窓を開けると吹き込んだ風が甘いお菓子の香りを運んでくる。思っていたよりも強い風に靡いた髪をそっと手で押さえると、ふと隣から視線を感じた。それが気になって顔を上げれば、クラッカーさんの瞳が訝しげに細められている。

「……そんなものつけていたか?」
「ああ、この間あけてみたんです。片方だけですけど」

何のことだろうとしばらく考えてから、その視線がやけに私の耳へと向けられていたことで、つい最近あけたばかりのピアスのことだと気がつく。

「似合いますか?」

薄紫の石のついた片耳を見せつけるように、髪を掻き上げて尋ねてみるけど、返って来たのは「ふん」と鼻を鳴らす音だけだった。あまりに予想通りの反応に思わず苦笑が漏れる。
それから、すう、と深く息を吸い込む。

「私、結婚しようかなって思うんですよね」
「……今の恋人とか」
「ちょうどプロポーズされて、いい頃合いかなって」

一瞬だけ揺らいだクラッカーさんの灰紫の瞳を見つめながら、心は不思議と凪いでいる。これを告げれば、本当にすべてが終わるのだということは理解していた。始まってもいないまま、終わりだけがはっきりと輪郭を表す。

窓際のソファに腰掛けながら、そっと眼下の街を見下ろした。恋人がこの島で営む店もこの景色のどこかにあるはずだけど、ここからは見つけることは出来そうにない。

「船は降りるのか」
「いえ、そのつもりはないですよ」
「……いいのか? 相手の男はただの国民だっただろう」

きっと今も優しい笑顔でお菓子を売り続けているであろう恋人の顔を思い浮かべる。この国で生まれて、ただ普通に、幸せな家庭の中で育った人。海の外に出ることもなく、魂もきちんと納めて、その手を血で汚す必要も無い、綺麗な人。
燃えるような熱情も劣情も感じない代わりに、静かな安心を与えてくれる彼のプロポーズを思い返して、ふっと力なく笑ってみせる。

「私の、帰ってくる場所になってくれるんですって」

それを聞いた瞬間、クラッカーさんの表情が苦々しげに歪んだ。まるで聞きたくないものを聞いてしまった嫌悪のように。あるいは何かの痛みに耐えるように。

つい、そこに触れてしまいたくなった手をグッと押さえる。
クラッカーさんは私の進む意味だ。その命令ひとつでどんな戦火にも飛び込んで行けるし、その身を守る盾になることも厭わない。だけど決して、私たちは同じ場所には帰れない。

「クラッカーさんも早く奥さん貰ったらどうですかー?」
「自分が結婚するとなった途端にエラそうに……」
「ふふ、クラッカーさんの奥さんになる人はどんなお姫様ですかね」
「姫とは限らねェだろ」

興味無さそうに鼻で笑ってはいるものの、いつの日かそんな縁談がくることを分かってはいるはずだ。その顔も知らぬ彼女は、私の触れたかったこの手を取って、私の愛したこの声で愛を囁かれるのだろう。全部、私には許されない場所。それを見せつけられる日が怖くて、逃げることを決めた。

「でも、結婚したところで何の得にもならない部下の女より可能性があるでしょう?」
「……そうだな」

すう、と伸びたクラッカーさんの大きな手が私の耳に触れる。

「これは、その男にあけてもらったのか」
「いや、自分であけましたよ。彼は今度ピアスを買ってくれると言っていました」

不意にプロポーズのあと彼に言われた言葉を思い出した。「海賊は自由なものなのだろう?」と彼はいい、「僕の存在は君を縛り付けはしないかな」と心配そうに呟いた。私は肯定も否定もせず、ただ微笑んでその唇にキスをした。私がそのために彼を選ぶのだとも知らないで。

何も知らずに私を愛していると言える彼に、木綿で首を絞めるように、優しい幸福で縛りあげて欲しかった。手に入れることの出来ない愛の前で立ち尽くす私を雁字搦めに掬いあげて欲しかった。

「そっちはおれがあけてやる」

視線を向けられた、まだ穴のあいていない方の耳に自分で触れる。
どうして両耳にしなかったのか、と彼に聞かれて「意外と痛くて怖気付いたの。また今度にするわ」と答えた。あの時、その言葉に嘘はないつもりだったけど、本当はこうなることを願っていたのかもしれない。
こんなちっぽけな穴でもひとつの傷と呼んでいいのなら、その手でこの身体に刻み込んで欲しいと。

「毎朝、そこにあいた穴を見る度にお前が思い出すのはどっちだろうなァ?」
「……ずるい」

少しだけ声が湿ってしまって、慌てて景色を眺めるフリをする。遠くから聞こえる潮騒と風の運ぶ甘い香り。私を自由にするものと、縛るもの。

クラッカーさんのあけた穴の向こう側に、私は毎朝、手に入らなかった幸せな未来の夢を見るだろう。何かが違えば繋げたかもしれない手を、運命に抗えば重ねることも出来たかもしれない口付けを、何度も何度も繰り返すだろう。だけど最後はちゃんと蓋をする。優しい彼の贈ってくれる小さな石で。

クラッカーさんの手が私の髪を梳くように撫でてから離れていく。それを追うことはもう、私には出来はしない。

「おれを忘れないまま、せいぜい幸せになれ」




繰り返し繰り返し巡るだけの話


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