「雪!ジャミル先輩!雪ですよー!」


夕食を終えて店から出ると、夜空からちらちらと雪が降り注いでいた。街の明かりに照らされて、キラキラと幻想的に輝く雪の結晶。その光景に魅せられて、つい空に向けて手を伸ばしてしまう。
今日は冷え込むなとは思っていたけど、まだ十一月の暮れだし、まさか雪を拝めるなんて思わなかった。

「へぇ、もう降るのか」
「雪なんて、なんだか新鮮に感じちゃいますね」
「熱砂の国にいるとなかなか見られないからな」

私より少し遅れて店から出てきたジャミル先輩も、隣に立って空を見上げる。私もジャミル先輩も、学園を卒業してからもう数年が経っている。ジャミル先輩はもちろんアジーム家に仕えているし、私も卒業してからジャミル先輩を追うように熱砂の国にやってきて、カリム先輩が紹介してくれた事務仕事に就いた。
学生の頃よりは一緒にいられる時間は減ってしまったけれど、無理のないペースで私たちのお付き合いはちゃんと続いていて、今はジャミル先輩が奇跡的にまとまった休暇が取れたので小旅行中だ。

「最近、大人になったんだなぁって、よく思うんです」
「今更じゃないか?」
「あ、笑わないでくださいよー」

確かに社会人として働き始めて数年が経っているし、胸を張って立派と言えるかは怪しいものの、世間は私のことをとっくに大人と分類しているだろう。でも、なんて言うんだろう。やっと自分の心が追いついてきたというか、言ってしまえば、思い描いていたものとの差を受け入れられた感じ。だって、もともと当たり前に私が大人になっていくと思っていた場所はここではなかったんだから。
ずっと、生まれ育ったあの街で暮らしていくんだろうと、なんとなく思っていた。それが、気付けば世界すら越えた知らない土地で生き抜かなければいけないことになって、そこでこうして仕事もするようになり、恋人と旅行に出掛けたりもしている。
最近、それをやっと「ありふれた日常」として思えるようになったし、元の世界の夢を見ることも少なくなった。
だから、大人になったんだな、と思う。私は、この世界で大人になった。

「雪、積もんないですかねぇ」
「流石にそこまで寒くはないから、すぐに溶けるんじゃないか?」
「んー、見たかったな、雪景色」

アスファルトに落ちては溶けていく雪を見ながら、口を尖らせる。
明日の朝、目が覚めてカーテンを開けたら、一面の銀世界が広がっていれば、とても素敵なのに。そうしたら、まだ寝たそうなジャミル先輩を叩き起こして、早朝の散歩に出かける。まだ夜の明け切らない緊張した空気の中で、朝日を浴びて輝く真っ白な世界。まだ誰も歩いていない新雪にふたりで足跡をつけるのだ。そんな想像をして、つい頬が緩む。

「いつからそんなに雪が好きになったんだ?昔はあんなに嫌がっていたのに」
「だって、昔は雪かきしなきゃいけなかったじゃないですか。オンボロ寮は私とグリムのふたりしかいないから大変だったんですよ」

毎年、雪が降るとジャミル先輩のところに逃げ込んで、「もう冬があけるまでスカラビアで過ごす」と駄々をこねていたことを思い出す。カリム先輩はそんな私を歓迎してくれるから、ジャミル先輩は頭が痛そうに眉をひそめる懐かしい日々。

「でも、この街ではどんなに降ろうと私が雪かきする必要ないから、どんどん降って欲しいです!」
「ゲンキんだな、君は」

肩を竦めて笑うジャミル先輩を見ながら、幸せだなと思う。今、私とジャミル先輩の間には、当たり前のように同じ思い出がある。過去も何も持っていなかった私が、この世界で生きてきたという軌跡。それを一緒に思い出してくれる人がいて、その人が奇跡みたいに私を愛してくれている。
そう考えたら、溢れ出すように言葉が零れ落ちていた。

「ジャミル先輩、私たち結婚しませんか?」

空を見上げていた視線をジャミル先輩に向ける。そこで思わず、あれ?と首を傾げた。
驚いたような、怒ったような、困ったような、そんな色々な感情が混ざった複雑そうな表情。てっきり笑ってくれると思っていたので、急に不安になってくる。
付き合いも長くなってきたし、仕事も安定してきた。そろそろ結婚してもいいかな、というのはお互い共通の認識だと思っていたのだけど、もしかして私だけだったのだろうか。
ジャミル先輩が、大きなため息をつく。

「……どうして君は、いつもそうやって俺より先を生きてるんだ」
「え?……い、嫌でした?」
「そういうことじゃない」

地を這うような低い声でそう呟き、額を押さえて何度か頭を振ったジャミル先輩が、意を決したようにじっと私を見据える。

「いいか、この街に滞在するのはいつまでだ?」
「明後日のお昼までですよね」
「そうだ。それで、明日の最終日の夕飯はどうすると俺は言った?」
「この街で一番いいレストランでディナーです!」

旅行の予定を立てた日のことを思い出して、つい頬が緩む。ただでさえ泊まるホテルも豪華なのに、そんなに立派な食事までいいのかと戸惑う私に、せっかくの休暇なんだからと呆れたように笑うジャミル先輩。

「……何か思うことはないか?」
「どんな料理が出てくるか楽しみですねぇ」

この街はただでさえご飯が美味しいことで有名なのに、その上そんな立派なレストランのディナーなんて、想像しただけでもワクワクする。こんな会話を、この旅行中もう何度も繰り返した。
だけど、なんで急にそんな確認をするのだろう。私のプロポーズはどうなったんだ、と考えたところでハッとする。
いつだったか、プロポーズはベタだけど夜景の見える豪華なレストランがいいと話したことがあった。それを聞いたジャミル先輩は「覚えておくよ。告白は君に先を越されたからな」と優しく笑った。不意に思い出されるその記憶に、おそるおそるジャミル先輩の表情を窺う。

「……あの、もしかして」
「いいか、なまえ。君は今、何も言っていない。俺も何も聞いていない。わかったな」

フンッと顔を背けて、いっそ開き直ったように言い放つジャミル先輩に、思わず吹き出すように笑ってしまう。

「ふふふ、私、ジャミル先輩のそういうところ好きですよ」
「……当たり前だろう。好きでいてもらわないと困る」

ああ、幸せだと思う。私は今なんて沢山の幸せを貰っているんだろう。
今日泊まるホテルへ向かう道を歩きながら、どちらからともなく手を繋ぐ。ふうっと吐き出した白い息を追うように空を見上げる。相変わらず降り続ける雪が頬にあたって、冷たく溶ける。
明日の夜、少し気まずそうに、だけど愛しそうに、私に指輪を差し出すジャミル先輩に、なんてこの幸せを伝えようか。








何色の日々を思い出と呼ぶ


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