side:Jade Leech(そして、隠した記憶のはなし)



魔法は万能ではない。そんなこと、魔法を扱えるようになった頃から身に染みて分かっていたし、だからこそ、その溝を埋めるように日々この世界も進化していけるのだろうと思っていた。

静かに寝息をたてる彼女を抱きしめる腕に少しだけ力を込める。冬の空気に晒された身体はひんやりと冷えきっていて、早く部屋に入れてあげないと、と思いつつも、朝焼けに染まる街の色に目を奪われる。
この世界に戻って来てから、なまえさんはこうして早朝の景色を眺めるようになった。彼女が何を考えながらここに立っているのかは分からないけれど、この時間にだけ魔法の綻びが起きる。それは酷くあやういことだと分かりながらも、彼女の瞳がかつて監督生として、あの世界ではしゃぎ回っていた色と同じに輝き始めるのを見ると、酷く安心する。

「……ジェイド、先輩」

不意に彼女の口から漏れた懐かしい呼び名。刹那によぎる、郷愁と愛情。大丈夫、彼女の中にはちゃんと僕たちが過ごした時間がある。失われてはいない。ただ、それを共有する術を失っただけ。

「駄目ですよ。ちゃんと、しまっておかないと」

なまえさんの額を撫で、そっとその眉間にキスをする。がしゃり、と錠の落ちる幻聴。
この世界での僕は、いわば霊体に近い存在である。この世界に来てからそれなりの時間が経って、やっとその感覚が馴染み始めたけれど、それでもやはり、こうして彼女に触れることも、キスをすることだって出来るのに、身体がここにないというのは不思議な感覚がする。

この世界で僕を認知できるのは、彼女だけ。他の人に僕が見えないことに彼女は気がつくことはなく、僕たちの関係における不自然さにも疑問は抱けない。本当は、なまえさんにさえ見えなくすることも可能で、それでもせめて、なるべく自然なタイミングで出会えるように、彼女がひとりで暮らし始めるようになるまで姿を消してきた。
それが、優秀な友人が精一杯にかけてくれた万能ではない魔法の限界で、僕たちが払った対価であり、共に背負うことを決めた運命と咎。
彼女が元の世界に戻る方法が分かった日のことは、今でも鮮明に思い出すことができる。いや、戻る方法というより戻らなくてはいけないタイムリミット。
彼女を抱えたまま瞳を閉じて、あの日の記憶を甦らせる。








学園長に呼ばれたと言っていたなまえさんが戻ってきたときの、不安そうで、だけど泣くにはまだ現実を受け入れ切れていないような表情に、これから待ち受ける未来が酷く冷たく温度を失っていくのを感じた。

「次の満月の日、私は元の世界に戻されるんだそうです。私がこの世界に迷い込んだことで、少しずつ溜まっていた歪みに、元に戻ろうとする力が働きはじめてるって」

震える声でそう告げた彼女の言葉は、まるで本の上の出来事をなぞっているかのように他人事に聞こえた。そんなはずはないと嘲笑する自分と、冷静にこの現実を受け入れようとする自分。相反する感情にぐちゃぐちゃと入り乱れる心は、躊躇うように口を開いた彼女の声で無惨にもに引き裂かれる。

「それで、元に戻るとき、私がこの世界に来るちょうどその前に時間も戻されるって……この世界で起きたことは、ぜんぶ無かったことになるだろうって」

一方的に与えられた彼女と僕の出会いは、今度は暴力的に奪い取られるのだ。そう自覚したとき、感じたのは酷く静かな怒りだった。誰に向けたわけではないし、向ける場所も分からない怒り。ただ、こんな現実だけは受け入れられないと軋むように息を吐き出した。

次の満月の日まではちょうど二週間。なんて短い時間だろう。その間になんとか彼女と僕を繋ぎ止める方法を探すことを決めた僕たちは、アズールに相談することにした。驚嘆しつつも、「少しだけ時間を下さい」と告げたアズールが、苦虫を噛み締めたような表情で僕たちに声をかけたのはその三日後のことだった。
モストロ・ラウンジのVIPルーム。鍵をかけ、人払いをしたその部屋には、何故か不機嫌そうなフロイドも同席していた。そんな部屋で、重い鉛を吐き出すように、アズールは話しはじめる。

