コレのふたり


ガラス越しに、濃紺色の空に瞬く昏い星を眺める。
窓際に置かれた花瓶の水を取替えていた手を止めて、ゆっくりと瞼を閉じる。閉店時間をとうに迎えた店内には、私と厨房のトレイ先輩の気配しかなく、調理道具の片付けをするカタカタという音が優しく響く。その音に乗せるように、鼻歌を歌いながら、つい指が鍵盤を叩くように動く。
しばらくそうしていたのだけど、ふと厨房から聞こえていた音が止まったことに気づいて閉じていた瞼を開いた。
すると、ちょうど厨房から顔を出したトレイ先輩が軽く手招きをする。

「悪い、邪魔したか」
「いえ、私の方こそサボっててごめんなさい」

小走りで駆け寄っていくと、トレイ先輩の手には真っ赤な薔薇の花束が握られていた。

「ほら、これ」
「わあ、キレイですね」

鮮やかな赤色に思わず目を瞠る。それから、そんな真っ赤な薔薇がよく似合うトレイ先輩にも。これは学生の頃にあれだけ薔薇に囲まれていた名残かなと思いつつ、口にするのはやめておいた。そう言えばきっと、卒業してもまだ先輩呼びを続けている話になるから。

「貰い物なんだけど、一緒に飾っておいてくれるか」
「真っ赤な薔薇なんて、一体今度はどこの美女をたぶらかしたんですか?」

からかうようにじとりと睨めば、トレイ先輩が困ったように肩を竦めた。

「あまりいじめないでくれ、常連のお婆さんだよ。庭で沢山咲いたからって……って、お前も見てただろ」
「ふふふ。はい、見てました」

トレイ先輩から薔薇の花を受け取ると、ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りが漂う。その香りは、まだ学園にいた頃、毎日のように通ったハーツラビュル寮の庭を思い出させる。なんでもない日のパーティーとそこでピアノを弾く私。周りを囲む赤や白に塗った薔薇の花たち。ケーキを運んできたトレイ先輩が、そっと私の傍らに立つ。
そこでふと思いたって、一本だけ抜き取った薔薇をトレイ先輩に差し出す。

「この薔薇を青色に変えることは出来ますか?」
「青に?まあ、それくらいはすぐにできるけど」

トレイ先輩が慣れた様子で呪文を唱えると、ぱっと花弁のまわりを光が包んで、次の瞬間には真っ赤だったはずの薔薇は濃い青色へと姿を変えている。
実際に目にするのは初めての青い薔薇は、触れたら壊れてしまいそうなくらい繊細で幻想的だった。

「私の世界では、青い薔薇は存在しないって言われていたんです」
「へえ、そうなのか」
「だけど、何年か前に遺伝子改良で青い薔薇も生み出されて」


そこで一度、言葉を切る。
手の中の青い薔薇が蕾をつけ、そして花開いた瞬間を想像する。そのときを心待ちにした研究者たち。長年、不可能だと言われ、ありもしないのにそんな悲しい花言葉をつけられた青い薔薇を、自分がこの手で作り出してみせる、と。

「その瞬間、胸を過ったのはどんな感情だったんでしょう。永遠、それを壊してしまったと悲しくなったりはしなかったのかな」

存在しない花、それはきっとある意味では憧れにも近かったのではないだろうか。ないと言われるから見てみたくなって、人が永久に焦がれるように、その尊い青さを夢見てきた。
じっと薔薇の花に奪われていた視線を上げると、トレイ先輩が驚いたように私を見ているものだから、思わず身構える。

「なまえといると、いつも驚かされるよ」
「え、なんか変なこと言いました?」
「ああ、そういうことじゃないよ。なんて言うんだろうな……その感受性の豊かさも、やっぱり音楽をやってるからなのか」
「トレイ先輩?」

言葉の最後の方が尻すぼみになって上手く聞き取れない。聞き返すようにトレイ先輩の名前を呼ぶと、私を見つめるその双眸が柔和に細められた。

「お前といると、俺は今までたくさんのものを見落としてきたんだなって気付くんだ。春も夏も、秋も冬も、世界ってのはこんなにも綺麗だったんだなって」

ここでやっと、私は今、愛の言葉を囁かれているのだと気付いた。付き合ってから、トレイ先輩は結構ストレートに私を好きだと言ってくれるから、いつもとは違う遠回しな愛の言葉に思わず頬が赤くなってしまう。
そんな私の様子に気付いたトレイ先輩は、少しおかしそうに、だけどやっぱり愛おしそうに笑って、私の頬を撫でる。

