静まり返った真夜中の船内。夜に恋人とふたりきりなんて傍から聞けば甘い雰囲気のようだけど、ここにあるのはどうしようもない気まずい空気だけだ。いつもサンジくんが美味しい料理を作ってくれるキッチンをどこか別の世界のように眺める。
「サンジくんはどうして浮気をするんだろう」
「ホントに悪かったよ……ただどうしてもあんな麗しいレディが目の前にきたら……」
ごにょごにょと語尾が小さくなるサンジくんの声を黙って聞く。いつもなら「そういう病気だもんね」なんて笑って許してしまえるはずなのに、今日はなぜか何も喋れなくて、静かな波の音だけがやけに大きく響く。
「サンジくんはさ、私のことが好きじゃないんだよ」
「……っ!そんなことはねえ!」
「本当はもっと沢山の女の人を愛したいんだよ」
「ナマエちゃん、おれは本当に君を」
「サンジくんは優しいから、サンジくんが好きで好きで仕方ない私を捨てられないだけなんだよ」
まるで諭すようなこの声は誰の声だろう。ふたりしかいないこの世界で、聞いたこともないような自分の声はあまりに冷たい色を孕んでいる。
キッチンを見つめていた視線をすっと戻す。私の前に座るサンジくんは、この会話をはじめる前より幾分も取り乱した表情をしている。そして、少しだけ前に身を乗り出すように座っていることに一瞬身体が怯む。私はやはり一番愛されているのだと思い直して、すべてを許して、この時間をなかったものにしてしまいたくなる。
けれど、と精一杯のつよがりで優しく笑う。
「サンジくんはどうして私だけを愛してくれないんだろう」
もう疲れてしまったのだ。こうやって自分を騙して、一途に愛を信じられる盲目になろうとすることに。一度や二度だったら簡単に治ったはずの傷が、何度も何度も同じ場所ばかり傷つけられてすっかり醜い痕を残してしまった。
ゆっくりと椅子から立ち上がる。まだ何か言いたげなサンジくんに向けて放った「おやすみなさい」の言葉は、ふたりの間を断絶するように冷たい壁を落としたようだ。
サンジくんの前から去ったその足で、私はひっそりと船を降りる。二日前から滞在しているこの島は自然が豊かで、食べ物が美味しい、小さいけれど、いい島だ。
行く宛もなく歩く森の中は何の音もしなくて、生き物がすべて死に絶えてしまったようだと思った。見上げた空は一面綺麗な星空で、その美しさがかえって苦しい。
あのひとつひとつの星はすべて違うものなはずなのに、どれも同じようにしかみえない。サンジくんにとっての私も結局はそういうものなのだろう。
女の人が大好きな彼にとって、みんなすべて輝く星のようで、私はその一つに過ぎないのだ。とびきり輝いているわけでも、とびきり美しいわけでもなく、他人から見たらただの石ころのような星。
「それがたったひとりで、どこに行こうって言うの」
この森に入って初めて呟いた言葉は、夜に吸い込まれるように消えていく。ずっと頭の中で言葉の羅列をぐるぐるとかき混ぜながら歩いてきて、もうどれくらい時間が経ったんだろう。なんだか急にひどく疲れてしまって近くの木の幹に腰を下ろす。
このまま彼の前から姿を消してしまいたい。どこかに消えてしまおうか、と思いながら自分が今なにも持っていないことに思い至る。
(ああ、でも全部、持っていっちゃいけないものだ)
あの日、サンジくんに声をかけられて、たった数日で恋をして、勢いのまま船に乗り込んだ。そのとき私はなにひとつだって持っていなくて、あの船に残した私のものはすべて彼と出会ってから手に入れたものだ。それなら、置いて行ってしまった方がいい。きっと未練を残してしまうから。
座っていると次第にうつらうつらと睡魔が襲ってくる。曖昧な思考で、船を出ていくことを考える。一方でこんな小さな島では明日の朝、私がいないことに気づいた彼らにすぐに見つかってしまうのだろうともわかっている。
