「まったく、君は死ぬ気なのか?」

眠りの淵から無理やりに私を引き上げたのは、鮮やかなジャミル先輩の声だった。
瞳を開けると照り付ける太陽が眩しくて、反射的にまた瞳を閉じる。ザリッと砂を踏む音が近く聞こえるなと思っていたら、瞼を閉じていても分かる強い日差しが急に陰った。
おそるおそる瞳を開けると、ジャミル先輩が影になってくれたらしい。呆れたような怒ったようなその表情には、もうすっかり見慣れてしまった。
張り付いた前髪の感触が気持ち悪くて額を拭うと、手の甲にべじゃりとたくさんの汗の粒がついてくる。

「……暑いです」
「こんなところで寝てたんだ、当たり前だろ。気分が悪いとかはないか?」

ゆっくりと身体を起き上がらせながら、こくこくと頷く。
だんだんと意識が覚醒してくる。そうだ、ここは熱砂の国のアジーム家のお屋敷だ。そしてここはバルコニー。はて、どうして私はこんなところで寝ていたんだっけ。

「向こうでみんな、なまえを探してたぞ。シーツを取りに行ったまま全然帰ってこないって」
「あ、そうだ。洗濯を手伝おうと思ってたんだ。悪いことしちゃいました」

結局、元の世界に戻る方法は分からないまま、学園は一年前に卒業している。
ジャミル先輩は自分が卒業してからも定期的に連絡をくれていて、私の卒業が近づいた頃、卒業後の生活の目処が何も立っていない私を見かねて、アジーム家で働けるように取り合ってくれた。
ああ、そういえばあのときもジャミル先輩は呆れたように「まったく、君は死ぬ気なのか?」と言っていたっけ。

「ほら、まずはそこの日陰に行こう。いいか、ゆっくり起き上がるんだぞ」

言われた通りにゆっくりと起き上がる。くるまっていたシーツを肩に羽織るようにかけたまま歩くと、長い丈をズルズルと引きずってしまう。ぼんやりとこの暑いのにどうしてシーツを被ってたんだろうと考えて、服を汚したくなかったんだと思い出した。

今日の服はノースリーブの白いロング丈のワンピース。この国にやってきたばかりの頃に、ジャミル先輩が買ってくれたものだ。
不意に前を歩いていたジャミル先輩が振り返り、眩しそうに片方の瞳を眇めた。

「そうしていると、天使みたいだな」
「……私に言いました?」
「ここに君以外がいるように見えるか?」

呆れたように笑うジャミル先輩は、私が日陰になっている場所に置かれたベンチに座ったのを確認すると、水を持ってくると言ってキッチンに行ってしまった。

空いたスペースにシーツを置いて、ぐっと身体を伸ばす。この屋敷での私の立場は、一応は使用人ということになっている。だけど、それは本当にとりあえず何か名前が必要ならという感じで、扱い的には客人またはペットだ。

朝起きて挨拶をするときに、今日は何か手伝いたいと言うと仕事を貰える。その程度だから、洗濯も満足に手伝えなくても怒られない。こんなんで衣食住が保障され、さらにはお給料まで貰えているのだから、毎日勤勉に仕事に励む人から見たら堪ったものじゃないだろう。

「今日も、天気がいいなぁ」

引き寄せられるように心地のいい日陰から抜け出して、バルコニーの手すりに手を伸ばす。眼下の町には人々が行き交い、活気のある声が響く。熱砂の国は天気のいい日が多い。遠く、地平線に目を向ければ、うっすらと砂漠も見えた。

この国に来てから、砂漠には何度か出向いたことがある。あのだだっ広い砂だけの世界が好きで、ジャミル先輩に頼んでときどき連れていってもらうのだ。ジャミル先輩には変わり者だと言われてしまうけど、あの広大な中にいると自分のちっぽけさがいっそ清々しくなる。

