波が引いていくように、眠りから目が覚めた。
部屋の中は窓から射し込む月の明かりに照らされ、薄ぼんやりとしている。夜が濃い。時間を確認しなくても、今がまだ夜中なのだとわかるくらいに。

ざわつく胸に急かされるように、隣で眠るトレイ先輩の顔を覗き込む。鼻梁の通った整った顔。耳をすませばちゃんと規則的な寝息が聞こえる。

大丈夫。ここは夢じゃない。
布団に潜り直して、静かに部屋の中を見回す。夜の闇によって輪郭がぼやけた部屋は、まるで私の知らない場所みたいで少し怖い。

どこかへと旅立ってしまった眠気が、再び戻ってくる気配はなく、きっと今日も眠れないのだろうと覚悟する。だけど、同時に安心もしている自分がいる。今日もちゃんとあの夢から目を覚ますことが出来た。今夜はこのまま眠れないから、もうあの月に手を掴まれることはない。

「眠れないのか」
「あ……起こしちゃいました?」

気遣うような声が聞こえて隣を見ると、さっきまでは確かに寝ていたはずのトレイ先輩が、まだ眠そうな眼で私を見ている。少しもぞもぞと動きすぎてしまっただろうか。

「いや、大丈夫だよ」

ふっと笑ったトレイ先輩に頭を撫でられていると、ぐいっと抱き寄せられた。やましいことはないと分かっていても、ひとつのベッドでこうしてトレイ先輩と肌が触れ合うのはドキリとする。
そんな邪な気持ちを振り払うように、何か言葉を探す。

「夢を見るんです」
「夢?」
「怖いくらいに冴え冴えとした月の夜とムーンロードの夢」

ゆっくりと瞼を閉じる。
名前も知らない夜の海は真っ暗で、いつになく大きく感じる青白い月だけが私を照らしている。白い砂浜には私しかいなくて、そこへまるで私と月を繋ぐように、海の上を真っ直ぐに光の道が伸びていく。

「私はね、その上を歩き出すんです」

遠くでは珊瑚礁に当たった白波が砕けて、ざぱんと波の音が静かに響いてる。それ以外には何の音もしない。

どうして自分がここにいるのかも、どこに向かっているのかも分からないのに、その歩みを止めることが出来ない。それでも、誘われているのだということだけは分かっていて、胸には懐かしい安堵が胸に込み上げる。

だけど、空には月以外にも昏い星が瞬いているのを見つけたとき、ハッと気づく。大切なものを落として来てしまったと慌てて振り返るのに、そこは海の上だから、もうすべて沈んでしまっていて、私はただひとりぼっちで立ち尽くす。

「あそこを通って、私はいつか月に帰るのかもしれない」

閉じていた瞼を開く。
窓の外には月の明かりは感じられても、この位置からは月は見ることが出来ない。だけど、きっと今夜も冷たく輝きながらそこにあるのだろう。
この夢を、この世界に来てから実はもう何度も繰り返し見ている。そして、夢から覚めたあとはいつも、あの月が乗り移ってしまったかのように意識が冴えて眠れなくなる。

「もしもそうなったら、トレイ先輩は止めますか?」
「止めて欲しいか?」
「……いじわる」

拗ねたように唇を突き出して、お腹の辺りに回されたトレイ先輩の腕に触れる。そっと手首に指を這わせ、 その輪郭をなぞれば、「くすぐったいよ」と逃げるように離れてしまう。
骨ばった手、こうして触れられるのに、どこか遠い。

私が引き止めてと頼んだら「もちろんだ」って言ってくれるだろうし、帰らせてと願えば「幸せになれよ」と手を離すのだろう。それなら、私が何も言わなければ?私たちを繋ぐものなんて、何もなくなるんだろうか。

「なまえ、ほらこっち向いて」
「……ん」
「大丈夫。お前はちゃんと、ここにいるよ」

寝返りを打ってトレイ先輩の方を向けば、そっと額にキスを落とされる。染み渡るように身体に馴染むトレイ先輩の声。張り詰めていた心が、さっきよりも少しだけラクになった気がする。

トレイ先輩は肯定も否定もくれる。だけど、選ばないことは与えてくれない。選らぶことには責任を伴うから、私はどんどん抱えるものが重くなる。
そんな抱えたもので、私の両手はもういっぱいになってしまって、ポロポロと大切なものが零れ落ちていく。それを困ったように笑いながら、隣を歩くトレイ先輩が拾ってくれるのだ。

それが私たちの関係。与えられすぎて身動きのできない私と、与えるばかりで何も受け取ってくれない身軽なトレイ先輩。いっそ転んで、全部なかったことにしてしまいたいとも思うのに、トレイ先輩が支えてくれているから、それもできない。

「眠れないならホットミルクでも作るか? それとも、気分転換にその辺を散歩とか」

だけど、決して愛されていないわけではないのだ。むしろ、愛されている。肩代わりするのではなく、自分の責任にちゃんと向き合わせるのは、それこそ彼が唯一私のために背負った愛。

その大きな手で、私が背負わなきゃいけないものを全て跳ね除けた方が簡単なのに、そうするのではなく、辛抱強く私の傍らで一緒にすべてを見届けてくれる。
それが分かっているから、私はこの腕から逃げ出せない。

「このままで大丈夫です。だからもっと、キスをしてください」
「ははっ、可愛いお願いだな」

無邪気に相好を崩したトレイ先輩が、ばさりと私ごと布団で覆う。月の光が閉ざされて、訪れた本物の暗闇。同じ布団にくるまったふたりだけの秘密の夜は、なんだか子供じみたナイショ話やおとぎ話のはじまりみたいでドキドキする。だけど、この物語の結末がそんな優しいだけの終わりじゃないことにくらい気づいている。

生ぬるい海の底。私はこの恋を続ける限り、いつかそこに沈むのだろう。あの月の道に足を踏み出した瞬間、抱えた重みに耐えられなくなって、海の底に引きずり込まれる。

抱えていた沢山のものが海水に溶けて、気がつけばトレイ先輩だけが私の手を握っている。ぶくぶくと口から漏れだしてしまった泡の粒。そのうち呼吸が苦しくなった私が望めば、トレイ先輩は酸素をくれる。苦しい海の底で、酸素を望まないことなんで出来なくて、何度も何度もせがむうちに、もう月の夜の夢なんて見なくなるんだろう。

そうして、やっと、私はゆっくりと眠れるようになる。
私たちに待ち受けているのは、そんな奈落みたいな安寧だ。



酸素が融けてゆく様を撫で


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