不意に口から零れたのは懐かしいフレーズだった。

「今なんか歌ってた?」
「私がいた世界の歌だよ」

課題を進めていたエースがペンを止めて私の顔を見る。
世界的に有名な海外のロックバンド。別に彼らのファンだったわけではないけど、この曲はとても好きでよく歌っていた。

「へぇ、もう一回歌ってよ」
「やだよ、恥ずかしい。それより課題やんなきゃ」
「もう疲れたし、ちょっとくらい休んでもいいじゃん」
「えー、このペースじゃ晩ご飯までに終わんないよ」

窓の外を見ると、もうすっかり空は茜色に染まってしまっている。今日は部活が休みだというエースとふたりで始めた課題は、まだ三分の二が白紙のままだ。
たしなめるようにエースを見るけど、すっかりやる気をなくしてしまったようで、くるくると器用にペンを回し始めている。

「今日はもう泊まってくからさ、夜やろーぜ」
「別に、私はいいけど」
「じゃあ、デュースにも声かけてやるかー。そろそろ部活も終わったでしょ」

そう言ってポケットからスマホを取り出すエースをぼんやりと眺める。私とグリムしか寮生のいないオンボロ寮は、私たちのちょうどよい溜まり場となっていて、気がつけばそこら中に私のものではない私物が転がっている。

「なーに、そんなに見て? もしかしてふたりでお泊まりかと思った?」
「思ってないし、グリムもいるからデュース来なくてもふたりじゃないし」

ふっとスマホを見ていた顔を上げたエースと目が合ってしまい、ニヤニヤとした笑みを浮かべられたので、拗ねたように顔を背ける。

エースは私がエースを好きなことを知っているし、私もエースが私を好きなことを知っている。だけど、明確に付き合ったりはしない。時には恋人のように振る舞い、時にはよき友人を貫く。いわばごっこ遊びなのだ。

一緒に大人になれない私たちがいつか離れ離れになる日、あれは結局ままごとだったと言い聞かせられれば傷は少なくて済むから。

だって、私たちはまだ十六歳で、運命の流れに逆らえるような力もなければ、恋のために生涯を賭けることへの責任も負うことは出来ない。
誰が悪いわけでもない。もしも、あと少し私たちが大人になってから出会えていたら、と思わないこともないけど、それはそれで今と同じ恋は出来なかっただろうから、やはりこれはどうしようもないことなのだ。

「あ、デュースから連絡きた。ちょうど部活終わったから、このまま来るってさ。だから着いたらまず風呂貸してって」
「いいよーって言っといて。あ、ついでに買い物も頼んどいて、今晩は鍋にしよ」
「いいねー、言っとくわ」

椅子から立ち上がり、カーテンを閉めるために窓際に足を向ける。途中でソファで眠っているグリムを横目に見ると、相変わらずぐーぐーと寝息を立てていた。
日常だ。すっかりと慣れてしまった日常。私は当たり前のように、明日も明後日もこの日常の伸びた先に自分を描いている。だけど、いつかふっと私だけがそこから消える日が来るのだ。

──明日、雨が降ったら、僕は太陽を追っていく

さっき、つい口ずさんでしまったメロディーが、頭の中をゆっくりと流れていく。
カーテンを閉めようとした手を止めて、ふと窓の外を覗き込む。さっきまではオレンジ一色だと思っていたのに、もうすぐそこまで濃紺の闇が迫って来ていた。その中では一番星がすでに瞬き始めている。じきに、いくつもの星がこの空を埋め尽くすのだろう。

星が綺麗に見えたら、次の日は晴れるのだったか、雨が降るのだったか。昔聞いた迷信は、肝心なところが曖昧になってしまっていて、いつも役に立たない。
どっちでもいいか、とカーテンを閉めてしまって、ちらりと後ろを振り返る。椅子に座って、頬杖をつきながらスマホをいじるエースの背中は私よりもずっと大きい。だけど、それでもやはりまだ大人とは違う。成長の余白を残したその背中は、私が思っているよりずっと遠いのだろう。

「ねえ、エース」
「んー」
「好きだよ」

振り返った瞬間のエースの顔は驚いていたようだけど、すぐにイタズラな笑みに変わる。

「なに? かわいーこと言っちゃって? オレも好きだよ」
「ふふ、ばーか」
「はぁー? そっちから言ってきたからノッてやったのに」

私が告げる愛の言葉を、エースは冗談に変えてくれる。だって、私の太陽にエースはなり得ないし、私だってなれない。
元の世界に戻った私は、いつかきっと誰かと結婚し、家庭を築くだろう。その人と春も夏も綺麗なものを探して、秋も冬も幸せを分け合うのだろう。そんなふうに平和で平凡に生きていく。
エースだって同じで、成長した彼の背には私の知らない誰かが抱きつくだろうし、もう真っ赤なハートマークの描かれていない頬にキスをするのだ。

「さっきの歌、聴きたい?」
「歌ってくれんの?」
「下手だけどね」

窓に寄りかかるようにして身体をまかせる。
静かに歌う私のことを、エースは柔らかな視線で見ている。その瞳は、私のことを好きだって物語ってるみたいだ。

元の世界にいた頃は、いい曲だなくらいにしか思わなかったはずなのに、今はまるで私たちのための歌みたいだと思ってしまう。
いつかは終わる青春ごっこ。青い春はもうすぐ雨の季節を連れてくる。冷たい雨が降る下では、同じ温度を分け合えず、その冷たさに逃げるように手を離すのだ。

「いい曲じゃん。何言ってんのかはわかんないけど」
「英語だからね。私も意味は知らない」
「何だよ、それ」

だけど、ふと思い出したらいい。私がついこの歌を口ずさんでしまったみたいに、ぽろっと零れてしまえばいい。

どうしてここに私がいないんだろうって、やっぱりあれは本物の恋だったんだって、そうして少しだけ、後悔をしてくれたらいい。本当に少しだけでいいから、今とは違う未来もあったのかもしれないなって、その胸を切なくさせたらいい。
だってそれをきっと、私も思うから。隔たれた世界と世界で、その一瞬だけ私たちは背中を合わせることが出来るから。

これが無力で無責任な十六歳の私たちの精一杯。
いつか降る雨は、この温度まで奪っていくのだろう。
だからやっぱり、私は太陽を追っていく。




お天道様の下では泣けないひと


back : top