開かれた窓から見える都の空は夕闇が迫り、オレンジと藍の混じった雲がゆるりと流れている。
それを眺めながらお猪口を傾ける狂死郎親分さんの隣で、冷やしぜんざいの白玉をすくって口に運ぶ。甘くてもっちりとしていて、とても美味しい。こんなに美味しいものが食べられて嬉しいなと思いながら顔を上げたら、狂死郎親分さんもまたやけに柔らかい表情で私を見ていたものだから、少しだけむずがゆい気分になった。

「親分さんは生まれ変わったら何になりたいですか?」

私の言葉に「生まれ変わり?」と首を傾げた親分さんは、ややあってから愉快そうに肩を震わせて笑いだした。たぶん私がまた変なことを言い出したと思われたのだろう。

「私は、風になりたいなぁって思って」
「風?」

予想外の答えだったのか、笑いながら空になったお猪口に徳利を傾けていた手が止まる。真っ白な陶器の中で透明な波紋がゆらゆらと広がっていく。

「この間読んだ本に、星一つじゃなくて全天が君なんだって詠んでいる歌があって、それがありなら風だって許されるかなって」
「なんでまた風なんてもんに」

そのとき、窓の向こうで大きな怒鳴り声が響いた。おそらく見世の客が何か揉め事でも起こしたのだろう。親分さんが傍らに置いた刀に手を置いて様子を窺っている。だけどすぐに騒ぎは収まったようで、親分さんは何も言わずまた徳利へと手を伸ばした。だから私も話の続きを始めることにする。

「風になったら、親分さんの邪魔にならずに傍にいられるから」

ぴくりと動きを止めた親分さんの瞳に私が映った。閉じているんだか開いているんだか分かんないなと、正直たまに思っている瞳が、今は確かに見開いている。

「……おれがナマエのことを邪魔になど思うわけがないであろう」

たっぷりと空いた間はそんな言葉で取り繕うには不十分で、狂死郎親分さんだってそれは分かっているから苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「親分さんは時々、私の前で迂闊ですよね」
「……ナマエが敏いだけでござろう」

普段見ることの出来ない親分さんの表情が見えたので得意げになって笑って見せたら、親分さんは少しだけ毒を抜かれたように眉を下げた。それが私が邪魔ということに対する肯定なのかは分からないけど、別にどちらでも構わなかった。

「えー、むしろよく鈍すぎるって言われますよ。この前だってササキ様に怒られた話をしたじゃないですか」

あれはつい先日の戦場で、前方から向かい来る敵にばかり気を取られていたら背後からばっさりと剣を振り下ろされたときのことだ。幸い肩口がぱっくりいっただけで済んだけど、実をいうとこのパターンの怪我は初めてどころか数回目になるせいでササキ様に怒られたのだ。

かなりの剣幕で怒られて、しまいには気配が読めないままならクイーン様に背中に目でも付けてもらってこいとまで言われてしまった。そのせいで、その日の晩には上機嫌に工具を振り回したクイーン様が私を追いかけてくる夢を見た。
それがあまりにも怖かったので、次の日さっそく親分さんにその話をしたら、ササキ様やクイーン様の話を笑うより前に怪我の心配をしてくれた。

それが嬉しくって親分さんの瞳を覗き込んだら、その奥になにか複雑な揺らぎを見た。それがほんの少しだけ、そのまま死ねばよかったと、そう思われたからのような気がしてしまった。
もちろん、私の過剰な被害妄想である可能性の方が大きいのだけど、狂死郎親分さんは私に良くしてくれる一方で、時々その扱いに困っているようにも見えるときがあるから絶対に気のせいだと思い切ることも出来なかった。

本当にそう思われていたら悲しいなという思いがしばらく頭から離れなくて、沈み込んだ気持ちで都を歩いていたら道の先に親分さんを見つけた。いつもだったら嬉しくなってその背に向けて走り出すのだけど、その日はそんな心情だったから駆け出す足を躊躇った。
その時、私たちの背後からびゅうと風が吹き抜けて、道端の柳の木の葉を揺らせた。それに気を取られた狂死郎親分さんが空を仰いだ。その横顔が、とても綺麗だった。
だから、風になりたいなって、そう思った。

