友情と愛情の境目っていうのはどこなのだろう。
たとえば、真っ白な画用紙に真っ黒なインクを垂らす。どこからが白でどこから黒なのか。そんなコントラストのはっきりとした境目に、ぴっと一本の線を引くのは簡単だ。だけど、そこに限りなく近づいたとき、白も黒も曖昧にしか認知出来なくなる部分がある。
私たちの関係は、そんなぼんやりとした線の上に続いている。

「ごめん」
「え、なんで?」

二人で暮らす部屋に、やけにはっきりとした私の声と、間の抜けたエースの声が響く。
卒業してから、当たり前のように始めた同棲。最初に暮らしていた1LDKの部屋からは、お互い仕事に就いて収入が安定してきたことだし、と1年前に引越しをした。

そんなそろそろ住み慣れてきた部屋の隅には、エースが休みの日に趣味でやってるバスケのボールやシューズが置かれ、私の座るソファの足元には取り込んだはいいものの、まだ畳んでいない洗濯物が無造作に山を作っている。
そんな二人の生活の片鱗に囲まれながら、私は今エースにプロポーズをされ、そして断った。

「なんか、まだエースと結婚とかってイメージできない」
「嘘でしょ。オレたち付き合って何年になると思ってんの?」

情緒もへったくれもないな、とは思うものの、ドラマや映画を一緒に見ながら、仰々しいプロポーズのシーンで「こんなことされたら、絶対笑っちゃう」と漏らしていたのは私なので、そのあたりを考えてくれた結果なんだろう。
帰ってきてからやけにソワソワしてるなと思ったら、こういうことだったのかと、まさに絶句とでもいうような表情のエースを見つめながら冷静に分析する。

「もう少しさ、友達みたいな恋人でいようよ」

友達みたい。エースと私の関係はよくそんな言葉で表される。実際、友達として始まった関係だから仕方ないと思うし、別に嫌というわけでもない。

ただ、時々不安になる。エースと二人で甘ったるい時間を過ごすのは未だに少し気恥ずかしいし、たまにデュースやグリムをまじえて四人で集まって過ごす時間は気楽だと思う。
だから、私たちはもしかして友情と愛情を履き違えてるんじゃないだろうか。もちろん、エースのことを好きだと思うし、恋人として誇りに思っている。だけど、比べることの出来ない感情を、どうやってこれが愛だと証明できるのだろう。

「結婚したからって、恋人から夫婦に変わるだけで、オレたちの何が変わるわけじゃないじゃん」
「きっと、私のことを重くなるよ」

視線をすっとオーク材のローテーブルに向ける。そこに置かれたグラスの中で、溶けた氷がカランと崩れる。
氷は水よりも密度が低いとは、一体いつ習ったんだっけ。ぎゅっと小さく詰め込まれたはずなのに、そこにあったはずのものはどこに消えてしまうのだろう。私たちも夫婦という枠組みに閉じ込めたら、同じように消えてしまう何かがあるんだろうか。

友達みたいな恋人。そんな今の関係は身軽なのだと思う。恋人なんだからと気を張る必要は無いし、流石に学生気分は卒業したけど無邪気にふざけあっているだけでいい。だから、今ならまだ手を離すことだって出来る。きっと、ただの友達にだって戻れるだろう。

だけど、結婚すれば、私が求めずとも社会は多くのものをエースに求める。家族なんだから、夫なんだから。そうしてそのうち私も当然のように、エースに同じものを求めたくなってしまうんだろう。

「はぁー、なんでそんなこと考えてるわけ?」
「逆になんでそんなに軽く言えるの?」

大きなため息と一緒に吐き出されたエースの言葉に、つい棘のある返事をしてしまう。
私とエースはよく似ている。好きな食べ物、笑いのツボ。だけど、ピタリと同じに重なることは出来ないから、違うところが余計に目立つ。
重たい空気が張り詰めて、息がしにくい。しばらくお互いに何も話さないまま時間は流れ、ようやくその空気を切り裂いたのはエースだった。

「あのさー、軽くなんかねぇし。オレはもうとっくに、なまえの人生ぜーんぶ背負う覚悟くらいできてるっつーの」

てっきり怒ってるのかと思っていたのに、存外に優しい声音に思わずエースを見つめてしまう。その瞬間を逃がさないとばかりに、エースが私の手を取りしゃがみこむ。
いい加減少しくたびれてきたソファに座る私と、そんな私の顔を覗き込むように膝立ちをするエース。こんなありふれた部屋で、まるでおとぎ話の王子様みたいな格好はいっそ滑稽だ。

「なまえがこの世界で生きてくって決めた時から、それこそ病める時も健やかなる時も、オレだってなまえといるって決めてんの」
「……私は、ただ帰れなかっただけじゃん」
「結果だけ見たらそうってだけでしょ?帰れるって言われたって、なまえはオレを選んでたんだから」

その言葉に思わず空いている方の手で口をふさぐ。
実際、帰る方法が見つかるかもと言われたことはあったのだ。その時、私はもう四年生になっていて、正直元の世界への諦めもつき始めていた頃だった。もう少し詳しく調べると言った学園長にお礼を言いながら、私の心はひどく動揺していた。

帰るのか残るのか、眠れぬ夜を過ごす日々の中、ずっと頭にあったのはエースのことだった。私はどうしたってもう、エースなしの人生を思い描くことなんて出来ないと思い知った。

結局、調べてみたらその魔法はただの大掛かりな空間移動の魔法で、流石に世界までは移動できなかった。ぬか喜びさせてすみませんと、本気で思ってるのか怪しい学園長の謝罪を聞きながら、全身の力が抜けてへたり込んでしまいそうなほどの安堵は今でも忘れない。
だけど、そんなことは一度もエースに話したことは無かったはずだ。

「……知ってたの?」
「なまえは分かりやすいから見てたらわかるって」

照れたように頭を掻くエース。そんな仕種が痛いくらいに胸に迫る。
私たちは出会ってから同じだけの年を経て、惰性のように一緒にいるのだと思っていた。だから、些細な綻びが、いつかその壊れやすい関係を崩してしまうんじゃないかと怯えていた。
だけど、それは私の独りよがりで、ただずっと包み込んでくれていた大きな愛に気づけていないだけだった。

「……ごめん、プロポーズ、もう一回最初からやり直せない?」
「いーよ、お前が頷くまで何度だって言うに決まってんじゃん」

私の情けない顔に笑っていたエースの表情が、すっと真面目な顔つきになる。呼吸を忘れてしまいそうなほど真剣な眼差しで私を見つめ、そして愛おしそうに私の名前を呼ぶ。その声で呼ばれると、何度も聞いたはずの自分の名前が、まるで特別なもののような気がしてくる。エースが発する一音一音の言葉の粒が、キラキラと輝いて鼓膜を揺らした。

「なまえ、オレと結婚しよう」

視界が歪む。その理由なんて分かっていて、ボロボロと溢れ出す涙を拭おうともせず何度も何度も頷いた。見慣れたリビング、テレビの横の置き時計の秒針の音、窓の向こうの街灯の明かり。そのすべてが、まるで初めて出会う景色みたいに記憶に刻まれていく。





きみとなら、こわくない


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