪そうに笑う彼を見上げる。時々、私をからかうときの笑顔だ。またクラッカー様に対して感じる靄のような感情が湧き上がる。そんな顔を見ていると、ふとさっき心を掠めた疑問を思い出す。

「クラッカー様は家族ってなんだ思う?」
「唐突だな」
「お父様は家族だし、クラッカー様だって家族と呼ぶでしょう。でも、私の中ではこのふたつが同じものだと結びつかないの」

これは私が家族を知らないせいかしら、と首をかしげれば、クラッカー様は少し難しそうな顔をした。それからしばらく逡巡するような素振りを見せてから、結局小さく鼻で笑っただけで何も答えてはくれなかった。
平らに伸ばされて大きかった生地が、穴だらけになっていくのを見ながら、私たちの間には沈黙が続く。

「あとはこれを焼くだけだ」
「こんなふうに自分の手でお菓子を作ることがあるなんて考えたこともなかったわ。まるで魔法みたいね」
「大袈裟だ。料理くらいナマエだってできるだろう」

オーブンの中を覗き込みながら、これが一から自分で作ったのだという感慨に浸る。クラッカー様の言う通り、自分が料理が苦手だと感じたことはないけれど、どうして今まで作ろうと考えなかったのだろう。美味しそうなお菓子の出てくる物語を沢山読んできたし、レシピの本だって何度も眺めた。だけど、それはまるで空が飛べたらいいのにみたいな夢物語のように思っていた。
しばらく考えて、ふとその理由に思い当たる。

「お菓子はひとりで生きてく上では必要なものではなかったから」

栄養を摂るための食事と違って、お菓子は幸せの象徴のような気がする。誰かと美味しいねと笑い合って、その甘さに頬を綻ばせる。そんな光景を想像してきたから、私にはひとりでそれに手を出す勇気がなかったのだ。

「だから今、こうしてクラッカー様と過ごせることが、私とっても嬉しいわ」

ほんのりと甘い匂いがキッチンに満ちている。この時間が幻だと言われても、私はきっとそれを平気で受け入れることができるだろう。例え幻でも、私は今幸せだと心から言い張ることが出来る。
クラッカー様の腕がすっと伸びて私の頬に触れる。その温かな感触が、そんなことを考える私を現実へと引き戻すのだ。

「最近、よく笑うようになった」
「え?」
「そういうところを見ていると、おれはお前を家族だと実感する」

そう言うクラッカー様の表情が、あまりにも優しいものだから、トクトクと心臓の鼓動が鳴り止まない。
クラッカー様のことを思うとこんなにも胸が高鳴って、泣きたいような笑いたいような、そんな切ない気持ちになるのだと、そう彼に伝えてみようか。この感情の正体をこれ以上、上手く伝える言葉もわからないまま、時計の秒針のように心臓は鳴り止まない。






心臓はすなお



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