「最近よく、親分さんの良い人だって呼ばれるんです」
「そうか」

親分さんは特に珍しくもなさそうに頷いた。そうやって私のことを呼ぶのはこの郭の遊女か、親分さんの一派の人がほとんどだから、親分さんも耳にしたことはあるのだろう。私たちがそういう関係ではないことを知っていて、揶揄い混じりにそう呼ばれることは別に悪い気はしないのだ。

だけど、時おり都で向けられる愛妾の呼び名には少し困ってしまう。悪意が込められているのだろうけど、私たちは決してそんな関係にはならないから、なんかどうしようもなく冷ややかな気持ちになる。そう呼んだ誰かを見つけ出して、殺すなりなんなりしてやってもいいのだけど、たぶん、それで解決するような感情でもない。

だから、今日はそこを少しだけすっきりさせたくなった。ただそれだけのことだから、親分さんを責めているわけではない。だからなるべく、明るい響きでご機嫌に喋るように気をつける。

「まあ、確かに私は親分さんのことが大好きなんですけど」
「……あァ、おれだって」

歯切れの悪い親分さんは躊躇っているのだ。いつも私に会えて嬉しいだとか軽口を叩くけど、ここで好きだということは、もっと重たい意味を持ってしまうかもしれないから。だけど、突き放してしまって、私が二度とここを訪れなくなることも避けたがってる。それがどうしようもなく愛されてることのような気がして、場違いに嬉しくなってしまう。

どうして狂死郎親分さんにとって私が邪魔になるんだろうって考えれば考えるほど、愛されているからだという答えに辿り着いてしまった。さっき、私が敏いと言われたのを否定してしまったけど、もしかしたら色恋に関しては敏くなったのかもしれない。たくさんの恋の話を読んで、親分さんと言葉を交わして、敵の気配も読めぬまま、私たちの恋の機微だけは読めるようになってしまった。

「親分さんは私と恋仲にはならないし、私を抱くこともできない」

夕闇はすっかり夜に飲み込まれて、あのオレンジはいなくなった。夜の浅い薄藍がどこまでも広がって、星は見えない代わりに都の町に提灯の灯りがぽつりぽつりと連なっていく。見世に出る支度を始めた遊女たちの賑やかな声を聞きながら、都の夜景を見晴かしていた視線を親分さんへと向ける。そうして、出来るだけ柔らかく笑って見せた。

「子供ができたら困るから」

親分さんはもう驚いた顔はしなかった。
抱いてしまえば、少なからずそういう可能性があって、私が孕んだ子供はもっともっと親分さんを困らせるだろう。

たぶん、二律背反の思いなのだ。愛しているのと同じくらい憎んでいて、あるいは、憎いのに愛してしまった。なあなあに剣を握っている私には分からないけど、何かを志したとき、愛はその切っ先を鈍らせるのかもしれない。この世への未練が躊躇い傷ばかり残させるみたいに。

「まあ、子供が出来たら私も困るんですけどね! うちはほら、戦えなかったら居場所ないんで……あ、でもササキ様とか意外と喜びそうじゃないですか? 産まれる前から色々買い揃えてきそう」

あれもこれもいるだろうと様々なものを買い与えようとするササキ様を想像したらおかしくて、声を出して笑ってしまったけど、親分さんはまるで笑ってなんてくれなかった。
座ったまま、少し身体をずらしてその瞳を覗き込む。親分さんは泣いていない。泣くはずがない。だけどやっぱり、その瞳は泣いてるみたいに見えるのだ。

「……私、やっぱり風になりないなぁ」

だけど出来れば、生まれ変わりじゃなくて一瞬だけ身体を残して魂だけで風になれる奇跡はないだろうか。そうしたら、いつの日か本当に流れた涙を優しく吹いて乾かしてあげることもできるし、刃を振り下ろす手が震えるのなら、その背を強く吹き付けて押してあげることも出来るのに。







上手に隠してきたこと


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