「おい、明日からしばらく家を空けることになった」
「えっと……そうなの?」
「次に行かないとならない国が遠方でな」

いつも通り仕事を終えて帰ってきたクラッカー様からの突然の報告。その言葉にぱちぱちと目を瞬かせてから、こくりと頷く。つい忘れてしまいそうになるけど彼は海賊である。本来であれば船の上にいるのが普通で、こうして一軒の家で妻と暮らしている方が異質なのだ。

「寂しがるなよ」
「そうやって意地悪ばっかり。ひとりには慣れているのよ」

私をからかうように笑うクラッカー様に、拗ねたように唇を尖らせてみせたのは二日前のこと。

朝方、家を出るクラッカー様を見送って、普段通りの一日を過ごした。クラッカー様の帰ってくることの無い部屋で、ひとりで食事をとって、彼が隣にいないベッドで眠った。そうしてやってきた朝は、なんだかいつもよりずっと冷たくて、久しぶりに起き上がるのが億劫だった。

「寂しいなんてこと、ないのよ」

ひとりで朝食を取りながら呟いた言葉は強がりだ。本当は認めるしかないくらい寂しくてしかたがない。それもたった二日しかたっていないのに。
大きなテーブルに並べられたトーストとスープと簡単なサラダ。いつもならクラッカー様が座っている席には、読みかけの本が置かれている。





□■□■







食べ終えた朝食のお皿をシンクに運び、洗い物を片付ける。メイドさんにはそのままにしておいてもいいと言われるけれど、なんとなく放っておくほうが気が引けるのだ。

「はぁ」

無意識に零れた溜め息にハッとする。お腹は随分と満たされたのに、心はむしろ空っぽなようだ。何かの本で、魂の重さというのを聞いたことがあるので、もしかしたら感情にだって重さがあってもおかしくはない。だから、私の体からは今クラッカー様を思う何かの感情が零れ落ちてしまっていて、それが私という存在を構成するバランスを崩しているのだ。そこまで考えて、何を馬鹿らしいことを考えているのだろうと自嘲する。

すると、トントンと軽く扉をノックする音が響いた。時計を見ると、普段メイドさんが来る時間よりまだ少し早い。首を傾げながら、出ても大丈夫だろうかと考える。だけど、家主のいないこの家を訪れる人なんて、やはりメイドさんしか思い当たらない。何か所用があって、早く来る必要があったのだろうか。

そう思い玄関の扉を開ける。だけどそこに居たのは、見慣れたこの家の専属となったメイドの女性の姿ではなくて、顔に真っ白なメイクを施した男性の姿。驚いて思わず息を飲み、目を見開いてしまう。

「突然の訪問ですまない、クラッカーの兄貴の弟のモンドールだ。結婚式以来だな」
「ええ……お久しぶりにございます」

慌てて微笑みながら頭を下げる。なんとか取り繕えただろうか。一瞬では思い出せなかったけれど、確かに結婚式の際に弟だと紹介されていた。けれど、そんな彼がどうしてこの家を訪ねてきたのだろう。クラッカー様が家を留守にしているとは知らずに尋ねてきたのだろうか。

「クラッカー様でしたら、今は家を空けておりまして」
「ああ、承知しているから大丈夫だ。そのクラッカーの兄貴に姉貴の様子を見に行くように頼まれていてな」
「えっ、あ、それは有難うございます。宜しければ中に入られてください。お茶くらいお出ししますので」

恐らく私よりも年上と思われるモンドール様に姉だなんて呼ばれたこと、クラッカー様に頼まれたということ、様々な情報が一気に流れ込みすぎて、結局こんな言葉しか出てこない。こういう時、自分が人付き合いに慣れていないことを思い知らされる。どんなに知識ばかり詰め込んだところで、社交場に慣れている王族の娘など、私に演じられるはずがないのだ。

「たいしたお構いも出来ませんが」
「すまないな。俺も仕事があるから、すぐに暇する」

紅茶を注いだカップをそっとモンドール様の前に置き、私もその向かいの椅子に腰掛ける。なんとなく気まずい沈黙が流れ、何か喋らなくてはと思うのだけど、上手くその話題を見つけられない。
表情には出さないよう心がけながら、内心で焦っていると、先に口を開いたのはモンドール様だった。

「変わりなく過ごしているのか?」
「ええ、よく計らって頂いているので、何不自由なく。ですので、クラッカー様がこうして私の様子を気にかけて頂いているとは思いませんでした」

その言葉を聞いてモンドール様が思わずと言ったように笑うので、何かおかしな言葉を使っただろうかと不安になる。そもそも付け焼き刃な上に、こうした言葉遣いを使うのも久しぶりだ。

