クラッカーさんの言っていた「次」がやってきたのは、あれから二週間が経ってからだった。週末にとある港町への出張が決まり、その次の日はそのままどこか観光でもして帰ろうかな、なんて考えていたらクラッカーさんに声をかけられた。
そして私は何故か今、海の上を進む船の中にいる。

「私、海が怖いって言いましたよね?」
「あァ、言っていたな。船酔いはしないかと聞いたぞ」
「ええ、聞かれましたよ! でもまさか船に乗せられるなんて思わないじゃないですか」

仕事が終わるなり港へと連れられて、そこに停泊する船にほとんど引きずられるようにして乗せられた。それがクラッカーさんの家の個人所有のクルーザーだということには今更驚きはしない。
取り乱すほど怖いというわけではないし、カーテンが閉められた室内はあまり海の上にいるという感覚がしないので比較的落ち着いていられるけれど、さすがに目の前のクラッカーさんのように優雅に紅茶を飲む気にはならない。

「それ、クラッカーさんが焼いたやつですか」
「あァ、好きに食べていいぞ」
「……あとで頂きます」

テーブルの上のお皿に並べられた様々な形に象られたビスケット。その仕事柄なのかうちの会社の社員はお菓子作りを趣味とするものが多く、いつもオフィスの片隅に誰かしらの持ってきた手作りのお菓子が「お好きにどうぞ」とメッセージを添えて置かれている。
中でも、クラッカーさんの作るビスケットは部署内外で大人気で、焼いてきてくれた日にはあっという間になくなってしまう。それが目の前にこうも並べられていたら、食欲はなくても放っておくのは勿体なく思ってしまう。

「クラッカーさんの作るビスケットは本当に美味しいですよね」
「職人カタギでな。ついこだわって作ってしまうんだ」
「あはは、おかげで舌が肥えて仕方がないですよ」
「ナマエの作るものも十分だろう。特にガレットは美味かった」
「ああ、ガレットですね……」

そう頷こうとした首がハタと止まる。

「あれ、私ガレットなんて持って行ったことなかったですよ」
「あァ?……そうだったか?」
「はい、誰かと間違えてるんですよ。きっと」
「……そうか、そうだな」

毎日何かしらのお菓子で溢れるあのテーブルの上では誰の作ったものか分からなくなることはよくあることだ。それなのに何故か胸の奥で何かが引っかかる。ガレットブルトンヌ。あれは確か、作るのはそんなに難しくはなかったはずだ。

「だけど、せっかくだから今度焼いてみますね」
「……あァ、ナマエの作るガレットなら美味いだろうからな」

そんな大袈裟ですよ、と笑おうとした瞬間、どこかで同じようなセリフを聞いたことがある気がして戸惑う。
──お前の作るガレットが世界一美味いからな。
ガレットなんて作ったこともないはずなのに、それなら一体これは誰が誰に向けた声だったのだろう。
記憶と記憶の繋ぎ目に、手の届かない深い溝があって、そこに何かとても大切なものが沈んでいる気がする──それは──

「そろそろ時間だ。外に出るぞ」
「え!外ですか?」
「当たり前だ。わざわざ船の中でお茶に誘ったわけではない。目的地がある」

あの花火の日の夜と同じで、あと少しで掴めそうだった何かが逃げていく。
ソファから立ち上がって甲板へと出ようとしているクラッカーさんの有無を言わせぬ圧に負けて、渋々と私も重い腰を上げた。昼ならまだしも夜の海をわざわざ見ようなんて信じられない。口には出せない悪態を心の中で呟きながら、暗くて闇に飲まれそうになる海へと意を決して視線を投げたとき、思わず息を飲んだ。

「……う、わぁ」
「見事なものだろう?」

得意げに口の端を釣り上げたクラッカーさん。目の前の光景に目を奪われて声が出ない。
青白い光を帯びた海面。こうして見ているだけではまるで湖かのように思われるほど、水面に波はなく凪いでいる。だけど、風に運ばれた潮の香りが間違いなくここは海の上だと訴えてくる。

