「一緒に花火でも見に行きますか」

どうして自分がそんなことを言ったのか、今考えても理由は分からないのだ。
昨日は新商品の広告についての打ち合わせがあって、それに私はクラッカーさんと一緒に出席して、その打ち合わせの内容を今日中に一度見直したいなと思って、定時もすぎていたけどオフィスに残って仕事をしていた。そうしたらクラッカーさんも一緒に残ってくれて、あれやこれやと話をしているうちに気がつけば残っているのは二人きりになっていた。

そう、そしてそろそろ帰りましょうか、という話になった時に、クラッカーさんが夕食に行くかと誘ってくれて会社の近所のレストランに入った。
お互いに食べたいものを頼んで、それが届くのを待っている間になんとなく明日は休みですねという話になったのだ。仕事の話はもう散々したから、それ以外の話題がいいなと思って、とりあえず取っ掛りとして休日の話題を出した。「何か予定はあるんですか?」と私が聞いて、「特にないな」とクラッカーさんが答えて、気がついたら花火に誘っていた。
……ダメだ。順を追って思い出しても昨日の自分の思考回路が理解できない。

そんなことを考えている間に、人混みの中でも一際目立つ大きな身体を見つけた。今まで仕事の延長線上の付き合いでしかなかった相手と、こうして外で待ち合わせるというのはなんとも不思議な気持ちになる。
クラッカーさんも私を見つけていたらしく、真っ直ぐに歩み寄ってきた。

「クラッカーさん、お祭り似合いませんね」
「……祭りに似合うも似合わないもあるか」
「なんか、慣れてないなって感じが全身から」

クスクスと声を押し殺して笑ってしまえば、クラッカーさんは不愉快そうに眉をひそめた。
まあ実際、こんな小さなお祭りになんて来ることはないんだろう。私たちが勤める製菓会社は、その役員のほとんどが会長の血縁者によって構成されている同族企業だ。そしてクラッカーさんもまた、そんな会長の息子の一人なんだから。
そんなことを考えていたらクラッカーさんと目が合った。頭上で連なった提灯のあかりがゆらゆらと揺れる。

「お前は」
「え?」
「お前はよく来るのか?」

聞き返したのは人混みの喧騒や祭囃子で聞き取れなかったせいではなくて、その質問の意味がよく分からなかったからだ。よく来るのか、まで言われてやっとお祭りのことかと納得する。

「このお祭りはほとんど毎年来てますね。ここだけじゃなくて、もっと色々と他のお祭りにも行きますよ」
「祭りが好きなのか?」
「うーん、お祭りというか……花火が好きなんです」

毎年様々なお祭りに行くけれど、出店などのイベント事を楽しみにしているのではなくて、ただ花火を見に行っている。だからお祭りが好き、というよりは花火が好きという方がしっくりくる。

「いいですよね、真っ暗な空が明るくなって、ずっと見てられる」

目の前を行き交う人々の群れ。その手には屋台で買ったのだろうりんご飴や綿あめを持って、楽しそうに隣の誰かと笑いあっている。そんな光景を眺めてから、クラッカーさんに視線を向けた。

「それなのに、永遠じゃないんです」

少しポエムじみていたかな、と言ってから照れくさくなったけれど、クラッカーさんは笑いも揶揄いもしなかった。隣に立つとその大きさがよく分かる長身から、ただじっと見下ろされるとどことなく気まずくて、誤魔化すようにへらりと笑ってしまう。

「それより本当によかったんですか?」
「何がだ?」
「誘っておいてなんですけど、こんな小さなお祭りで上がる花火なんで本当にたいしたものじゃないですよ」

十五分ほどの時間しか打ち上がらないような花火で、わざわざ休日に出てきてもらうようなものではないと、昨日も繰り返したことをもう一度念を押す。

「散々構わないと言ったはずだぞ。どうせ予定もなかったんだ」
「クラッカーさんのお家で上がるのと同じような規模で考えられてたら悪いなって思ってるんですよ」
「うちをなんだと思っているんだ」
「えー、クラッカーさんのお家なら誕生日とかでも花火上がりそうだなって」