このままさようならとはいかないだろう。だから明日、彼らに見つかったら素直に別れを告げよう。驚く彼らの顔を思い浮かべながら、サンジくんだけはどんな顔をするのかどうしても想像できなかった。勝手な私を怒るだろうか、責任を感じて苦しげに顔を歪めるだろうか、悲しげにその眉を下げるだろうか。
どれもこれも頭の中に浮かぶ彼の顔はなんだか違うような気がして、ハッと気づく。私はそうした彼の顔を見たことがない。だから、上手く思い描けないんだろう。なんだかその事実が、あまりに顕著にふたりの距離を思い知らせるようで涙が滲む。
「……好きになんて、ならなければよかった」
ついに限界がきたのか、ぷつりと糸が切れたように微睡みの闇の中に落ちていく。次に目が覚めたとき、どうかこの気持ちがなくなっていればいいのに。叶うとも、叶えたいとも思わない願いを引きつれて、ついに私の視界は完全に闇に沈む。
□□□
「ナマエちゃん!!」
私の名前を呼び、肩を揺すられる衝撃で目が覚める。世界はすっかり明るくて、目の前には愛しい愛しい金色が飛び込んでくる。今が夢か現実かわからなくて、何度も瞳をぱちぱちと閉じたり開いたりしていると、じんわりと肩や首の痛みが現れてくる。昨日、座ったまま眠ってしまったせいだろう。そして、この痛みが示す通り、ここは現実だ。
「……サンジくん」
「こんなところで何してるんだ」
「寝てたの」
「そういうことじゃなくて……!」
肩を掴む腕に力がこめられる。決して痛くはないけれど、サンジくんが怒っているのだということだけが、ひしひしと伝わってくる。初めて見るサンジくんが私を怒る表情は、やっぱりどうしたって愛おしいと思ってしまう。
だから、結局これ以上は一緒にいられないんだろう。
「船を降りようと思うの」
サンジくんの言葉を遮るように言葉を発して、視線をそっと彼から外す。空気だけで、彼が次に言うべき言葉を探しているのを感じる。朝を迎えた森は、すがすがしい綺麗な空気で満ちている。それが今の私たちにはひどく不釣り合いで、いっそ滑稽だ。
「知り合いはいないけど、この島の人たちはみんないい人だってサンジくんもわかっているでしょう」
「……」
「戦えない私をみんな足手まといだなんて思ったことがないのはわかってるけど、それでも、私はこういう島の方が幸せになれると思うの」
「……ナマエちゃん」
明るくなって周りの景色がよく見えるようになったことで、木々の隙間から海が見える。昨晩は随分と遠くへ来たつもりだったけど、たいして歩いてなんていなかったのか。私は結局、自分の足ではどこにだって行けないということなんだろう。
この船に乗るまで、ただの平凡な田舎の娘だった私は、当然のように戦い方なんて知らなくて、いつだって守られるだけが専門だった。人より優れた特技もなくて、私の唯一の特別はサンジくんの恋人という肩書だけだった。けれど、それも昨晩でなくしてしまった。
「私はもう、サンジくんを好きなことに疲れちゃった」
力なく笑って見せれば、びくり、とサンジくんの身体が怯む。ああ、そうか。これはあまりに率直すぎる私の本音で、出会ってから初めて口にする彼への拒絶だ。
彼のことが好きで好きでたまらない一方で、もうすでに片手間のような愛情で満足できるような少女ではなくなってしまったのだ。心のどこかにすとんとハマったその答えは、いくらか私を楽にしてくれたようで、肩の力が抜ける。
そのままサンジくんのほうを向けば、彼はひどく怯えたような表情をしていた。どうして、最後の最後になって彼のこんな色々な表情を見てしまうんだろう。忘れなければいけないものを、どうしてこんなに増やしてしまうんだろう。
「この島で、普通に幸せになりたいと思っているの」
「普通に……?」
「好きな人をみつけて、その人と恋人になって、結婚して、家族をつくって、そしてだんだん当たり前のように年をとっていく、普通の幸せ」
「……」
「サンジくんのことをすぐに忘れられるとは思わないけど、大丈夫。ちゃんといつかはちゃんと忘れて、誰かを好きになれるから」
