ドーナツ-Donut-

話し合ってみろと言われたところで、冷静になってみると好きだということがバレたうえで脈がないって、それはあまりにも絶望すぎるのではということに気がついた。だから結局、何ひとつ変われないままエースたちと買い出しに行った日から数日が経ってしまった。

今日は開店日じゃないから朝もお昼もゆっくりできた。見上げた空だって、それはそれはどこまでも突き抜けるくらいに青くて、初夏の爽やかな陽射しが照りつける太陽がきらめいている。そんな日でありながら、私はどうにも厄日だったらしい。

「だからさー、美味しくなかったから金返してくれって」
「……美味しく、なかったから」

お昼ご飯を食べてからひとりで散歩をしたい気分になってしまったのが間違いだったのだろうか。校舎裏の林、池の近くでぼーっとしていたら、いかにもニヤニヤとこちらをバカにしているように笑ってくる男子生徒に声をかけられた。まずいなーと思いながらも、周りには知り合いどころか、そもそも私たちしか人がいない。

「……それは、すみませんでした。返金しますね」

はあ、と心の中で大きくため息を吐いてからポケットからお財布を取り出す。ピンチだなと思いながらも、実際のところはそれほど慌てていないのは諦めのようなものなのだろう。商売をやっていればこんなこといくらだって起こるものだ。父も時々、はたから見たらこっちが憤りたくなるようなクレームにじっと頭を下げていた。だから、そういうことなのだ。

ただちょっと運が悪い日だった。値段だけ見ればたいした損失ではない。それよりも悲しいのは、美味しくないと言われたことの方だった。どうせなら美味しかったけど、お金が無いから金を返してくれと言われた方がいいなって思ってしまうくらい。

「じゃあこれ、確認してください」
「おー、ありがと……って、うわっ!」

言われた金額を手渡そうとした瞬間、何故か目の前にいた男子生徒が自ら池に飛び込んだ。びしゃんと大きな水しぶきがたって、予想外の出来事に思わず目を瞠る。そうしたら今度は誰かに腕をひかれて、何が起きたのか理解できない私の身体がぐるんと反転する。私まで池に、と一瞬思ったけれど、進んでいく方向は池とは反対の林の中。それに私の手を引っ張っているのも見慣れていたはずの後ろ姿だった。

「……ラ、ラギー先輩」

池から随分と遠ざかってからなんとかその名前を呼べば、やっと足を止めてくれたラギー先輩が振り返る。

「さっきの、ラギー先輩のユニーク魔法ですか」
「そうに決まってるじゃないッスか」
「……じゃあ、助けてくれたんですか?」
「それ以外に見えないでしょ」

状況を整理したくてひとつひとつ確認していく私に、ラギー先輩が思わずというように笑ってくれた。それまでは怒ったように私を見ていたから、その笑顔に少し安心する。

「助けてくれてありがとうございます」
「駄目ッスよ、あんな簡単に渡したら」
「だって、しょうがないかなって」
「そういうときもあるかもしれないけど、さっきはそういうときじゃなかった」

すっと笑顔が消えて、はっきりと窘めるように私に向けられたラギー先輩の声色。確かにここは学園で、私も彼らも学生なのだから、もう少し何か出来たことはあったのかもしれない。「ごめんなさい」と大人しく肩を落として呟けば、ラギー先輩がそっと私の頭を撫でた。
そこに確かに感じるラギー先輩の手のひらの感触に、ぶわりと体温が上がる。ああ、困る。まだ自分の気持ちのやり場も整理出来ていないのに、こんなふうに優しくなんてされてしまったら、やっぱりどうしようもなく好きだと思ってしまうじゃないか。

「──で、そろそろオレのことを避けてた理由を聞いてもいいッスか?」

一瞬その言葉の意味が理解出来ずぽかんとラギー先輩の顔を見つめて、それから急激に血の気が引くのが分かった。何のことを言われているかなんて分かっている。でもだからといって、認めるわけにもいかない。

「避けて、なんて」
「避けてたじゃないッスか。急に会いに来なくなるし、買い出しはエースくんたちと行くって言い出すし。結構傷ついたんスからね」

そんなこと言って、あんなにあっさり受け入れたくせに。そんな恨み言が喉まででかかったけれど、握られたままだった手に力を込められたことの方に思わず意識がいってしまってそれは叶わなかった。私の手を強く握ったまま、ラギー先輩が私を見つめている。そんな状況に心の中がどんどんと掻き乱されていく。

「最初はやっとオレのこと好きだって意識しだしてくれたのかなって思ったら、どうもそれだけじゃないみたいだし」
「えっ!」
「顔、真っ赤ッスよ」
「……やっぱり気づいてたんですね」
「そっちも、好きだって気づいたんスね」