「いや、クラッカーの兄貴は随分と姉貴をひとりにすることを心配していたぞ。退屈しのぎに話をしに行ってやれと、俺に頼みに来るくらいだからな」
「……退屈」

今度は私の方が笑ってしまう。私の身の上を知っていて、ひとりで過ごすことで退屈しないかなんて気にかけてくれるのだ。そんな些細な気遣いに、ああ、早く会いたいと思ってしまう。

「書斎の本には満足してくれたか?」
「ええ……?」

どうしていきなりそんな話をと思いながら、実際とても満足しているので頷く。そんな私の表情に、何か合点がいったとでもいうようにモンドール様が口を開く。

「ああ、聞いていないか。あの本を見繕ったのは俺なんだ」
「えっ!そうだったのね、知らずにごめんなさい!とても素敵な本ばかりで……」

興奮のままそこまで喋ったところでハッと口を押える。つい口調が普段のものに戻ってしまっていた。そのことを謝ろうとすると、そっと制される。そのままでいいと言うことなのだろう。ただ、私としてはそういう訳にもいかないので、曖昧に微笑みながら、軽く頭を下げる。

「今は何を読んでいるんだ」
「ええ、これを」
「ああ、随分と昔に読んだきりだな」
「多感で透明な心情が巧みですよね。この一節を覚えていらっしゃいますか」

頷きながらモンドール様に見せるように持ってきた本の表紙を撫でる。そして、小さく息を吸って、謳うように本の中のセリフを諳んじてみせれば、ほう、とモンドール様が感嘆の声を上げる。そんな彼を見ながら、おそるおそる口を開く。

「モンドール様は私の身の上をご存知ですか?」
「いや、特殊だと少し兄弟の中で噂になったことはあるが、クラッカーの兄貴は何も話さないからな」

クラッカー様が兄弟にも私のことを話していないのは、予想していた通りだったので敢えて驚きはしなかった。決して私のことを知られたくないからではなくて、この国に来たばかりのころ、彼にこの話をすることを渋ったから。だから、彼は兄弟にさえ私のことを話さないでいてくれている。そういう優しさを持った人なのだということくらい、もう嫌というほど分かってしまっている。

「時々、本当の自分がわからなくなるんです。お城にいた頃は、孤独な自分が本物だって、本を閉じればちゃんとわかったのに、ここにいるといつまでもおとぎ話の中みたい」

ポツリポツリと語りだす私に、モンドール様は一瞬驚いたようだったけど、何も言わずに私の言葉に耳を傾けてくれている。
クラッカー様は今、どこで何もをしているのだろう。仕事だからと詳しいことは教えてもらえなかった。ただ遠い国に行くだけなのか、そこで何か危ないことが待っているのかも私は知らない。もしもそこでクラッカー様の身に何かあったら、という考えが、彼と離れてから胸をよぎるときがある。

「どんな物語も、いつか終わりを迎えるでしょう。物語と現実の区別も分からなくなったら、その先に待っているものは何なのかしら」

今まで沢山の物語を読んできて、その追体験だけが私のすべてだった。だけど、ここに来てからそれだけがすべてではなくなってしまった。

「ああ、なるほど。つまり、怖がっているということか」
「え?」
「いつかの終わりを心配するほど、クラッカーの兄貴のことが好きなんだろ」

納得したように頷くモンドール様の言葉が上手く呑み込めない。何か言わなくてはいけないと思うのに、言葉が出てこなくて、魚のようにパクパクと口だけを動かす。
そんな私にお構いなしにモンドール様は、ティーカップに残ったお茶を飲み干して、立ち上がってしまった。

「俺はそろそろお暇する。クラッカーの兄貴には、姉貴が寂しがっていたと伝えておくよ」
「え、あ、いや……」

慌てて立ち上がったものの、ちゃんと見送ることも出来ないまま帰って行かれてしまったモンドール様。バタンと閉じた扉を眺めながら、力が抜けたように再び椅子に座る。

「クラッカー様を、好き……」

言葉にしてみると、呆気ないほど単純な感情だ。恋の物語を読んでは、勝手に知ったような気になっていた感情。誰かを好きになることなんて、私には一生関係のないことだと思っていた。だから、クラッカー様を見ると胸に立ち上る感情の渦の正体に気づけなかったのだろう。

「私は、クラッカー様が好き」

今度は確証を持ったように声に出してみる。それは驚くほど素直に身体に馴染んでいくような気がした。そうか、私はもうずっと、クラッカー様のことが好きだったのだ。
クラッカー様のいないこの家は、まるであのお城のように冷たくて孤独だったはずなのに、なぜか急に温度を増したような気がした。

ああ、愛を知った私は寂しさだって知ってしまったのだ。だけど、寂しいと言えることは孤独じゃない。窓から青い空を見上げる。
ああ、早くクラッカー様に会いたい。そして、私は貴方のことが好きで、幸せで、それで、とても寂しかったと伝えなくてはいけない。






さみしがりやの国



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