目を覚ますと、そこは茜色の世界だった。
気怠いまどろみを引きずりながら、目の前の真っ白なノートを見てため息を吐き出す。明日までの魔法史の課題は何一つ進んでいない。
寮に戻ってしまうとやる気がなくなるから、わざわざ居残ってまでやろうとしたはずなのに、これじゃあ意味がない。
仕方ないと気を取り直してペンを手に取ると同時に、教室の扉が開いた。

「まだ残っているなんて、珍しいな」

私の姿を見て、少し意外そうに目を丸くしたのはクルーウェル先生だった。へらりと笑って返しながら、寝癖がついてたり、頬に机のあとがついていたりしないかと心配になる。

そうこうしている間に私の隣までやってきたクルーウェル先生が、ああと納得したように頷いたかと思うと、そのまま席に腰をかけるから驚いてしまった。

「教えてくれるんですか?」
「特別にな。トレイン先生には言うなよ」

特別という言葉に、私の意思とは関係なく甘酸っぱく胸が疼く。これは、「可愛い生徒」としての特別。私の望んでいるものではないと分からないほど、子供ではないつもりだけど、だからといって弾む気持ちを抑えられるほど大人でもない。
その長くて綺麗な指が、パラパラと教科書のページをめくるのを眺めながら、情けなく緩んだ口元に先生が気づきませんようにと願う。

「どこが分からないんだ」
「全部です」
「嘘をつくな」

そもそも解き始める前から眠ってしまったから、全部分からないのは本当なんだけど、と思いながら、適当に難しそうな問題を指差していく。

窓の向こうのグラウンドから、部活動に勤しむ学生の声が聞こえる。この光景だけを切り取れば、つい元の世界と錯覚しそうになる。だけど今、隣でクルーウェル先生が解説してくれているのは、私が今まで習ってきた理科や数学とはまるで違う。

クルーウェル先生の声は心地好く耳に馴染むけど、話している内容はまるで頭に入ってこない。私だけが透明な膜に覆われているように、ふわふわとした浮遊感。
横目にクルーウェル先生の顔を盗み見る。そのすっと通った鼻筋、長い睫毛、薄い唇。そんな熱に浮されたみたいに、私の唇は勝手に言葉を紡ぐ。

「クルーウェル先生は恋をしたことがありますか?」

唐突な私の言葉に、ちらりと視線だけで私を見たクルーウェル先生が、フッと鼻にかかるような笑いをこぼした。

「この年になればいくつもな。まあ、お前みたいな仔犬にはまだ早いか」
「私だって、恋くらいしますよ」

むっとしたのを隠しもせず頬を膨らませるけど、もうその視線は私のことなんて見てやいなかった。

「だけど、まだ若い」

断定するような声音。今、またひとつ、距離を置かれた。
私とクルーウェル先生の間の距離はとても遠い。歳の差、教師と生徒、生まれた世界。せっかく少し近づいたかと思うと、クルーウェル先生はいつも、そういったあれこれで私をまた元いた場所に戻してしまう。スタート地点どころか、この道はそもそもクルーウェル先生のもとまで繋がってもいないのだ。

ここは学校で、私にとってはいっときの仮の宿でしかない。だから、この恋もまた、かりそめにしか過ぎないと、そう思われているのだろうか。

だけど、そうだとしてもそれを否定するだけの言葉を私はやはり持っていない。愛される夢を見ることも許されない立場だから、泣いてしまうほどつらい恋ではない。だけど、いっそ泣いてしまいたいほど虚しい恋だ。

「じゃあ、恋は何で出来ていると思いますか」

机の端に置かれたペットボトル。そのパッケージに書かれた成分表には、砂糖や何かはよくわからないけど、おそらく身体に悪い添加物が沢山。
そんなふうに恋も分かりやすかったらいいのに。これが恋なのか憧れなのか、クルーウェル先生に愛してもらうには何が足りないのか、それらが一目で分かるほど単純だったなら、もうじきに夕闇の迫るこの教室で、私の心をしめる感情は今とは違ったのに。

「なまえ」
「……なんですか」

不意に呼ばれたけど、どうせまた突き放されるだけだから、むくれたまま、わざわざクルーウェル先生の方を見るのはやめた。ペットボトルの中に半分ほど残った炭酸の泡が、夕日を浴びてキラキラ光る。

「その答えを自分で見つけられるようになったら、教えてやってもいいぞ」

その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、弾かれるようにクルーウェル先輩を見つめる。呼吸の仕方も瞬きの仕方も忘れてしまったみたいな私をおいて、クルーウェル先生は相変わらず問題の解説を続けている。

その唇が紡ぐ言葉も、握られたペンがさらさらと綴る文字も、もうなにひとつだって頭に入ってこない。この黄昏の教室に響くのはうるさいくらいの心臓の音だけで、そんな音に引き寄られるように、意外と近くにあったかもしれないゴールへの抜け道が私を手招きしている気がした。


気泡のまじるミルキーブルー


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