「……どうして君は、俺の言うことが聞けないんだ」

苛立った声に振り向けば、ジャミル先輩が私を睨んでいた。これは本気で怒っている。そういえば、「いいか、絶対にここに座っていろよ」と強く念を押されていた。

へらりと笑えば、今日一番のため息をつきながら、スッと水の入ったグラスが渡される。それを受け取り口をつける。こくりこくりと喉を通り抜けていく冷たい水の感触が心地好かった。あれだけ汗をかいていたのだから当然なのかもしれないけど、自分でも思っていたより喉が乾いていたらしい。ああ、そうか、だからジャミル先輩はこんなに心配してくるのか。熱中症とか脱水症状って怖いらしいからな。
ただそんなことを考えながらも、それはどこか他人事のようにしか思えない。

「いつか君が本当に死にそうで、俺は気が気じゃないよ」

きっと今ジャミル先輩の頭の中には、私が毒へびに向かって駆け出していったときのこととか、砂丘から転げ落ちたときのことが思い出されているんだろう。あのときは本当に怒られたから。

こうまでしてくれるジャミル先輩と私の関係はひどく曖昧だ。私はジャミル先輩のことが大好きで、毎日のように彼を好きだと声に出している。だけど、ジャミル先輩からはそういう言葉は言われたことがない。
だから私たちは恋人ではないと思っているのだけど、ジャミル先輩はこうしてよく私のことを気にかける。その庇護欲はどこから生まれているのだろう。

「ジャミル先輩が来てくれるから、死なないですよ」
「それじゃあ困るんだ。まず俺が行かないとならないような状況にしないでくれ」

頭の中に私のことを天使みたいだと言ったジャミル先輩の声が浮かぶ。天使。私は信仰を持たないけれど、何かのテレビで見た天使の絵はとても慈愛に満ちた微笑みで描かれていた。そう思うと、なんだかあの状況がひどくおかしくなる。私にはとても、そんな天使のような慈悲深さも優しさもないんだから。

だって、本当はひとりでだってそれなりに生きていけるのだ。だけど、私は敢えて自分の命を軽んじる。まるで好んで命綱なしの綱渡りをするように。そうして、わざと落ちそうなふりをするのだ。

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているから」
「は?なんだそれ?」
「ふふ、ジャミル先輩には一生意味のわからない言葉です」

くすくすと楽しそうに笑えば、ジャミル先輩は怪訝そうに眉をひそめた。
ついっと遠くの地平線に目を向ける。砂漠の地平線は、どうしてあんなにも美しいのだろう。

「ジャミル先輩はいつかきっと、そんな井戸を探しに行っちゃうから、私は沢山わがままを言うんです」

いつだか聞いたジャミル先輩の夢の話。あのときから、私は置いていかれることを勝手に怖がっている。だけど好きだと言ってもらえない私は、その手を掴むことが出来ない。だから、せっせとジャミル先輩の方から腕を掴まないといけなくなるような状況を作る。
どこか遠くに行きたいジャミル先輩が、私がいることでどこにも行けないことに安心しているのだ。

「ジャミル先輩はいつも優しいですね」

放っておいたらすぐに死んじゃう私を置いて、一人で先には行けないくらいに。
声には出せない言葉が、心の底に澱となって沈んでいく。もしも私が天使になれたとしても、この汚れのせいですぐに地上に落とされてしまうことだろう。

「なまえは、随分と自分が重い枷だとでも思っているようだな」

今度こそ怒鳴り付けられそうなほど苛立ちを含んだ低い声。だけど、瞳はまるで憐れむように私を見ている。首の後ろを、つうっと一筋の汗が流れていく。
そう、私はあなたを縛る重い枷になりたかった。ジャミル先輩が一歩、私に近づく。その動きがやけにゆっくりと感じられた。

「いいか、悪いが君くらい、たいした重さじゃないんだ」

幼い子供に、この世の道理を言い聞かせるかのようなジャミル先輩の声音。太陽の熱さにやられた頭がぼうっとしてくる。くらりとした眩暈が私を襲い、視界が暗転する。すると同時に、ぐいっと身体が抱き寄せられる。

「だから、いざとなったら君ごと攫うさ」

ああ、これは一体、なんて優しい白昼夢なのだろう。






赦しに痛みがあるのならきっと鈍くていとおしい


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