「ありましたよ。なまえさんがこの世界でのことを忘れずにすむ魔法」

そう言って差し出されたのは古びた魔導書で、アズールが開いたページに載っていたのは記憶を封印する魔法だった。つまり、彼女の記憶を失えないように心の奥底に、重い錠をかけて封印してしまう。そして、そのためにはその錠を管理する鍵が必要になる。それがつまり僕であって、いわば供物であり人柱。
そして、もしもその記憶を解き放ってしまえば、途端に世界のことわりの力が作用して、彼女の記憶は掻き消される。

だからこれは、忘れることがない代わりに、思い出すこともできない魔法なのだ。僕はただひとり、この世界での彼女の記憶を抱え、この世界での僕を知らない彼女と過ごす。そして、彼女の閉じ込めた時間そのものである僕は、彼女の記憶をよすがにしか存在することが出来ず、この姿のまま変わることはできない。そんな歪んだ魔法。

ああ、なんてことを友人に言わせ、今までずっと人生を共にしてきた片割れに聞かせているのだろうと思いながらも、心の中には安堵が込み上げる。これで、彼女と離れることはなくて済む。それだけで、そんな対価も、世界を歪める咎も安いものだと本気で思った。






満月が昇る日、僕たちは森へ最後の材料集めに出かけていた。黄昏がやってきて、木々の隙間から差し込む夕日。それを見ていた彼女が急に、靴を脱ぎ捨て、近くを流れていた川へと走り出す。

「もう冷たいですよ」
「平気です。だって……こんなに綺麗なんだから。ほら、ジェイド先輩も」

無理に貼り付けているのが分かりきった笑顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。夕日のオレンジが川に流れ込んで、彼女はまるで極彩色の世界にひとりで佇んでいるようだった。
心がざわついて、気がつけば靴を脱ぐのも忘れて彼女を抱きしめていた。

「ごめんなさい」

彼女の表情が見たこともないくらい大人びていて、息をのむ。その言葉に込められた意味がひとつではないことくらい分かっている。
こうして僕たちが迎えることになる結末も、それでも共に生きることを諦められないことも、全部引っくるめて彼女は背負うことを決めた。それがどんなエゴだとしても、彼女が僕の手を取ってくれたことが嬉しかった。共に背負うのなら、重い罪の方がいい。

「それは、言わないと決めたでしょう」
「だって、ジェイド先輩にばかりつらいことを押し付けてる」
「僕が望んだんです。あなただって、もう普通の幸せは手に入れられないんですよ」

元の世界に戻った彼女は、存在しない恋人を永遠と愛し、結婚も出来ず、子供も作れないまま、ひとり朽ちていくのを待つだけ。そして、僕もまた彼女が息絶えたとき、本当に消えてなくなるのだ。
別れることを受け入れられたならば、望んだものではなくたって、それなりの幸せをお互いに手に入れられたはずだった。それでも、こうして出会ったことも、愛し合ったこともなくなるくらいなら、世界くらい歪めてしまえると思った。

不意に彼女が僕を突き放す。僕は縋るように彼女の手を取る。僕の生まれた海よりはずっと温かいはずの水温が、凍えるように冷たく感じて、これが僕たちの歩むことになる未来の残酷さなのだと気がついた。それでも彼女は、悲しく、そして幸せそうに笑うのだ。

「ジェイド先輩、また明日」






瞳を開く。すっかり顔を出した朝日は眩しいくらいに僕らを照らし出している。
僕たちが迎える明日。世界を歪める咎。僕たちはこれからも一緒にこの朝も、夕日だってを眺めることができる。だけど、その温度は永遠にすれ違い続ける。僕の決して追いつくことのできない時間で、彼女は大人になっていくのだろう。痛いくらいに鮮やかな色を湛えて輝く世界で、ただ色を失っていくだけの僕をおいて。







けれどたしかにきみがいた


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