まだ夜も明けきらない時間。音を立てないようにバルコニーに出る。
冬の朝の空気はキンと張り詰めて、刺すように冷たい。両腕をさするように抱きながら吐き出した息が、一瞬で白に染まり、そしてまた空気に溶けていく。
なんて寂しい世界だろう。薄闇を残したまま朝靄に包まれた街は、まるですべての生き物が絶滅してしまったように静かに佇んでいる。だけど、太陽を隠した遠い山の稜線だけは、明るく白け始めていて、もうじきに世界は目を覚ますという予感を孕んでいる。
終わりも始まりも入り交じったようなこの時間が、私はどうしようもなく好きだ。ずっと昔から好きだったわけではなくて、数年前のある日を境に無性にこの光景に心を奪われるようになった。寂寥と安堵と、言い表しようのない罪悪感。そんな感情が私の中の何に起因しているのかは分からない。それでも、底のない、暗く深い海に沈むようにその罪に身を任せる。

「随分と早いんですね」
「……ごめんなさい、起こしちゃいました?」

からからと古い大きな窓が開く軋んだ音。ゆっくりと振り向けば、色彩を奪われた冬の早朝には鮮やかすぎる水色がそこにはある。
ジェイドさん、と名前を呼べば、まだ眠気を残した瞳が柔らかく細められる。

「いえ、目を覚ましたらあなたがいなかったので、ここだろうなと」
「寒いし、ジェイドさんはまだ寝ててもいいんですよ」
「……あなたが、またどこかに行ってしまうといけないので」

また、とジェイドさんはよく口にする。その意味はよく分からないけれど、問いただしてはいけないということだけは、何となく分かる。ジェイドさんとの出会いは、大学進学を機に、この寂れた街に引っ越してきたばかりの頃、駅で声をかけられたのだった。「約束を果たしに来ました」、その声も街の雑踏も今でも鮮明に思い出せる。
普通に考えたら怪し過ぎるのだけど、どうしてか私はその出会いをすんなりと受け入れられてしまった。日本人離れしたその容姿は、海の向こうの生まれのせいだという言葉も、私のひとつ上だという年齢も、すべてまるごと受け入れた。
それからもう四年近く、私たちはこうして一緒にいる。

「そんなに僕の顔を見て、どうかしましたか?」
「んー、いつまでたってもジェイドさんが、このオンボロアパートにいるのに慣れないなあ、と思って」

築二十五年、五階建てエレベーター無しの一LDKのアパートは、私が住む前の年にリノベーションされてはいるものの、それでもやはりジェイドさんには似合わない。都会の真ん中の高級タワーマンションの最上階に住んでいます、という顔をしながら、錆び付いたバルコニーでお揃いのよれたスウェットに見を包んでいる。

「そうですか? あなたにはよく似合っているのに」
「ねえ、失礼ですよ。まあ、この部屋とももうすぐお別れなんですけどね」

大学四年生、就活も終え、次の春には海沿いの街へと引っ越す。せっかくなので海の見える部屋に住みたいと言うと、ジェイドさんの表情が少しだけ曇った。あの影の差す笑顔の理由はやはり聞けていない。私たちは恋人として一緒にいるし、デートもする。もちろんキスもするし、身体を重ねることもある。
それでも、私はジェイドさんがどんな仕事をしているのかも、私といない間どんな生活をしているのかも知らない。だけど、ジェイドさんはちゃんと私の部屋に帰ってくるし、私のことが好きだと言う。それだけで十分だと思ってしまう。

私たちの出会いは、きっと予定調和の帳尻合わせなのだ。間違ってしまった運命を正しく直すときに生じた歪み。だから、少しずつ色々なところがおかしくなる。だけど、それを否定してしまえば彼は私の前から消えてしまうのだろう。
始まりと終わり。この朝の景色のような不釣り合いと不安定さで、私たちの関係は成り立っている。いつか魔法がとけるように、すべて消えてしまうんじゃないかと思うこともあれば、まるで呪いのように、私たちは永遠にこの関係に囚われて生きていくしかないんじゃないかと思うこともある。どちらが正しいのかも、どちらが幸せなのかもわからないまま、私は彼の手を振りほどくことは出来ない。

「ジェイドさん、あのお話をして下さい」
「またですか? あなたは本当にあの話を気に入ったんですね」
 困ったように笑いながらジェイドさんは後ろから私を抱きしめる。

彼の体温はとても冷たいから、こうして抱きしめられてもあまり温かくはないのだけど、それは言わずに素直に身体を委ねる。
私がジェイドさんに決まってねだるのは、彼の生まれた国のお伽話だ。対価と引き換えに、どんな願いでも叶えてくれるそんな魔法使いの話。

「僕も、実はその魔法使いにお願いをしたことがあるんですよ」
「あはは、そのお話は初めて聞きますね。どんな願い事したんですか?」
「それは言ってはいけない約束なんです」
「えー……じゃあ、対価は?」

抱きしめられたまま、身体をよじってジェイド先輩の顔を見上げる。ジェイドさんの青い髪は、空の色というよりは海の色だ。よく晴れた日、海の中から見上げる太陽はキラキラと海水を反射させて世界を輝かせる。あの光景は、いつだって本当に綺麗だった。

(……あれ?)

そこでふとおかしなことに気づく。私は一度だってそんな海に行ったことはない。海からは遠い場所に住んでいたし、あんなに澄んだ綺麗な海、この国にあるのだろうか。ざわざわと心が騒ぐ。海と空の境界があやふやになるような、あやうい錯覚。

「僕はもう、海にも帰れないし、泡にもなれない。あなたは何も思い出せないまま、忘れることも許されない」

ジェイドさんの言葉の意味は、やはり分からない。それでも心をよぎる黄昏の記憶。追憶と追体験。
オレンジ色に染まった空と、澄んだ川面のきらめき。見たこともない制服を着た私は裸足になって、その浅い川を歩いている。明日なんて来ないと知りながら、「また明日」と縋るように吐き出した声は一体誰のものだっただろうか? 隣を歩く同じ制服の誰かの顔は黒く塗り潰されて思い出せない。閉じられた世界と深遠の記憶。

「……ジェイドさん」
「ほら、もう日が昇りますよ」

ジェイドさんの手が私の頭を撫でる。愛おしむように、慈しむように。その色の違う瞳が見ている世界は、私とは違っているのだろう。彼の見ているものを、私はもう決して見ることは出来ない。
この記憶を辿るのはおそらく初めてではないのだと、傷ついたような諦めたような、それでいて安心したような彼の瞳を見て悟ってしまう。ジェイドさんと出会ってから、私はもう数えきれないほどこの追憶を繰り返し、そして忘れている。あと少しで届きそう何かは、いつだって目の前で崩れ落ちていく。
灰で覆われていた無色の街に明るい色が戻る。波が引いていくように意識が遠くなる。朝焼けはいつだって、私からあの極彩色の記憶を奪い去っていく。







あの夕焼けを待っている


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