外から聞こえてきた楽しげな声に、文字の列を追っていた視線を上げる。
目の前の窓から、そっと眼下の中庭を覗き込む。そこでは、カリム先輩が弟や妹たちと無邪気に走り回っていた。
「……お兄ちゃんの顔してる」
その微笑ましい光景に、ふっと笑みが零れてしまう。
学園を卒業し、カリム先輩のお屋敷でお世話になり始めてから、もうすぐ三ヶ月が経とうとしている。最初は緊張していたここでの暮らしもいつの間にか慣れてきて、カリム先輩が側にいなくたって、お屋敷の中をひとりでウロウロするくらい平気になってきた。
本の続きを読もうと、再び視線を落とす。視界の端にちらりと映った金の栞が、日の光を反射してキラリと輝く。
この栞はカリム先輩と付き合ってから初めて貰ったプレゼントだった。施された緻密な細工を、そっと指でなぞる。
「何してるんだ?」
「ひゃっ!」
「悪い、驚かせたか」
突然降ってきた声に肩が跳ね上がる。ばくばくと鼓動する心臓を押さえながら振り返ると、さっきまで外にいたはずのカリム先輩が私の手元を覗き込んでいた。
「カリム先輩……い、いつから」
「なまえがこっちを見てた気がしたから、魔法の絨毯に乗ってそこから入って来たんだ」
そう言って指差したのはバルコニーへと続く大きな窓だった。確かにさっきまで閉まっていたはずの窓は大きく開け放たれ、吹き込んできた心地のよい風が、窓際に置かれた観葉植物の葉をゆらゆらと揺らしている。
「また本を読んでたのかー。今はどんな話を読んでいるんだ?」
「あ、えっと、世界の終わりに立ち向かう恋人たちの話です」
「へえー、面白そうだけど、オレは本読むと眠くなるからなー!」
頭の後ろで手を組みながらソファに座り込んだカリム先輩が「読み終わったら、また感想を聞かせてくれ」と、私を見ながら笑う。その明るい笑顔に、こくんと頷く。
愛があるから生きていけるのか、愛のせいで死ねないのか。
さっきまで私がこの本を読みながら考えていたのは、そんなことだった。恋人のために世界を救おうと立ち向かうのは、とても素敵な愛の話だけど、ふたりが出会いさえしなければ、背負わなくてもいい使命でもあったのだ。
そんな話をカリム先輩にすれば、「好きなやつを守れるなら、それが一番だろ?」と眩しいくらいの笑顔で言うのだろう。それくらい簡単に想像できる。
「なあ、少しこっちで休まないか?」
「私はいいですけど、弟さんや妹さんは?」
「ああ、本当は少し遊ぶだけのつもりだったんだけど、なかなか離してもらえなくてさ。でも、なまえのとこに行くっていたら、すぐに納得してくれた。ほんと、懐かれてるよな」
その言葉に気付かれないように、そっと唇を噛む。
確かにこの屋敷にやって来てから、カリム先輩の弟も妹もすぐに心を許してくれた。ご両親も使用人の人たちも、みんな私に優しくしてくれる。だけど、それでもときどき言外に滲む圧のようなものを感じることがある。
私はあくまでカリム先輩の恋人だ。そんな恋人が屋敷に住まわされて、日がな一日、物語の世界に耽っている。扱いにくいからさっさと結婚、せめて婚約くらいして欲しいと思われているのは分かっている。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
心の中に浮かんだ靄を振り払うように、カリム先輩から貰った栞を挟んだ本を閉じる。
無邪気な笑顔を浮かべて、飛び込むようにカリム先輩のもとへ行けば、その腕が私を迎えてくれた。体温の高いカリム先輩。その胸に頬を擦り付ければ、大きな手のひらが私の頭を撫でる。
ああ、初めて私がカリム先輩に助けを求めた日も、彼はこんなふうに頭を撫でてくれたのだった。
あれはこの世界にやって来てから数ヶ月が経った頃で、慣れない異世界での生活や次々と起こるいざこざに、不安と寂しさに押し潰され、学園裏の林でひとり泣いてしまったのだった。そこにやって来たカリム先輩が私に声をかけ、私は泣きながら助けを乞うた。
──助けて欲しい。
──この世界で生きていく私をひとりにしてないで欲しい。
そんな私に、カリム先輩は溢れるような笑顔で「安心しろ、オレが守ってやる」と誓った。
それが私たちの関係の始まりで、庇護されるだけの私の誕生だった。
「また新しい本でも買いに行くか」
「この間、たくさん買ってもらったばっかりですよ」
「じゃあ、服は?菓子も買おう」
「それもたくさんあります」
ふふふっと笑って顔を上げれば、真っ赤な瞳もまた私を見下ろしていた。
太陽みたいだと思う。私は、カリム先輩と出会って初めて、太陽を信仰する気持ちが分かった気がする。
学園を卒業してもまだ「先輩」という呼び方が抜けないことも、一生を添い遂げる覚悟が決まらないことも、カリム先輩はゆっくり私のペースでいいと言ってくれている。
ジャミル先輩に相談しても、「カリムがいいと言うんだから、気にしなくていい」と言ってくれた。
もうこの世界に来て四年以上が経とうとしている。そろそろ元の世界へ未練を残すことも潮時で、この世界で生きていくことを覚悟しないといけないのは分かっている。
それでもまだ迷っている私は、怖がっているのだろうか。
「元の世界で読んだ本に、昼しかない世界の話があったんです」
「へえ、どんな話なんだ?」
私を抱きしめる腕の力を緩めたカリム先輩が続きを促した。
小さく息を吐いてから、そっとその太陽みたいな瞳から目をそらして、燦々とした日の光に充ちた窓の外を眺める。
「そこは六つの太陽に囲まれた常昼の惑星で、そこで暮らす人々は夜を知らないんです。だけど、突然日食がやってきて、初めて体験する夜に絶望した人々は、光を求めて街に火を放つ」
「うわ、ただの日食ならすぐに夜は明けるだろ?」
「でも、知らないから。ずっと光の中で生きてきた人たちには、夜の暗闇は正気でいられないくらいに怖かったんです」
光しかない世界。私がカリム先輩の隣で生きるのは、そんな場所なのだろうと思う。
光しかない世界で、すべてから守られながら、夜も暗闇も知らずに生きていくのだ。だって、私は願ってしまったから。私が、この人に太陽であることを強いてしまったから。そうして、私はもう、その光の中でしか生きていけない。
「もしも太陽がなくなったら、私もきっと、火を放つ」
その言葉に込めた呪いのような響きに、カリム先輩は生涯気づくことはないだろう。私がかけてしまった依存のような呪い。
それがいつかこの太陽を陰らしてしまうんじゃないか。光しか見えないことも、光であり続けることも、それはとても歪に違いなくて、私はただそれを怖がっている。
世界がふたつでできてる理由
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