おぼつかない朝の光で目が覚めた。
カーテンの隙間からわずかに見える窓の向こう側。それをぼんやりと眺めているうちに段々と意識が覚醒してくる。枕元に置いたままのスマホの画面で時間を確認すると、朝の六時を少し過ぎたところだった。

まだ仄暗いのでてっきりもっと早朝だと思ったのだけど、二度寝をするには少し微妙な時間だ。今日は休みなので別に遅くまで眠ったって構わないとはいえ、なんとなくそれも勿体ないし。
隣で眠るグリムを起こさないように気を付けながら、静かにベッドから起き上がる。窓辺に近寄ると、外にはしとしとと雨が降っていた。

「どうりで暗いわけだ」

耳を澄まさなければ聞こえない程度の雨音。それをしばらく聞いてからキッチンへ向かうことにする。すっかり慣れ親しんだキッチンでお湯を沸かしながら、コーヒー粉とミルクの準備をする。ほんの少し前までは寝苦しいくらいの暑さであったはずなのに、すっかり寝起きに温かい飲み物が恋しい季節になってしまった。

シューシューとケトルの立てる音以外に何も聞こえない室内。こうしていると、ずっとここで暮らしてきたかのような錯覚に陥る。だけど、まだここでの暮らしも一年と経っていないし、この寮の外は魔法が当たり前の、本来ならば私と関わるはずもなかった世界だ。

──ピロン

カウンターに置きっぱなしのスマホが通知音を鳴らす。明るくなった画面を確認するとトレイ先輩から、今日ハーツラビュルの寮でお菓子を作るから来ないかという誘いだった。行きます、とスタンプ付きで返信をし、それからしばらく考えて追加の文字を打っていく。

”今、少し時間があったら電話してもいいですか?”

こんな早朝から迷惑かな、と思いながら送信ボタンを押せば、丁度お湯の沸いた甲高い音が鳴り響く。火を止めて用意してあったコーヒー粉にお湯を注いでいく。滴り落ちる真っ暗な液体を眺めながら、朝起きてからどうもスッキリしないこの気持ちの正体について考える。
頼りない朝の光、静かに降り続ける雨、肌寒い秋の空気、それからひとりぼっちの部屋。

「……寂しさ、かな」

だから無性にトレイ先輩の声が聴きたくなってしまった。スマホを手に入れてから一番頻繁にやり取りをしているのはおそらくトレイ先輩だ。エースやデュースとは日中ほとんど一緒に過ごしているので、敢えてメッセージのやり取りをする必要もないし、なんとなくこんなことを言うのは気恥ずかしい。だからついトレイ先輩にばかり頼ってしまう。これが信頼という名を着せた甘えだということには気づかないフリをしながら。
そのとき、突然静寂を切り裂くような着信音が鳴り響いて慌ててスマホを耳に当てる。

「も、もしもし」
『おはよう。慌てさせて悪い、何かやってるところだったか?』
「おはようございます。カフェラテを淹れているところでした」

もう淹れ終わったから大丈夫と告げれば、少し笑いながら「俺も何か温かいものでも飲もうかな」と返ってくる。その声だけで冷え切った心が徐々に和らいでいくのだから不思議だ。マグカップに注いだコーヒーにミルクを混ぜると、真っ黒だった色を変えていく。

『今日は随分と早いんだな』
「なんだか目が覚めてしまって」
『そうか、俺もそんな感じだよ。今日は雨も降って冷え込んでるしな』

何気ないやり取り。窓際でマグカップに口をつければ、ほろ苦い温かさが喉を通り抜けていく。相変わらず雨は静かに降り続けていて止む気配はない。どんよりと重たい雨雲は世界から色を奪ってしまったみたいだ。

「あ、そう言えば今日はお誘いありがとうございます」
『気にしないでくれ、俺がなまえに会いたかっただけだから』

そのさりげない気遣いに言葉が詰まる。その言葉をどこまで間に受けていいのか分からなくて、いつもこうやって曖昧にやり過ごしてしまう。
そもそも私はトレイ先輩のことを好きなのだろうか。きっと、その答えは探そうと思えばすぐに見つかるのだろうけど、なるべく深く考えないようにしている自分には気づいている。それを認めてしまったら、ただでさえ馴染んでしまったこの世界で、さらに深くまで根を張ってしまうようで怖いのだ。

「今日は何を作るんですか」
『特に決めていないんだ。材料はこの間買い出ししたばかりで揃ってるから、大抵のものだったら作れると思うよ。そうだな、なまえの好きなものを作ろうか』
「わーい、何がいいかな」

イチゴのタルトにフォンダンショコラ、クッキーやスコーン、レーズンサンド。この世界に来てからトレイ先輩に作ってもらった沢山のお菓子を思い浮かべながら、また一口カフェオレを口に含む。

元の世界でも食べたことのあるはずのそれらを思い浮かべるよりも、ここに来てから食べた味やそれに付随する思い出の方が鮮明になっていく。
いつか同じように、元の世界に戻りたかったことさえ忘れてしまって、トレイ先輩の隣で生きていく未来を不幸なものだとは思わないけれど、まだ一歩踏み切る勇気は持てない。

きっと私の行く先に待っているのはこのカフェラテみたいな未来なんだろう。真っ黒だった世界に、甘いミルクを混ぜてなんとか生きてけるような場所。私はずっとその泉の前で飛び込む勇気もなく足踏みしている。いっそ引きずり込んでくれたらいいのに優しくてずるいトレイ先輩は、私から選ぶのを待っている。

『グリムはまだ寝てるのか?』
「はい、ぐっすりです」
『ははっ、いつも通り午後から始めようかと思ってたんだけど、せっかくなら昼飯もうちの寮で食べるか?』
「あ、いいんですか?嬉しいです」
『わかった。じゃあ、グリムが起きたら連絡してくれ。迎えに行くよ』

その言葉に頷きながら、窓の外の景色に目をやる。相変わらず降り続ける雨は、今日一日止まないでいてくれるだろうか。

こうしてトレイ先輩がオンボロ寮まで迎えに来てくれることは珍しくない。最初の頃は遠慮もしていたけど、何を言っても結局トレイ先輩が迎えに来てくれることには変わらないとわかったので、最近では大人しく甘えることにしている。
あと数時間もしたら傘を差したトレイ先輩とこの緩やかなセピア色の世界を歩く。

『……雨、もう少し止まないといいな』
「あっ」
『どうした?』
「いや、同じこと考えていたなと思って」

電話越しのトレイ先輩の声が少し恥ずかしそうに笑う。私も窓の外を見たままクスクスと笑いながら、トレイ先輩も同じようにこの雨を眺めているところを想像する。
夏の暑さも、あの太陽の下で咲いていた鮮やかな花の色も、潮騒の音も、海水の生温さも、みんなみんなこれから訪れる冬と一緒に色褪せてしまう。だけど、その鮮やかなグリーンだけはいつまでも褪せずにこの胸で溢れ続けるのだろう。







群青とエバーグリーン


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