太陽にかざした硝子玉は、キラキラとその光を反射して輝く。
防波堤の端に座り仰ぐ空は、原色の絵の具みたいに青く深く、何の混じり気もない白を塗りたくったような入道雲が浮かんでいる。
世界は違っても夏の空は変わらないんだなんて、ぼんやりと考えていると、強い潮風が吹き付けて思わず顔をしかめる。空は変わらなくても、空気は随分と違う。あの蒸し暑く茹だるような暑さと違って、この世界の夏は暑いながらもどこか爽やかだ。

「小エビちゃん、なにそれぇ?」

背後からかけられた声にのけぞるようにして振り返れば、古びたボラードの上にしゃがんだフロイド先輩が私を覗き込んでいた。よくそんな所でバランス崩さないなと思いながら、手のひらに乗せたそれをフロイド先輩に見えるように差し出す。

「ビー玉です。さっき港で会った男の子がくれたんです」
「へー、キレイじゃん」
「ふふ、お姉さんが可愛いからあげるって言われちゃいました」
「は?なにそれムカつく」

ビー玉のキラキラした輝きを興味深そうに見ていたフロイド先輩の表情が、途端に不機嫌さを滲ませる。「あ、マズイ」と思ったときにはもう遅くて、軽々と私の手から奪い取られたビー玉は、ポイッと目の前の海へと放り投げられてしまう。
ポチャン、という呆気ない音だけを残して、姿の見えなくなるビー玉を唖然と見送る。

「あー!ひどい!探して来てくださいよ!」
「この下けっこう深いからムリ」
「人魚なんだからそれくらい余裕のくせに!嘘つき!」

しばらく呆然としてから、ハッと我に返って喚いてみるけど、フロイド先輩はもう興味をなくしたように、さっき買ったばかりのペットボトルを開けていた。しばらく恨めしく睨んでみたけど、そんなこと何の効果もないのは今までの付き合いで十分に分かっている。
あの男の子には悪いけれど、まあ私が持っていてもどうせすぐに失くしていただろうと思って諦めることにする。

「私の世界って死んじゃったら燃やして灰にされるんですけど、昔観た映画にその灰を海に撒いてもらう話があったんですよ」
「はあー?なんで?」
「内容はもうほとんど忘れちゃったんで分からないんですけど、なんかそのシーンだけやけに印象に残ってるんですよね」

防波堤からぶら下げた足元に視線を向けると、壁に打ち付ける波がばしゃりと白く泡だって消えていく。太陽の光を受けて、波にさらわれていく灰はきっととても悲しく、だけど残酷なまでに美しいのだろう。

「私も、海に撒いてもらおうかな」
「今日の小エビちゃん意味わかんないね」

そう思いながらも付き合ってくれるのはフロイド先輩なりの優しさだ。
この世界に急に現れて、勝手に恋をして、そしてそのまま消えていく。そんなはた迷惑な女のワガママで、休みの日にわざわざこんな海まで付き合ってくれるのだ。
フロイド先輩と付き合ってから、大変でしょうとよく言われてきたけど、こんなにも本能的に愛されているのだと思える恋が大変なわけがない。

「そしたら、私のこと見つけて下さいね」
「灰なんでしょー?ムリに決まってんじゃん。見えねぇし、どうせバラバラだよ」
「冷たーい!それでも今生の別れを前にした恋人の台詞ですか!一生かけて全部集めるくらい言ってくれてもいいのに!あーあ、そうやってどうせすぐに私のことなんて忘れちゃうんだー!ひどいなー!」

大袈裟な演技をしながら、足をばたつかせる。
元の世界に戻る方法が分かったのは夏の始めで、夏が終わったら帰ると決めたのは先週のことだった。これでも随分と考えたのだ。この世界に残ることも、フロイド先輩のことも。
悩んで悩んで、結局私は元の世界を捨てられなくて、それなのにフロイド先輩のことは捨てようとしている。

目の前で、弧を描いて広がるこの海の名前を私は知らない。私の世界の海の名前だって、フロイド先輩は知らないのだ。だから、もしも本当に灰を海に撒いたって、波はフロイド先輩の元まで私を運んではくれない。碧落の果て、彼我の距離はそれだけ絶望的に遠い。

「小エビちゃんさぁ」

間延びしたフロイド先輩の声。ちらりと視線を向ければ、その瞳は私を見ていなくて、ただ真っ直ぐにあの水平線を見ている。
空の色を映した海は、どこまでも深い色をしている。この世界の地理はよく知らないけれど、きっとあの水平線の向こうはどこかの国へと続いているのだろう。世界はこんなにも広いのに、どうしてこんな形でしか出会えなかったのだろう。どうして私は、この恋のためにすべてを捨てられないのだろう。

「そんなことばっか考えなくたって、オレ、小エビちゃんのことずっと忘れないよ」

フロイド先輩は私を見ない。見なくたって、私のことなんか全部分かってるみたいな顔をして、ずっと遠くを見ている。
分かってしまった。私がいなくなった後、この人はこうしてこの海を眺めるのだろう。ああ、それならまるで今はサヨナラの練習をしているみたいだ。

海に行きたいと言った私に、海の中でいいじゃんとフロイド先輩は言った。それでも、こうして海を眺めることにこだわったのも、夏の終わりに帰ると決めたのも、あまりに子供じみた仕返しのつもりだった。

陸の夏は暑いから嫌だとばかり言うフロイド先輩が、もっと夏を嫌いになればいいと思った。嫌いな夏が好きな女と過ごした最後の思い出になったら、きっと夏が来るたびに嫌でも私のことを思い出すから。
それなのにどうして、忘れないなんて言うんだろう。

「だからさぁ、安心して幸せになっていいんだよ」

そんな似合わない優しい笑顔で、こんな狡い女の幸せなんて願わないで欲しかった。本当は、私の気持ちなんて無視して、引き止めて欲しかった。
そうすれば、私はフロイド先輩を選べなかった自分を責めずにいられたのに。

太陽が作った暈がギラギラと輝く。それに照りつけられて、くらりと眩暈がする。夏の終わり、この海はもっと色を濃くする。きっと私は、この世界から旅立つ最後の日まで泣くことはないだろう。だけど、元の世界に戻った私はこれから一生、密度の濃い夏が来るたびに自ら手放した彼を想って泣くのだろう。







穿たれる群青


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