古びたレンガの壁に挟まれた狭い階段を、駆け上がるようにのぼる。すると、ちょうど足をかけた段が崩れて、石がコロコロと転がり落ちていく。それを少し立ち止まって眺めてから、また前を向いて上を目指す。
頂上まで上がれば、ぱっと視界が開けて真っ青な空が胸に迫る。引き寄せられるように手すりに掴まり、あたりを見渡す。この場所を覆い隠すように繁った木々と雲ひとつない青い空。太陽は燦々と輝き、惜しむことなくその光を降り注いでいる。

「……きれい」

溢れた声は、ふわりと吹いた風に乗って溶けていく。
オンボロ寮の裏にある雑木林。その林を深くまで行くと、一段と木々が生い茂った場所がある。その中にひっそりと隠れるように佇む小道を辿れば、この古い鐘塔へと繋がる。
鐘塔といっても、もう使われなくなって随分と経つようで、レンガ造りの壁には蔦が絡まり、肝心の鐘も錆び付いてギシギシときしむ音が鳴るだけだ。
この場所を見つけたのは本当に偶然で、だけどそれ以来、私にとっては秘密の安息の場所だった。

「こんなところに登って、君に危機感というものはないのか」

そんな秘密の場所で私以外の声が聞こえるものだから、キョロキョロとあちらこちらを見るけど姿が見えない。不思議に思いながら、最後に手すりから身を乗り出すように塔の下を覗き込むと、「おいっ!」と焦ったようにジャミル先輩が私を見上げているのを見つけた。

「アハハ、馬鹿と煙は高いところが好きって言いますからね」
「わけのわからないこと言ってないで、その体勢をやめてくれ!」

そのままひらひらと手を振ってみると、もうほとんど怒鳴ってるみたいに声を荒らげるジャミル先輩。これ以上は本気で怒られるなと思って、素直にその言葉に従うことにする。
一体どれくらい前からこの場所に建っているのか分からないこの塔は、そこかしこがもう崩れかけていて、私が今身体を預けていた柵もいつ外れたっておかしくはなさそうだし、それどころかその衝撃でそのままこの塔ごと崩壊してしまうかもしれない。

「あと、馬鹿と鋏は使いようってのもありますよ」
「なんだその馬鹿シリーズ……」

私が宙に浮いていた足を地面につけたことで、ジャミル先輩が安心したようにため息を吐いた。そんなジャミル先輩を見ながら、私の胸にはあたたかいものが込み上げてくる。

「よくこの場所が分かりましたね」
「……君のいる場所は分かりやすいからな」

ジャミル先輩はいつも私のいる場所を見つけてくれる。みんなで出掛けた街で気の向くままに歩いていたら迷子になってしまったときも、学園の教室に手違いで閉じ込められてしまったときも、決まって見つけてくれるのはジャミル先輩だった。
呆れたように私を見つめるジャミル先輩の睫毛が、太陽の光を反射して艶を帯びる。

「ねえ、ジャミル先輩。この塔、これからもずっとここにありますかね」
「さあ、どうだろうな」
「あったらいいなぁ。そしたら、ここで待ち合わせをしましょう」

私の言葉の意味が分からず「待ち合わせ?」とジャミル先輩が眉をひそめているけど、それを気にせず私は言葉を紡ぐ。

「最近、よく見る夢があって、私はある日、目が覚めるとまたここではない世界に迷い込んでしまってるんです」

私がいた世界でも、この世界でもない世界。夢の話だと笑い飛ばしてしまえばいいのかもしれないけど、元の世界にいたときだって、この世界のことなんて知らなかったのだから、他にも世界があったって、何も不思議ではない。
一度こうして自分の世界から零れ落ちた私に、もう二度と同じことが起きないなんて、誰も証明してくれやしないんだから。

夢の中で私は、そうやっていくつのも世界に取り込まれていく。沢山のものを見て、沢山の人に出会って、それなりに楽しく過ごすんだけど、最後はいつもその場所から消えてしまう。

「その夢ではね、なぜか私は歳を取らないんです。何度も何度も色んな世界を回って、やっと一周したって思うと、そこには私の知っている人はもういない」

ざわざわと木々が揺れたと思ったら、一羽の大きな鳥が空高く飛び去って行った。姿の小さくなっていく鳥は、青一色の世界で迷子になりはしないのだろうか。その身体を休める宿り木を、どうやって見つけているのだろう。

「そうやって、世界にも時間にも取り残されて、ずっと、ひとりぼっちで生きていく」

もう鳥の姿の見えない空から目を離して、ジャミル先輩を見つめる。じっと私から目を離さないその瞳には、今どんな感情が宿っているのだろう。
すうっと息を吸い込んで、出来るだけ明るい笑顔を作る。

「だから、ここで待ち合わせをしましょう。いつか私はここに戻ってくるから、そのときは迎えに来てください」

その夢のとおりなら、私が戻って来たときジャミル先輩はもうこの世界にいないかもしれない。だけど、ジャミル先輩は優しいから、私がひとりで待ちぼうけをしなくていいように、自分の子供たちに私の話をしてくれるだろう。ある日突然この世界にやってきて、そして消えるようにいなくなってしまった女の子のお伽話。

魔法も使えない女の子は、魔法使いの学校で楽しく暮らし、そして恋をした。もちろんその相手が自分だなんて言いはしない。私と恋人だったことは内緒にしたまま、いつかその女の子が帰ってきたら森の中の鐘塔に迎えに行ってあげるんだと言って、少し寂しそうに笑いながら、可愛らしい小さな額にキスを落とす。
そんな光景を想像して、泣きたいような笑いたいような気持ちになった。

「なまえ、ほら」

いつの間に視線を落としてしまっていたらしく、自分の足元を見つめていた顔を上げると、ジャミル先輩が腕を広げている。その意図していることが分からなくて、首を傾げていると、しびれを切らしたようにジャミル先輩が口を開いた。

「飛び込んでこい」
「え、結構高さありますよ」
「これくらい問題ないさ」

さっきまで柵から身を乗り出したくらいで怒っていた人とは思えないなと苦笑するけど、どうもジャミル先輩は本気らしい。高さはだいたい学園の二階くらいだけど大丈夫だろうか。しばらく躊躇して、でもまあ、魔法もあるし、なんとかなるかと思い始めた。
意を決し、柵をよじ登り、そのまま身を投げ出す。

──ふわり

浮遊感が全身を包み。空の青さが視界いっぱいに広がる。
気持ちがいいと思ったのは一瞬で、次の瞬間にはもうジャミル先輩の腕の中にいた。嗅ぎ慣れたジャミル先輩の香りに包まれて、ゆっくりとその顔を見上げる。

「君がいなくなったら、待っててなんてやるわけないだろう。どんな世界にだって探しに行って、今日みたいに見つけるさ。君を見つけるのが得意なのは知ってるだろう?」

ジャミル先輩の双眸が愛しそうに歪んだと思うと、優しく私の額にキスをする。まるでさっき想像してた光景みたいで、少し気恥しくて身をよじる。
そんな私を決して逃がしはしないとでも言うように、さらに強く抱き締められる。

「だから、そうやってひとりで大人にならないでくれ」










きみの世界にぼくを投下して


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