意地悪な顔。時々見せるその表情が好きだったはずなのに、今は腹立たしくて、悲しくて、それでいて、それでもまだ好きだとも思ってしまうことが悔しかった。ラギー先輩は私が向けていた恋心に気づいていて、それでも何も言わずずっと傍にいた。そしてまた、こんなふうに私に優しくして、変わらず可愛い後輩だって扱うんだろうか。そんなの、もう耐えられないとこまで来てしまったのに。

そう考えてしまったらもうこれ以上ここにいたくなくて、握った手を無理やり振りほどこうとすると、そんなこと許さないとでも言うように強く手を引かれた。

「なんで逃げようとするんスか」
「ラギー先輩こそ、なんでそうやって思わせぶりなことばっかり!」

ほとんど叫ぶようにそう口にすれば、なんとかギリギリで堰き止めていたはずの言葉が流れ出していくのが分かった。それに引きずられるように涙まで零れてきて、情けないなと思う心までもうコントロールができない。

「好きですよ!好き!大好きです!好きだとか気づく前から、当たり前みたいにこれからもずっと一緒にいるって思っちゃってたくらいに好きです……ラギー先輩はそんなこと思ってないのに、私バカみたいに」
「え、待って、なんでそんな話になってるんスか」

珍しくひどく焦った様子のラギー先輩が空いている方の手で乱暴に私の涙を拭う。そんな仕草に絆されないぞと思いながら、あの日の会話の話をすればラギー先輩の瞳が大きく見開いて、それから大きなため息と一緒にずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。私と繋いだ手はしっかりと握ったまま。

「はー、違う。違うんスよ」
「違う?」
「あれはちょっと、驚いたっていうか……てっきり元の世界に帰りたがってると思ってたのにあんな話するから嬉しくなったっていうか」

私に話しかけているというよりは、自分に言い聞かせているかのようにブツブツと呟くラギー先輩を見ていたら、なんだか私も冷静になってきて、あんなに泣き叫んでしまったことが急に恥ずかしくなってきた。

「ラギー先輩?」

恐る恐るその名前を呼べば、眉を下げた情けない表情で私を見上げて、そっと手招きをされる。そんな仕草がちょっと可愛いなと思ってしまいながら、大人しく一緒になってしゃがみこむ。すると、今度はがしりと頬を掴まれる。

「オレだって好きで、好きで、大好きッスよ」
「……う、うそだ」
「嘘じゃない」

逃げることも顔を背けることも出来ないままラギー先輩の告白を受けて、じわりと頬が赤くなるのが分かる。こんなときに冗談を言うような人じゃないことくらい知っているつもりなのに、素直にその言葉を受け入れられないのは、勝手な思い込みであれだけ醜態を晒してしまったことへの気恥しさと変な意地のせいだ。だけど、ラギー先輩はそんなことさえお見通しだとでもいうように、柔和に相好を崩す。

「あとさっきのアイツら、ナマエのパンが美味しくなかったとか絶対に嘘ッスから」
「……え」
「ナマエの作るパンはいつだってちゃんと美味しいッスよ」

ああ、どうして、どうしてこんなときに。そう思った瞬間にはもう遅くて、瞳からボロボロと涙が溢れ出す。それと一緒に心の中で凝り固まっていた色んな感情まで流れ出してしまって、もうあとに残ったのはただ好きだという想いだけ。

「なんで今泣くんスか!」
「だって、嬉しくて……」
「あーあ、オレの1番のライバルはもしかしてパンかもしれないッスね」
「うう、パンもラギー先輩も愛してます」

青い空の下、今日は厄日だと思っていたはずなのに、いつのまにか今までの人生で最高に日になっていた。それでもいつまでも涙が止まらない私のことをラギー先輩はずっと抱きしめてくれていて、そんなことをしているうちに遠くから午後の授業のはじまりを告げるチャイムの音が聞こえてきた。

「……遅刻、しちゃいましたね」
「もういいッスよ。今日はこのままサボったって」
「私のせいですみません」
「お詫びはドーナツでいいッスよ。アンタの作ったやつ、もう二週間以上も食べてない」

少しだけ拗ねたようにそう言うラギー先輩に、込み上げる愛しさがぎゅっと胸を締付ける。

「もちろんです!いくらでも作ります!一生私が作ったドーナツだけ食べてください!」
「それはもうプロポーズじゃないッスか」
「だってずっと一緒ですから!逆プロポーズです!」
「嬉しいけど、それはちゃんとオレから言うんで駄目ッス」

そんなことを話しているうちに、なんだか急におかしくなってきてどちらからともなく吹き出して、そのまま芝生の上に転がり込む。青い空をゆらりゆらりと流れる雲を眺めながら、パンの焼ける甘い小麦と砂糖のにおいが、私たちの未来まで暖かく包み込んでいるような気がした。






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