あんぱん-Sweet red bean bun-

「いっぱいあるからちゃんと並んでね」

はーいという元気な声に自然と笑顔になる。先週宣言した通り、学園長から炊き出しのボランティアという名目で許可をとった私たちは、鏡を使わせてもらってスラムへとやって来ていた。目の前の机に並べた様々な種類のパンは、昨日からラギー先輩にも協力してもらって作ったものだ。

初めて訪れたスラムは思っていたよりも綺麗で、ラギー先輩が集めてくれた子供たちもみんな、明るく元気ないい子たちだった。
もちろん、ここがスラムのすべてだなんて思ってはいない。この路地の向こうには平和ボケした私には想像もできない過酷な生活があるのだろう。今日、ラギー先輩は私のためにそんな多くのものを隠してこの場所を用意してくれたのだ。そう分かっているから、私はちゃんとここだけを信じるフリをする。

「もうみんな落ち着いたみたいだし、ちょっと休憩したらどうッスか」

そう言われて辺りを見ると、さっきまでの行列を作っていた子供たちは、みんな手に持ったパンを頬張って美味しそうに食べていた。その笑顔に心がじんわりと温かくなる。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい、お疲れ様ッス」
「ありがとうございます」

近くに用意してもらった椅子に腰を下ろすと、ポットに淹れてきたお茶をラギー先輩が渡してくれた。カップ越しに伝わる熱が、忙しさに張り詰めていた身体に染み渡る。

「ナマエくんのおかげでみんな喜んでるッスよ」
「ホントですか?それは頑張って準備した甲斐がありますね」

へらりと笑いながら、一口お茶を口に含んだ。朝からてんやわんやと動き回った疲れとともに充足感が押し寄せる。だけど、このまま満足してはいけないのだとも自分に言い聞かせる。
今こうしている広場の奥、レンガ造りの建物の間の細く暗い路地の向こう側。そこでラギー先輩が生き抜いてきた世界を想像すれば、やはり今私が行っていることは偽善でしかないのだろう。「ありがとう」と言ってパンを受けとる子供たちのあまりにも細い腕は、ここでの生活の厳しさを物語るようだった。そう、きっと今日ここに集まってくれた子供たちすべてが、立派に大人になれるわけではない。

「ラギー先輩」
「なんスか?」
「……ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ」

そんな気持ちを話してみようかと思ったけど、いざ口を開いてみると上手く言葉がみつからなかった。優しいだけの世界に生きてきた私の口から吐き出してしまえば、どれだけ言葉を選んでもそれは綺麗事にしかならないような気がしてしまう。だから、せめて精一杯の気持ちを込めて口にしたお礼の言葉。それで少しでも何か伝わってくれたのか、ラギー先輩の瞳が一瞬驚いたように見開いて、それから優しく細められる。
そうしてしばらくお茶を飲みながら佇んでいると、ひとりの男の子が私の方に向かって走ってきた。

「あのさ!」
「うん?どうしたの?」

椅子から立ち上がって、彼の目線に合わせてしゃがむ。その小さな手に握られているのは食べかけのあんパンだ。

「これ、本当にお姉ちゃんが作ったの?」
「そうだよー。美味しい?」
「うん、すっげー美味い!こんなに美味いパンが作れるなんて、お姉ちゃんも魔法が使えるの?」

はっと息を呑む。無邪気な笑顔と言葉に、なんて返せばいいのかわからなくて半開きのまま固まった唇。元の世界でなら、もちろんと気軽に冗談めかして肯定していただろう。だけど、この世界には本物の魔法使いがいる。そして私は、この笑顔を明日も守ってあげると約束することさえできない無力なただの女の子なのだと知ってしまった。

そのキラキラとした眼差しが心に刺さって痛い。思わず瞳を逸らしてしまいそうになったとき、後ろにいたラギー先輩がそっと私の頭に手を置いた。

「そうッスよ。このお姉ちゃんは、オレよりも凄い魔法使いッス」
「え!ラギー兄ちゃんより!お姉ちゃんすげー!」

期待と尊敬のこもった眼差しで私を見つめてから、クシャッと笑顔を作った男の子が「みんなにも話してこよ!」と走っていく。そんな後ろ姿を呆然と見送ってから、困ったようにラギー先輩を振り返る。

「ラ、ラギー先輩……」
「いいんスよ。アンタはなんか色々考えてるみたいだけど、そんなこと一生の中で一度だって考えたこともないヤツらが大半なんだから。だから、そうやって少しでもオレたちに寄り添ってくれようとしてるだけで、みんな嬉しいって思ってるッスよ」

シシシッっと悪戯をした後みたいに笑うラギー先輩に、一緒になって笑いたいような泣きたいような気持ちが込み上げる。私だって本当ならそんな大半のひとりだったのだろう。世界は平和なのだと思い込んで、毎日美味しいだけのパンに囲まれて生きていた。この世界にやってこなければ、いや、ラギー先輩に出会っていなければ。

「あ、それともヒーローのほうがよかったッスか?」
「ヒーロー?」
「ほら、あの子持ってたのあんパンだったし、前に話してた顔がパンでできてる変なヒーローと一緒じゃないッスか」

その言葉にああと頷く。そういえば前にそんな話をしたことがあった。お腹をすかせた子供のための優しいヒーローは幼い頃の私の憧れだったという話。

「変じゃないです、世界一かっこいいヒーローです」

拗ねたようにそういえば、やっぱりおかしそうにラギー先輩は笑う。その笑顔を見ているとぎゅっと胸が締め付けられるようになったのはいつからだろう。

「あと、いつもパン作るときに口ずさんでるって言ったあの歌、今日も歌ってたんで覚えたッスよ」
「あっ!どんな歌でした?」
「……下手でも笑わないでくださいよ」

ごほんと一度だけ咳払いをしてから、ラギー先輩の唇が紡いだ旋律。それは確かに、元の世界で何度も聞いた歌だった。酔っ払うとお父さんがいつも歌っていた、優しい恋の歌。

──君と出会えたことを僕
──ずっと大事にしたいから
──僕がこの世に生まれ来たわけにしたいから

そうだ、あれは確かこの世界にくる少し前。相変わらず気持ち良さそうに歌うお父さんを見ながら、呆れたように笑ったお母さんが、こそっと私に教えてくれたのだ。「この曲はね、昔よくお母さんがお父さんに歌ってってお願いしてたの」そんなお母さんの声が蘇る。
あのとき感じたなんだかくすぐったい気持ちと、今こうして私の心をひしめく気持ちが、ゆっくりと混じり合う。ずっと胸の中につかえていた違和感。どうしてラギー先輩の美味しいの言葉がこんなにも嬉しいのか、ラギー先輩との距離を感じると不安になるのか、もっと近づきたいと思うのか。

そうか、私はもうずっと、ラギー先輩に恋をしていたのだ。




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