頬を撫でる風は夜なのにいやに生ぬるくて、航海士ではない私にさえはっきりとわかるくらい夏島が近づいていた。明日のお昼頃には島に上陸しているかもしれない。今度はどんな島だろう。
わけもわからぬまま麦わら帽子の似合うこの船の船長の手をつかみ、海賊なんて縁もゆかりもないとばかり思っていた肩書きを背負うようになった。それから、これが一体何番目の島であるかさえ私は忘れている。

思えば、何度となく死を覚悟したし、それさえ忘れてしまうような奇跡も見てきた。かつては素敵な恋人とあたたかい家庭を持つのが夢です、なんて平凡な未来を描いていたなんて笑ってしまう。なんたって私の素敵な恋人は政府も一目置くような海賊ルーキーなんだから。

あの手を掴んだ瞬間から私は平穏を捨て去った。この手を引かれた瞬間から私は安寧を投げふった。改めて自分の手のひらを見つめていると、自然と笑みがこぼれてくる。私は今とっても幸せで、どうしようもなく空虚だ。

「なにしてんだ?」
「びっくりした。まだ起きてたの?」
「なんか眠れねえんだ」
「でも、寝といたほうがいいよ。明日はきっと新しい島に着くから」

新しい島!っと楽しそうに笑うルフィを見て、私もつられて目を細める。じわじわと広がる心の暖かさは疑いようもなく彼への愛情だ。

明日から始まるであろう冒険に希望を膨らませるルフィの隣では黒い黒い夜の海が穏やかに波立って波紋を広げる。少しだけ、ほんとうに少しだけ、落ちてしまいたいと思う。ルフィは私を助けられないから、きっと酷く慌てるだろう。みんなを叩き起こして、たぶん私はその中の誰かによって助けられてしまう。ちょっとした逃避行だ。
死にたいわけでもなければ、ルフィが嫌いなわけでもない。ただ与えられすぎてると思うだけ。

「私ね、夏の海はあんまり好きじゃない」
「そうか?」
「ルフィは海なら何でもいいって人でしょ。夏は嫌だけど、冬の海ってとっても綺麗で大好き」
「そういう割りにはあんま冬は海を見てねえよな」
「……珍しい、気づいてたんだ。冬の海は綺麗だけど、怖くなるから見たくはないの」

まるで太陽を閉じ込めているみたいだから、と続きの言葉を飲み込んだ。
優しさとかぬくもりとか、この手には持ちきれないものが溢れて、ぼとりぼとりと海の中に沈んでいくところを想像する。私はそのひとつひとつをもう一度つかもうと手を伸ばして、気がつけば同じように海へと沈んでる。凍てつく冬の海は冷たくて、すっと意識が遠くなる。彼と私を隔てる海底で、私はゆっくりと呼吸の仕方を忘れていって、最期は溶けてしまいたい。

「ルフィはいつだってあたたかいね」

生ぬるい夏の海に背を向けて微笑めば、不思議そうに何かあったかなんて聞いてくる。ごめんなさい。何もないの。何もないのに、私はあなたから離れたいと願ってしまっている。そのぬくもりを失う前に、何処かずっと遠くへと。

最近、朝起きたときとか、空がすごく高い日とかにルフィは私を置いていく人なんだろうなって、考えてしまう。かの海賊の王者はすべてをこの世の果てにと置きやってひとり逝ってしまったから、ルフィが海賊王になる人なんだって信じれば信じるほど、彼との幸せを思い描けなくなる。原子が分子になりたくてさ迷うように、私の今の幸せはいつかの絶望を探してさ迷っているに違いない。

「なんだか眠くなってきちゃった」

彼の手を引いて船の中へと戻る。さわさわと波の音は心地よく、けれどじっとりと脳内に張り付く。
掌から伝わる彼の体温をあとどれくらい覚えていられるだろうか。私たちはきっと同じ温度でお別れなんてできない。
そうと知りながら彼を愛していられるほどの勇気なんか持ち合わせていない。けれど、そう簡単に彼を嫌いになれるほどの生半可な愛情でもない。ぐずぐずと渦巻く臆病で脆い好きの二文字は私をがんじがらめに取り巻く。

ああ、だけど。もしも、明日たどり着くのが冬の島であったなら、私はあなたをおいて海底へと身を投げていたでしょう。









しあわせはもっと綺麗なものだと思ってた


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