「……夜光虫、ですか?」
「あァ、今年はこれで見納めだな」
「よく来るんですか? あ、ご家族とかと?」
「……いや、確かによくここには来るが、家族は誰も連れてきたことはない」

それなら、どうして私を? そう訊きたかったけれど、踏み込みすぎた質問のような気もして躊躇う。クラッカーさんを花火に誘った私に理由がなかったみたいに、こうして私を海に連れてきたことだって意味などないのかもしれない。

「お前が、海を暗くて寂しくて怖いというから」
「え?」

そんな私の心の中を見透かしたようなクラッカーさんの言葉。うっすらと明るく照らされる水平線を見つめるその瞳は、もっと遠く、ここではないどこかを見ているようにも見えた。
船は燐光を切り裂くように進んでいく。

「光で照らされるのなら、怖くはないんだろう? 出してやることは出来なかったから、せめて光を見せてやれたらいいと」

この船の上には今は私たちしかいないのに、クラッカーさんの言葉は私に向けられた言葉ではない気がして返事が出来ない。
きっと、ここが海の上だからだ。海は太古の昔からたくさんの歴史も記憶も飲み込んできたから、時折、波に運ばれて遠い誰かの記憶が流れ着くこともあるのかもしれない。

「昔、ある船乗りには、立ち寄る港のひとつに好いた女がいたそうだ」
「え?」
「……とある国の昔話だ」

黙って聞いていろ、と言われているのだと分かって口を噤む。そんな私のことを一瞥したクラッカーさんは、また水平線へと視線を戻した。

「船乗りは訳あって、女を連れ去ることも、一緒になることも出来ない身の上だった。女は別れ際にいつも次に作る菓子の名前を告げた。それが待っているという約束のかわりだった」

滔々とさざ波のように語られる遠い異国の昔話。どこかも知らないその町の景色が自然と思い起こされる。

「しかしある日、船乗りが女の家を訪ねると、そこに女の姿はなかった。女を探し歩いた船乗りは、町の人間から、女は海に身を投げたのだと聞かされた」

あまりに悲劇的な二人の最期。果たされることのなかった二人だけの約束。

「女は何故、一人きりで海に身を投げたのか。その約束は、そこまで女を追い詰めていたというのか?」

感情の読めないクラッカーさんの横顔を見つめながら、かつて人は死んだ後に棲む星を空にみつけていたという話を思い出していた。それは空から大切な人を見守りたいからで、あるいは空を見るたびに自分のことを思い出して欲しいからだった。
それなら、船乗りを愛したその女は、たぶん。

「傍に、いたかったんじゃないですか。待っているのではなくて」
「……待つことに耐えられなくなった、ということか?」
「そうじゃなくて……ああ、そう。海に、海になりたかったんだと思います」

海に、とクラッカーさんが呟いた。その言葉が泡沫みたいに弾けて消える瞬間が光のように見えた気がした。
空の星は近いように感じても、その光が届くには何千、何万、何億という時間がかかる。船乗りを導くポラリスだって、周り傾く中でいつかは別の星へと移ろってしまう。
だけど、海なら永遠に傍にいられる。だって彼は海で生きる人なのだから。

「クラッカーさん」
「なんだ」

青い光の漂う水面。跳ねた魚が光を帯びて輝く。遥か遠い昔にも、この景色はあっただろうか。その船乗りと女も、こんなふうに並んで、光の輝く海に思いを馳せたことが──

「とっても、綺麗ですね」
「……もう、怖くはないか」
「はい、もう大丈夫」

クラッカーさんの顔を見上げて笑った時、それがどこか自分のものではないような気がした。私もまた海が孕んだ太古の面影を拾ってしまったのかもしれない。
だけど、それもすべて、この美しい夜がみせた夢であり幻なのだ。明日になれば私たちはまた、ただの職場の上司と部下で、現実に足をつけて生きていく。
だけど、少しだけ、ゆるやかに何かが変わっていくような気もした。








澪を曳く


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