はじまりは小さな砂糖菓子だった。

彼の身の回りの世話をする女中として雇われ働いている以上、時折フーズ・フー様と話をする機会はあった。それは私に限らず他の女中にも言えたことであるはずだけど、彼から何か施しを与えられたことなどないはずだ。だから、どうして私だけが彼からそれを与えられるのか分からないまま、断る勇気もなく受け取った。
渡すだけ渡して去っていくフーズ・フー様の後ろ姿も、手のひらに残された小さな砂糖菓子の詰め込まれた袋の所在なさげな様子もはっきりと覚えている。

次は外海の焼き菓子、その次は飴細工などと続き、流石に見るからに高価な簪を与えられた時は、とても受け取れないと首を振ったけど、「あ?」と煙草を噛んだフーズ・フー様に気圧されるがままに結局それも貰うこととなってしまった。

だけど、その簪をつけている時、彼はいつもより少しだけ機嫌がよかった。顔を合わせることは毎日のようにあっても、忙しい身の上の彼と言葉を交わさぬ日は往々にしてあるのに、この簪をつけている日は決まって彼は私を呼び止めた。まるで、自分の飼い猫だとでも見せつけるように。

そこでハタと気がついた。それと同じなのだ。彼はただ、この退屈な国で無聊を慰めるために、目の前を必死に動き回るひ弱な生き物を手懐けてみたくなっただけにすぎない。

女中たちに与えられた部屋に不用心に置かれた漆塗りに螺鈿細工の施された小箱。それが彼からの贈り物だと知って触れようとする女中などいない。そして、私に必要以上に関わろうとする者もいなくなった。
彼から貰った小箱に彼から贈られた物を詰め込めば詰め込むほど、私が元々に持っていたものを捨てなければいけなくて、与えられた分だけ孤独なっていく気がした。

これは決して、寵愛などではなかった。ただ一時の戯れにすぎず、飽きればぽいと捨てられる。いや、捨てられるというのもまた違う。彼は最初から私を所有してさえくれていないのだから。
一方的に物を与えて、おそらく彼は何をあげたのかさえ正確には覚えていないだろう。私だけがとらわれている。両手いっぱいに彼からの施しを受けて、その重みで一歩も動けなくなっている。
だから、どうしようもなく虚しくなった。そして、少しだけ足掻いてみたくなったのかもしれない。







夕餉の食器を片しに来くると、盆に触れる間すら与えられずにフーズ・フー様に呼び止められた。そうして仕事を放棄した私に対して、他の女中たちは文句の一つどころか、一瞥すらすることなく私の分の仕事までやり遂げて部屋を出ていく。

そんな彼女たちを横目に見送って、フーズ・フー様の前でやや俯きながら静かに息を吐き出した。別に虐められたり、邪険にされたりしているわけではない。ただ、無闇に関わりたくないと思われているだけ。私だってきっと、逆の立場であれば同じことをしている。

「……御用は何でしょう?」
「次は何が欲しい」

女中たちが全員引き上げ二人きりになった部屋は静かで、少し離れたところから聞こえてくる宴のような晩餐の声だけが虚しく響いている。
フーズ・フー様はいよいよ自分で考えるのが面倒になったのか、ここ最近は欲しいものを直接聞いてくるようになった。断るという選択肢が与えられていない以上、無難に菓子や外海の小物や書物をねだってはいた。
ちらり、とフーズ・フー様の顔を窺って、表情の読めない仮面をしばらく見つめてから、小さく口を開く。

「仏の御石の鉢が欲しいです」
「……なんだそれ」

フーズ・フー様は怪訝そうに口を曲げる。その口に咥えられた煙草から立ち上る紫煙。

「次は蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、竜の頸の珠、燕の子安貝」
「だから、なんなんだよそりゃ」
「この国の古い御伽草子のひとつです」

そう答えれば彼はそれ以上何も言わず、代わりにもっと説明をしろと命じられているのが言外に伝わったので、その古い物語のあらすじを簡単に話してみせた。

竹から生まれた姫が麗しく成長し、噂を聞き付けた五人の男が彼女に求婚をした際に、結婚の条件として提示した五つの宝物ほうもつ
そこまで話したところで納得したようにフーズ・フー様の口から、ふうっと吐き出された煙が天井に向かって消えた。

「で、その中の誰がその女を手に入れんだ」
「誰も手に入れられません。そして、そのうち一人は死にます」
「縁起でもねェもん欲しがんじゃねェ」

仮面に覆われて彼の瞳なんて見えないはずなのに睨まれたような気がして思わずたじろぐ。
ぎゅっ、と両手を重ね合わせるように握ると、かさついた手の甲の感触に急に冷ややかな気持ちになった。こんな物語の中の姫の真似事などしながら、現実の私は水仕事に荒れた手の女中にすぎない。

──天女と人間。
おそらくそれと同じだけの距離に隔てられるほど、私たちは住む世界が違う。これに気を害して構われなくなっても、いっそ殺されても、それでいいと思った。怖いのは、今よりもっと深みに嵌ることだった。

毎晩寝る前に小箱の蓋を開けて中身を確認するたびに、髪を結いながら今日は彼と話せるかと考えるたびに、ただ怖くなった。
そして、夢を見るようになった。
夢の中のこの国は見るも耐えないほどに廃れ、荒野と化し、私は一人でそこを彷徨い歩いている。小箱を両手に持ったまま、彼を探し続けて、ふと気づくのだ。そうだ、彼は私のことなど忘れて行ってしまったのだった、と。

そこでいつも目が覚める。あれはきっと、いつか来る私の未来なのだろう。だから、そうなる前に離れなければいけない。

「それで、結局そのまま終わりか」
「……いえ、一人だけ。姫と文を交わし続けた帝だけが、最後に彼女から不死の薬と和歌を送られるんです」

あれが愛であったのかは分からないけど、そうなのだとしたら、何を思って人の世を離れ現身うつしみを忘れる間際になって、好いた男にそんなものを送ったのだろう。
それとも、だからこそ送ることしかできなかったのかもしれない。自分が置いていかなければならないものを、彼が永遠に持っていてくれると、そんな夢を見たかったのかもしれない。

「何呆けてんだ」
「……フーズ・フー様」

クイッとその長い指に顎を持ち上げられて息をのむ。高鳴る心臓が恐怖なのか、それとも別の感情によるものなのか分からないまま、大きすぎる脈拍に呼吸もままならない。

「それら全部をくれてやったら、お前は不死の薬とやらをくれんのか」
「……欲しいんですか?」
「いや」

そのまま言葉の続きを待っていると、急に咥えていた煙草の煙を吹きかけられて、煙さに顔を顰める。
いきなりなんてことをするのだと、声には出せない非難を込めて見つめ返せば、フーズ・フー様は何故か愉快そうに口の端を上げて笑う。

「まァ、そんなもんがあれば、お前に飲ませておれも飲んでやるくらいは悪くないかもな」

それだけ言うと、さらに上機嫌そうにフーズ・フー様は部屋を出ていった。
残された私は訳も分からず床にへたれこみ、ぼんやりと彼の言葉を反芻するけど、彼の残していった煙みたいにその意図は掴むことが出来ず、水に沈むように翳って見えなくなる。
ああ、と嘆息して見上げた窓越しの夜空には黄金色の満月が浮かんでいる。




蹂躙を伴わない征服


back : top