「前に、俺に神様はいるのかって聞いたこと覚えてるか」

こくり、と頷く。私のピアノが聴きたいと言ってくれたトレイ先輩、放課後の音楽室、薄めた絵の具みたいな空と、その端から迫る夕暮れ。私がこの世界に来て初めて、トレイ先輩の前で見せた涙と弱音。

「今ならわかる気がするよ」

森とか、海とか、空とか宇宙、そういうものがあるのと同じ感じで、神様だっているんだろうなって、そう言ったあの日の自分の声がよみがえる。
私の頬を撫でていた手がゆっくりと離れていって、窺うようにトレイ先輩が私の顔を見つめた。

「……もしかたら、凄くおこがましくて酷いことを言うのかもしれないけど、いいか?」

そんなふうに前置きをされるのは初めてなので、少しどきりとする。だけど、トレイ先輩の言葉なら傷ついたりはしないという自信があった。それよりもむしろ、その声で紡がれる言葉なら、どんなものでも受け止めたいと思っている。
すうっと息を吸ったトレイ先輩の唇が動くのを、貼り付けられたようにじっと見つめる。

「お前は俺と出会うために、その神様の寵愛を受ける世界から、ここに引き戻されたんじゃないかって思うんだ」

神様の寵愛を受ける世界、それは私がかつてトレイ先輩に語った言葉だった。私が一瞬だけ招かれて、そして転がり落ち、もう二度と届くことはない場所。
神様の愛に溢れるもので満たされて、生きる喜びに感謝するように歌い、同時にすべての苦しみ悲しみも昇華する、そんなピアノの音色。

あのむせ返るような熱気と轟くような喝采、そしてステージから見下ろす燦然と輝く光景。もう一度あの場所に立ちたくて、ただひたすらにピアノを弾いてきた。あの瞬間が私の人生の価値のすべてであれと祈っていた。
だけど、今胸を過るその記憶は、微かな胸の痛みを疼かせるだけで、かつてのような峻烈な熱さはない。今の私のピアノは、この店で、トレイ先輩やお客さんのために奏でる音だけだと素直に思える。

「お前が、俺の手の届くところにいてくれてよかった」

そうだろうかとも思うし、そうだっただろうとも思う。
ピアノで食べていく人、神様に愛された音は、一種の呪いのように鍵盤を叩かせる。私もその世界にいれば、きっと同じようにピアノを弾き続けていただろう。弾かなくては、奏でなくては、どうかこの音が天まで届きますように。
そうであったらきっと、この世界に迷い込んだってトレイ先輩に恋なんてせず、ただひたすらにステージを求めていた。

どちらが幸せだったのかなんて分からない。だけど、それでも、私は今、こんなふうにこの人に言ってもらえることを幸せだと思っている。
青い薔薇の花を握る私の手に、そっとトレイ先輩の手が重なる。

「結婚しよう。俺とずっと一緒に生きて、お前の見ているその美しい世界を、隣で俺にも見せてくれないか」

あの音楽祭の帰り道の言葉通り、私が学園を卒業するとトレイ先輩は私を自分の家に招き、そしてこのお店にピアノを置いた。だから、このまま順当に、いずれ結婚もするだろうなと思っていた。

そんなプロポーズ紛いのことはもう言われているから、今さら泣いたりなんてしないと思っていたのに、どうしてこんなにも視界が滲んでいるのだろう。「そうですね」と笑って頷くつもりだったのに、言葉なんて喉に詰まってひとつも出てこない。

かわりに溢れかえるような幸せと喜びの旋律が私を包んでいる。涙で歪んだ視界で、店の片隅に置かれたグランドピアノを見つめる。弾きたいと思った。今の私はきっと、とても深い愛の音色を出せる。届くだろうか。ずっと、私を見捨てたのだと思っていた神様まで、ほんの一片の音色だけでも。

(……ああ、だけど、その前に)

返事をしなくてはいけない。
私をこの世界に引き戻してくれたあなたに。
神様に最後まで愛しきって貰えなかった私を、一生愛してくれると誓ってくれたあなたに。


「私も、ずっと隣で生きていきたい」






もう星は追いかけない


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