バゲット-buguette-

好きだという自覚を持ったからと言って、そのままでは何かが変わるわけではないのだということは、さすがに知ってはいた。だけど、だから何をしたらいいのかということが分かるほど、恋を知っているはずもない。

「ラギー先輩、こんにちは。お昼一緒にいいですか?」
「あー、全然いいッスよ。どうぞ」

中庭の木陰で、食堂のサンドイッチを食べようとしていたラギー先輩が少し隣にズレてくれる。
今日はパン屋の営業がない日なので、あわよくばラギー先輩がいたらいいなと思いながら中庭まで足を運んだけど、本当に会えたものだから、つい頬が緩みそうになる。
ラギー先輩の隣に腰を下ろし、持ってきた紙袋からお昼ご飯を取り出す。

「バゲットのサンドイッチ?」
「はい、昨日売れ残ったやつをカスクルートにしてみました」

バゲットに生ハムやチーズ、それからトマトにレタスまで挟んだサンドイッチ。歯ごたえのしっかりしたバゲットはこれひとつで十分お腹に溜まる。
もぐもぐと咀嚼しながら、ちらりと隣のラギー先輩を盗み見る。大きな口でサンドイッチにかぶりつくその姿に、思わずとくとくと心臓の鼓動がそのリズムを早くする。

今、このパンについて語ってみせろと言われたら、いくらだって饒舌に語る自信があるのに、この気持ちを伝える、あるいは好きになってもらえるために話をしようと思うと、何ひとつだって言葉が浮かばない。
あまりにも経験値が少ないのだ。小さな頃からずっとパンの作り方は習ってきたけど、恋のいろはなんて誰も教えてくれなかった。恋の仕方を教えてくれる師匠は、この世界のどこに行ったら会えるのだろう。

「さっきから難しい顔して、どうしたんスか」
「いや……師匠のことを、ちょっと」
「師匠?ああ、お父さんからパン作りは教わったんスもんね」

考え事をしている最中に突然話しかけられたものだから、うわ言のように咄嗟に口にしてしまった言葉に一瞬なんのことかと首を傾げたラギー先輩がなにやら勝手に納得して頷いている。だけど、本当は恋の師匠になってくれそうな人を考えていたなんて言えるわけもないので、それでいいやと話を合わせることにする。

「んー、お父さんは確かに私のことを一番弟子って呼びますけど、私の師匠かっていうと、ちょっと違うんですよね」
「そうなんスか?」
「ルーツではあるんですけど、私とお父さんの目指す店は違ってて、だからいずれは修行に出ようって思ってたんです」

父は日本の製パン学校には通っていたけど、ほとんど独学でその技術を身につけた人だ。だから、良くも悪くも伝統とは外れたパンがうちの店の味だった。
私はもちろん、そんな父の作るのパンの味を好きだと思いながらも、伝統的なパン作りも習得しておくべきだと考えていて、そこが父が私の師匠にはなり得ない理由だった。

「私の世界だったら、パンといえばフランス修行なんですけど、この世界だとどこなんでしょう?輝石の国とか?」

いつか自分の店を持つというのが、パン作りを始めてからの夢ではあった。うちを継ぐことも考えたけど、出来れば一からやってみたかった。それがまさか異世界だなんて思いもしなかったけど、こうしてそれなりに生活もできるようになってきたし、このままこの世界で店を持つのもいいなと思っていて、それが先日スラムに行ったことで、はっきりとした夢になりつつあった。

「何年か修行をしたら、夕焼けの草原にお店を出したいって思ってるんです」
「え?」
「それで時折、前みたいにスラムで炊き出しみたいなことをしたりとか……なんて、甘すぎますかね?」

甘くて、単純な考えだとは自分でも分かっている。きっと大変なことも多いだろう。
それでも、私にも何か出来ることがあればいいなと思ってしまった。私のパンひとつで世界を変えることなんて出来ないだろう。だけど、私の作ったパンを魔法みたいと呼んでくれたあの子みたいに、ほんの一瞬の笑顔に繋げることは出来るかもしれない。それが偽善だろうと、世界の優しさなんて、結局はそんな陳腐な善意の固まりなんじゃないだろうか。

あの日、無邪気な子供の言葉に戸惑う私を肯定してくれたラギー先輩。そのときと同じ笑顔で頷いてくれると思ってその顔を見つめる。だけど、その瞳は驚いたように私を見ているだけで、目が合うと気まずそうに視線を逸らされてしまった。

「ああ……まあ、いいんじゃないッスか」

そっけないその言葉に、きょとんと目を丸くするのは私の番だった。それから、はっと我に返る。どうして私は今、自分の描く未来に当然のようにラギー先輩の姿を思い浮かべていたのだろう。

色々ありすぎて、今では随分と昔のことのように感じる中学生の頃、卒業が近づき始めると、恋人と高校が離れてしまうと嘆いていた友人の姿を思い出す。あの頃は何をそんなに不安がることがあるのだろうと思っていたけれど、あの日常を学校という小さな枠組みは、ある程度約束してくれていたのだ。それはこの世界でだって同じで、いずれこの学園を卒業しても、ラギー先輩が今みたいに私と仲良くしてくれる約束なんてどこにもない。

「……そのサンドイッチ美味しいですか」
「普通に美味いけど……食べてみるッスか?」
「いらないです」

卒業までは、まだいくらだって時間があるのは分かっている。それでも、恋をしたことに舞い上がって、なんとなくそれだけで満足しつつあったことも、勝手にラギー先輩とはこれからも一緒にいるような気がしていたことも、あまりに子供っぽくて悔しくなる。
ラギー先輩が今食べているサンドイッチは私が作ったものではない。私のパンじゃなくたってラギー先輩は美味しいと言うのだ。まともに恋をしたこともない私は、恋が報われないこともあることさえ忘れていた。

やり場のない気持ちを抱えたまま、食べかけのカスクルートを睨みつける。あんなに美味しく出来たと思っていたはずなのに、今はまるで続きを食べる気になれなかった。






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