冗談のつもりだったけれど黙ってしまったところを見るに、どうやら本当に打ち上げているらしい。世界に名だたるお菓子メーカーのご子息は住む世界が違うなと舌を巻いていると、クラッカーさんとパチリと目が合う。

「海は」
「え……?」
「海は好きか」

花火から突然の海の話題。突拍子もない質問に面食らって戸惑いながら、何故かやけに真剣そうな面持ちのクラッカーさんになんと答えるべきか悩む。正確には答えは決まっているのだけど、それを伝えるべき言葉に迷っていた。

「あまり、というか全然好きじゃないですかね。海、怖いんです。暗くて、冷たくて、とても寂しいから」

海が怖いなんて変に思われるだろうか。だけど、好きでもないものを好きだと嘯いたところで、ろくなことにならないのは分かりきっている。
並んで伸びた私たち二人の影はじっと止まったまま、流れるように形を変える多くの影に飲まれては再び姿を現すことを繰り返す。

「泳げなかったか?」
「いや、溺れたことがあるわけでもないし、カナヅチというわけでもないんですけど、昔から怖くて仕方ないんですよね」

記憶にある限り最も古い海の記憶は、まだ小学校に上がったばかりの頃の家族旅行だった。父親が私を抱きかかえて海に入ろうとすると、それはそれは恐ろしい剣幕で泣き叫んだという。普段は比較的穏やかで、そこまで声を上げて泣くことのなかった私が大声で泣き喚くものだから、両親はひどく狼狽したらしい。今でも折に触れてその話題が出ることがある。

「母はよく、前世で何かあったんじゃないかって笑うんです。私が海に沈んだとか、大切な人を海に連れ去られたとか。だから、こんなに本能的に怖がってるんだって」

笑い話のつもりで口にしたけれど、クラッカーさんの反応はなく、むしろその顔はどこか翳ったようにも見えた。私の視線を避けるようにクラッカーさんが空を仰ぐ。それにつられるようにして、私もまた空に目を向けた。
群青を何重にも塗りたくったような夜空には月も星もない。他の光とぶつかり合う必要のない今夜はきっと、綺麗な花が見られるだろう。

「暗くて冷たい場所が怖いなら、こんな夜の空も怖いんじゃないのか」

空に跳ね返ったクラッカーさんの声が降り注いでくるような錯覚。そうか、この空も冷たいのか。今になってそのことにやっと思い至った気がして、じいっと夜の空、その向こうまで見透かそうと目を凝らす。
暗い闇、沈めば沈むほどその色は濃くなり、最後には自分の輪郭すらも覚束無くなる。
その闇の中で何かを掴みそうになった時、ぐらりと身体がバランスを崩す。まるで足元の地面が抜けてしまったみたいに倒れ込みそうになったとき、クラッカーさんの大きな手が私の腕を掴んだ。
それと同時に夜の空に大きな花火が打ち上がる。

「……きれい」

身体を起こしながら、もう一度空を見上げる。するすると上った一本の光が、空高くで弾けて幾重にも飛び散る。私たちと同じように空を見上げる人々の歓声が、まるで潮騒のように一面に広がっていく。遅れて響いた破裂音と共に、さっきまで心の中にひしめいていた沈みゆく恐怖も解けて溶けてゆく。
仄かな灯りを孕んだ夜の闇はもう怖くなどなかった。そうだ、だから私は花火が好きなんだ。

「オイ」
「……あ、すみません! ありがとうございました」

クラッカーさんの声で我に返る。転びかけたところを助けて貰ったまま、すっかり花火に見蕩れてしまっていたらしい。クラッカーさんの腕はまだ私の手を掴んだままで、少しだけ困ったように片目だけが細められていた。
フンと鼻を鳴らしながらクラッカーさんの手が離れていく。腕に残るクラッカーさんの体温が、肌に沁みて馴染んでいく。こうしてまともに意識したのは初めてのはずのクラッカーさんの体温が、何故だかひどく懐かしいもののように思えた。

「次はお前がおれの予定に付き合え」
「クラッカーさんの?」
「あァ」

手繰り寄せようとしていた掴まれた腕の既視感が散るように消えていく。クラッカーさんの予定が何なのか知りたかったけれど、次々に打ち上がる花火に目を奪われて聞くタイミングを逃してしまった。










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