頬を打つように冷たい風が吹き付け、眼前の海には岩礁にぶつかる荒々しい白波が大きな音を響かせている。あまりの寒さに唇の隙間から漏れだした呼気が、白く凝結して夜気へと消えていった。
それを追うように顔を上げる。海の猛々しさとは反対に夜空は静謐を守り、降り注ぐ雪の粒を青白い弓張月が照らし出している。

まるで別の世界のようだ。申し訳程度に持ってきた羽織を胸の前で手繰り寄せ、睨みつけるように海を見つめた。
しだいに寒さにも慣れてきたのか、あるいは感覚が麻痺してきたのか、凍てつく手の感覚が先よりもマシになったような気がしてくる。それに伴い、波が引くように意識も連れていかれそうになる。

ここ数日まともに寝ていないせいで、身体は今すぐにでも睡眠を、と切に訴えているのに、頑なな心の奥の私がそれは嫌だと駄々をこねる。だって、眠ってしまえば孤独な夢が待っていて、その先には空虚な目覚めがやってくるのだ。

「こんな時間まで仕事か?」

その声は鮮やかな唐紅の色だった。
こんなにも白と黒しかない世界でも、この人の声にこんなにも色を持たせてしまうことが悔しい。
振り返れば、呆れたようにも、愉快そうにも見える口元がゆるやかな弧を描いていた。私が夜間着なことには気づいているはずだから、わざと揶揄しているのだろう。

「……眠れなくて」
「そんな格好でこんな寒ィとこに来たら余計に眠れなくなんだろ」

どうしてこんなところにフーズ・フー様がいるのだろうと思いながらその顔を見上げていると、面倒くさそうに溜め息を吐き出してから私の隣にその長い足が移動した。
彼に遮られて、冷たく吹き付けていた風が少しだけ和ぐ。ああ、風避けになってくれたのだ、と理解すると、寒さと眠気で制御が効かなくなりつつある心の奥の理性が急に苛立ち始めた。

私がこんなにも不安定な崖の淵に立たねばならぬのは、そもそもこの人に不要な興味を抱かれてしまったせいなのだ。道端の猫に餌をやるような気軽さで、あれやこれやと渡して寄こし、かといって妾として夜伽に呼ぶわけでもない。
そうやってひどく中途半端に扱われているせいで、私はどんどん女中たちの間で孤立していった。私たちに宛てがわれた部屋で私の隣に座ろうとするものなど今や誰もおらず、腫れ物に触れるかのように恐る恐る仕事を割り振られている。思えばもう久しくフーズ・フー様意外と言葉を返してさえいない。

そんなことを思い返していたら今度は悲しみに近い感情がせり上がってきて、涙を堪える代わりにぎゅっと唇を噛み締めた。

「……抱き上げてください」
「あ?」

どうしてそんなことを言ったのかは意識がぼやけすぎて分からない。彼をもっと呆れさせてみたかったのかもしれないし、ここが現世うつりよなのか幽世かくりよなのか確かめてみたかったのかもしれない。
もしかしたら私はとっくに冷たい雪の上で眠ってしまっていて、ここは私の作りだした都合のいい世界なのかもしれないから。

しばらく何も言わずにこちらを見ていたフーズ・フー様が、持っていた煙草を地面に落としてその小さな火を踏み消した。そして軽々と私を抱き上げる。
視界が急に広がって、水平線が少しだけ遠のいた。抱えられたままフーズ・フー様の胸に身体を寄せれば、この人にも体温があるのだということが確かめられた。

こんなことが現実に起こるはずもないから、やはりここは夢の世界なのだろう。孤独な夢に耐えきれなくなった私はついに、その手で掬いあげてもらえる夢を作り上げてしまった。

「ふふふ、温かいですねぇ」
「……眠れねェなんて言いながら、今にも寝そうじゃねェか」
「眠れないんじゃなくて、寝たくないって意味です」

冷えきっていた身体にじんわりとフーズ・フー様の体温が染み込んでくる。この人にも体温があることが、当たり前なのに、どうしようもなく不思議だった。

「何かあったのか」
「寝たら夢を見るから」
「夢? 」
「ひとりぼっちの荒野の夢」

もっとその温もりを知りたくてその首元に擦り寄るように頬を寄せる。視線の先で舞い落ちた雪がフーズ・フー様の肌に触れ、溶けて消えた。

今、私たちはこうして体温を重ねている。だけど決して、思いは重なり合わない。たとえもし、私が衝動に任せて彼の唇に触れたとしても、それは接吻ではない。一人と一人が同じ場所にいれば、必ずしも二人になれるわけではないのだ。

「こうしてると随分素直なもんだな」
「だって、ここは夢だから。私の夢の中の貴方に私が何をしてもいいでしょう」

身体が温まるにつれて、逃れようのないほどの睡魔に襲われる。ぼんやりとフーズ・フー様を見つめると、彼の仮面の瞳が大きな満月のように見えた。夜空に浮かぶ青白い月よりも、目の前にありながらずっと遠い場所。そして、そこは私の帰る場所ではない。

波の音に吸い寄せられるように海を見つめる。またひとつ、大きな波が闇夜に潜む多くを飲み込んで、その冷たく暗い海底うなぞこに引きずり込む。そこは、彼の手の及ばない唯一の場所。

「もしも、いつか私が貴方のものになる日が来たら、私はその前にこの海に身を投げるんでしょうね」
「……冷てェぞ」

彼がどんな表情でそう言ったのかは分からなかった。相変わらずそこに浮かんでいるのは丸いお月様で、その奥底を覗き見ることは出来ない。

今ここで彼を突き飛ばして、この腕から零れ落ちるように荒れ狂う海に落ちるところを想像する。一瞬、刺すような海水の冷たさが全身を襲い、肺から酸素をすべて吐き出しては苦しみに藻掻くのだろう。海の上のかすかな月の光はすぐに見えなくなり、まとわりつくのは暗い本物の闇だけ。

「……そうですね。だけど、貴方に溺れるよりは、きっと苦しくない」

その時にはもう、ほとんど意識は保てていなかった。言ったつもりの言葉が本当に声になったかも確かではない。目を閉じていたせいで、彼がどんな反応を見せたかも窺い知れない。
限界を迎えつつあった身体が、意固地な心を強制的に眠りの深淵へと連行してくる。遠のく意識の片隅で彼が私の名を呼んだような気がしたけど、その声があまりにも優しかったのは何故だろう。






声にできない思いを吐いた


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