昨日よりもずっと不格好に笑えば、ぐいっと身体が傾く。一瞬混乱しながらも、どうやら木の幹に座っていた姿勢からサンジくんに無理やり立たされたのだと理解する。そう簡単にお別れとはならないだろうと思っていたけれど、何も言われずこうして向かい合うだけというのは予想していなかった。
「サンジくん……?」
戸惑うように彼の名前を呼べば、今度はがしりと腕を掴まれ、そのままサンジくんは歩き出してしまう。腕はしっかり掴まれたままなので、引っ張られるようにして私も歩くしかない。いつもは私の歩幅に合わせて歩いてくれるのに、今日は強引に引っ張られるだけで、何度も躓いて転びそうになる。
「ねえ、待って。ちょっと、速いよ。それに、腕も痛い」
向けられた背中に懸命に声をかけても、反応はなく、歩みの速さも腕の強さも変わらない。普段のサンジくんからは考えられない乱暴なそれに、思わず涙が滲みそうになって唇を噛む。
「どこに向かってるの?サニー?……嫌よ。私はもう帰らない」
涙をこらえて発した言葉にも、何も返してくれないことに少しずつ苛立ちがたまる。潮の香りがさっきよりも強くなってきていて、このままでは本当に元通りになってしまう。だから、精一杯の力をこめて足を止めれば、思いのほか簡単にサンジくんも足を止めてくれる。振り返った彼の瞳は、静かに怒っているのが伝わってきて、思わず息を飲む。
「……私は幸せになりたいの」
「この島で、おれ以外の男とだろ?」
「そう。私はこの島で、ちゃんと誰かの特別になりたい」
「おれにとってもナマエちゃんは特別だ」
サンジくんの声で聴く特別という言葉に痛いくらいに胸が締め付けられる。
「……違うよ。サンジくんにとって私は、特別の中のひとつにすぎないでしょう。私はたったひとつの特別になりたいの」
同じ特別でも全然違うんだよ、と涙をこらえた掠れた声は彼に届いただろうか。自然とうつむいてしまった視線では、彼の足元しか見られなくてわからない。
「……え?」
そんな彼の足が動いたな、と思っているとぐらっと身体が傾いて、気づくと近くにあった大きな木に背中を押し付けられている。
「おれにこんな顔させておいて、それでもまだ特別じゃないなんて言うのかい」
見上げればすぐそこにあるサンジくんの顔は、怒っているような悲しんでいるような苦しそうな表情で、なにか言い返そうと思って口を開いたものの、音にする言葉が見つからない。
「ナマエちゃんには幸せになって欲しいんだ」
「……」
「だけど、それがおれ以外だなんて、やっぱり許せないだろ」
サンジくんの指がそっと私の頬に触れる。まるで時間が止まってしまったかのように、瞬きもできないまま、その頬の感覚を受け止める。頭の中がぐちゃぐちゃになって、何も考えられない。
「ずるいよ……私はまだこんなにサンジくんのことが好きなのにそんなこと言われたら」
彼の瞳をじっと見つめたまま涙だけがボタボタと零れ落ちていく。ずっと堪えていた涙の栓が壊れてしまったように止まらない。この涙はきっとサンジくんのことを好きな気持ちで、だからこそこんなにも枯れることを知らないのだろう。
「……私は、サンジくんのことが好きでいていいの?」
この気持ちが彼を縛る枷にならないというなら、好きでいることが彼の幸せに繋がるというなら、私はやっぱりサンジくんを好きでいたいのだと思い知る。
悲しかったのは彼が他の女の子に惹かれるからではなくて、他の女の子と自分の違いが見いだせなかったから。彼が好きで好きで、代替品にはなりたくなかったから。だけど、こうして、私が特別だと知って、それでいてまだその手を振り切れるなんて、できるはずないのだ。
「ナマエちゃんが好きだ。本当に」
「……じゃあ、全部許してあげる」
まだ涙は止まらないまま、そう言って微笑めばぎゅっと彼の腕の中に抱き寄せられる。昨夜、私を孤独に包んだ月が、太陽の光で昇っていくのを眺めながら、普通ではないとびきりの幸せを噛みしめる。
きみ以外を愛する世界なんていらない
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