ここ数日、私には密かな楽しみがある。
窓枠に置かれた小振りな鉢植え。毎朝、目が覚めたらすぐにカーテンを開けて、朝日をたっぷり浴びせてあげる。そして、この子のために買った真っ白なジョウロから新鮮な水を降り注ぐ。
ふっくらと膨れた土から、早くその顔を覗かせてくれたらいいなと願いながら。
そんな毎日のルーティンに、今日は初めて変化が起きた。
「みてみて、エース! 芽が出たよ」
土の中から顔を出した、小さな緑の双葉。それが嬉しくて、昨晩はオンボロ寮に泊まっていたエースを叩き起こす。だけど、いくらゆさゆさと揺さぶっても、唸り声をあげるばかりで起きてくれない様子にムッと唇を尖らせる。
そんな怒りに任せて、くるまっていた毛布を奪い取ってやれば、少し苛立ったような寝惚け眼が私を睨んだ。だけど、残念。ぴょこんと跳ねた寝癖が可愛くて、そんなの全然怖くもない。
「はあー、まだ六時じゃん。芽って、毎朝育っててるって言ってたやつ?」
「そう!ついに発芽だよ!すごい!」
弾むような私の声に、エースはあからさまため息をついて、渋々というように身体を起こした。早く見て欲しいのに、そのまま首をひねったり、あくびをしているのがもどかしい。
ついに待ちきれなくなって、無理やり手を引いて窓際まで連れていくことにする。そうこうしているうちに、やっと眠気が覚めた顔のエースが鉢植えを覗き込む。
「おー、確かに芽出てんじゃん。それで、これなんの花なの?」
「え、知らない」
「はあ? 知らない花育ててんの?」
この種はこの間、学園の中を散歩しているときに拾ったのだ。石畳の上にぽつんを落ちたその種は、まるで私に花を咲かせて欲しいと言っているような気がして、そのままサムさんのところで園芸セット一式を購入した。おかげで少しばかり食費は厳しくなったけど、致し方ない。
燦々と眩しい朝日を浴びながら、そんな経緯をエースに聞かせれば、まるで私のことを馬鹿だなとでも思っているような顔で見つめられてしまった。非常に心外である。
「拾った種なんて育てんなって。なんかヤバい植物かもしんないだろ」
「そんなヤバい植物の種なんて、そうそう落ちてないでしょ」
「はぁー、今まであんだけヤバいことに巻き込まれておいて、よくそんなこと言えるよなー」
そう言われると、確かにここは場所が場所だしなというような気もしてくる。頭の中を過ぎるこの学園に来てから巻き込まれた数多くの珍事たち。
実はこの花は猛毒を持っているだとか、人喰い花だとか、そんなことが待っていたりするんだろうか。夜中のうちにすくすくと育った人喰い花が、ぱくっと眠っている私を食べてしまうところを想像して軽く身震いする。
だけど、この可愛らしい双葉の芽を見ていると、やっぱりどんな花が咲くのか見てみたいと思ってもしまうのだ。
「もしかしたら新種かもしれない」
「新種?」
この世にはまだ存在を見つけてもらえていなかった花。その花は、きっとこの世のものとは思えないくらいに可憐で、とても儚い花を咲かせることだろう。
葉っぱの上にぽつんと乗った水の粒が、朝日を反射してキラキラと輝く。
「そしたら、私が名前をつけることになるからエースの名前をつけてあげる。そうだな、エースフラワー」
「え、ヤダ。どうせなら、もっとカッコイイ名前してよ」
エースの腕がそっと私の身体を引き寄せる。朝の戯れ。なんてことないふざけあい。私の顔を見つめるエースの表情はすっかり恋人の顔に変わっている。軽い口付けがこめかみの辺に降ってくる。それに応えるように、エースの胸に頬を寄せ、上目遣いにその顔を見上げた。
「そんなに文句言うなら、もう私の名前にする。カントクセーフラワー。いや、オンボロフラワー?」
「お前、真面目な顔でそれ言うのやめろって」
うーんと手を顎に当てて唸ってみせれば、ツボにはいったらしいエースがゲラゲラと笑い出す。
今日は休日で、昨日の夜は恋人同士の私たちを気遣かってか、はたまた偶然か、グリムはデュースが預かってくれている。
そんなふたりが、昼過ぎにはオンボロ寮にやってきて、四人で映画を見ることになっているのだ。そのときに、トレイ先輩からもらったらケーキを食べて、夕ごはんは何か簡単にみんなで作ろう。
私たちは気心の知れた友人同士で、エースとは仲のいい恋人。そうやってかけがえのない関係をこの世界で築いても、私はどうしても、この幸せな時間をありふれた日常と呼ぶことが出来ない。
まるで私の周りにだけ切り取り線があって、いつかそこから切り離されてしまうんじゃないかという不安定さと異物感。そんな要素が、この時間と私の存在を、いつかは消える刹那の奇跡に変えてしまう。
「世界にひとつのしかないこの花は、綿毛になって種を飛ばすの」
「あー、たんぽぽみたいに?」
「そう、たんぽぽみたいに。世界中に私の想いを飛ばしてくれる」
ふわふわとした綿毛が風に乗って、世界中に飛んで行くところを想像する。そして、どこにでも咲いている雑草みたいな花になればいい。春も夏も、晴れの日も、雨の日も、生活の断片に私がいて、そのうちそれがやっと、ありふれた日常になれる。そうなったらもう、最初の花が枯れていたって大丈夫。
「そうすれば、私がいなくなってもエースは寂しくないでしょ」
「そういうこと、言うなって」
少し怒ったようなエースの片手が私の口を塞いだ。
エースは、こうして私がいつか帰る日の話をすることを嫌がる。そんな話をしたら、それが本当になってしまう気がすると、いつだったか弱音みたいに話してくれたことを思い出して胸が痛くなる。
だけど、私にとってのこのやりとりは、お守りや願掛けのようなものなのだ。何度も何度も繰り返していれば、いつか笑い飛ばせるような冗談に出来るんじゃないかって。
「エース、私たちはずっと一緒だよ」
「当たり前だろ」
本当は別の言葉を言うつもりだった唇を閉じて、いつかこの約束を破ってしまう代償を飲み込むみたいに、少しだけ背伸びをしてキスをする。
だけどね、エース。枯れない花もないんだよ。
言えなかった言葉は私の身体の中に溶けて、だけど決してなくなってはくれずに、いつか芽吹く日を待っているかのようだった。
やさしさの樹でつくられた
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