雲のない空は、その蒼穹の果てしなさが羨ましいから嫌い。

甲板に出て空から目を逸らせば、聞きなれた潮騒に混じって荒い息遣いが耳に届く。音の出元を辿るように階段を上れば、すぐに見慣れた後ろ姿が見つかった。
思っていた通り筋トレ中だったその背中をじいと見つめていると、胸の奥がざわざわと落ち着きを失い始める。浮き上がる背中の隆々とした筋肉と血管。

彼の強さが、こうした努力の積み重ねによってもたらされたものだとは知っている。強さを求める姿を素直に尊敬しているし、世界一の大剣豪というその夢が叶えばいいと願っている。

だけど時々、理由もなく焦らされる。なにか取り返しのつかない瞬間を取りこぼしてしまったんじゃないかって不安になる。

「──ゾロ」

無意識に呼んでしまった名前。胸の中で渦巻いていた焦燥と憂慮が混じりあって、行き場をなくしたまま溢れ出したみたいだった。
ぴたり、と動きを止めたゾロは振り返って私を見つける。逆光に眩しそうに目を細めるその表情に、すう、と呼吸が楽になっていくのを感じた。

「なんだよ」
「さっきサンジくんからお菓子もらったの。分けてあげようかと思って」
「いらねェよ」

側まで近寄って手に持っていたクッキーの袋を見せると、「見たらわかるだろ」とでも言いたげに顔をしかめられる。そんなやりとりにクスクスと笑って、そのまま近くの壁に凭れて腰を下ろす。

再開されたトレーニング。その横顔を見ていても、もうさっきのような不安に襲われることはない。今はまだ私の声がその耳に届くことを確かめることが出来たから。
こんなふうに、理由もないまま切に迫られてゾロの名前を呼んでしまうことが今まで何度もあった。今日みたいな鍛錬中だけでなく、戦闘中や、二人が何よりも近くあるはずの情事の最中(さなか)でさえ、不安の潮流は襲い来る。その流れで溺れないように、息継ぎをするみたいにゾロの名前を呼ぶ。

「ここ、気持ちいねぇ」
「……そうか、よかったな」

クッキーを口にいれながら独りごちに呟いた言葉に、少し間を置いて返事がくる。何気ない緩やかな時の流れ。
ゾロと私が恋人という関係になってそれなりの時間が経った。はじめこそ同じ船の上での恋愛ごとなんてと思いもしたけど、付き合ってみればそれほど気になりもしなかった。

たぶん、お互いに距離の取り方が上手いのだ。依存し合うこともなく、程よく触れ合って、愛とやらを確認する。いざと言う時にまず省みるのは、この船の行く先だと互いに分かっているから。

愛っていうのは結局、それぞれの裡にあるもので、そこに相互性なんてないのかもしれない。だから一人でだってどこまでも持っていける。ゾロが私を愛しているということは微塵も疑ってはいない。離れ離れだった二年の間も、私は変わらずゾロを愛していたし、たぶん愛されてもいた。
咀嚼していたクッキーを飲み込んで、ゾロの方へと視線を向ける。陽射しに照らされた首筋を汗の粒が伝って、耳で揺れる三連のピアスがきらりと光を帯びた。

「少し寝ちゃおうかな」

返事はない。だけど瞼を瞑る間際にこちらに向けられた視線は、顔に似合わず優しさに溢れていた。本当は眠かったわけではなくて、ただ青空の広さと眩しい光を見ていたくなかったからだけど、代わりにこの愛しい瞬間を瞼の裏に焼き付けられたらいいのにと思う。どんなに離れたって、何度も繰り返し見返すことが出来るように。

私が怖がっているのはこの愛がなくなることではなくて、大きさが変わったわけではない建物が、離れることでどんどん小さくなっていくみたいに、いつかこの愛が目に見えなくなる日だから。









▼ ▼ ▼







月明かりの光に包まれた欄干を掴むと、全身が夜の空気に研ぎ澄まされていくような気がする。背後から聞こえる船内の騒がしい笑い声も賑やかな匂いも、すべてが抜け落ちていく。
ここはもう秋島の海域だ。春の夜は希望に溢れすぎているし、夏と冬は感傷的すぎる。だから、秋の夜が一番溶けるのに相応しい。

夜の海を掬うみたいに手を伸ばしたとき、一際大きな笑い声が聞こえてきて思わず笑ってしまった。
昼間に襲ってきた船から奪い取った財宝が思っていたよりもたくさん手に入ってみんなご機嫌なのだ。そしてもうすぐ新しい島にも着くから、今日はぱあっと小さな宴が開かれている。

この船に乗って、たくさんの島を見てきた。数え切れない波を越えた。笑って、泣いて、強くなった。そうやって夢の果てに向けて舵を切る。
我らが船長を必ず海賊王にするんだって、私も皆と同じだけその夢の結実を願っていて、だけど私だけがその夢の先を怖がっている。

かの海賊王、その夢の果てが大航海時代で、私たちが生きるこの瞬間。だからそう、ここはひとつの夢の終わった場所なのだ。そして、私たちが目指す夢もまたそうした時代の向こう側に続くもの。
この航海が永久(とこしえ)の夢のままでいいなんて思ってない。だけど、どうしてみんな夢の先を恐れずにいられるのだろう。

オールブルー、世界地図、海の戦士。その先に何を見ているの。そして、ゾロだってまた、まっすぐに自分の夢を歩いていく。大剣豪になるためのその道は、私の歩く道とは違うから、いつかサヨナラさえも言い忘れるような自然さで分かれ道が来てしまう気がしている。

「ゾロ」
「なんだよ?」

思いもよらない返事があって、驚いて振り返る。数歩後ろに立つゾロの姿。届けるつもりもなかった声がちゃんと届いたことにどうしていいのか分からなくなって、情けなさを誤魔化すようにへらりと笑う。

「……びっくりした」
「気づいてなかったのかよ」

呆れたと言うみたいにため息をついたゾロが、後ろから私を抱えるように立つ。潮風が遮られて、少しだけ感じていた肌寒さが和らいだ。

「珍しい。こんなとこ見られたらからかわれるよ」
「あんだけ騒いでんだ。誰も来ねェよ」
「でも、ゾロは来たじゃない」
「それはお前が出て行ったからだろ」

当たり前のことを言っただけという口調で言うものだから、なんて返したらいいのか分からなくなる。だから、夜の空気に溶けだしたあれこれが言葉の結晶となってしまう前に「そう」とだけ呟いて口を噤んだ。

「それよりこんなとこで何してんだよ。酔いを覚ますほど飲んでねェだろ」
「うーん、なんだろ、遠くまで来たなぁって思ってた」
「ハッ、ホームシックか」
「恋しくなるような故郷もないのにね」

ふふふ、と笑ってゾロの胸へと寄りかかる。背中越しに伝わる体温は私よりもずっと高い。ゾロの腕が伸びて欄干を掴んだままの私の手を搦めとる。長いこと同じ武器を握り続けて、その形に馴染むように厚くなった掌の皮をゾロの無骨な指先がなぞっていく。

「この海の果てを見たら、どうするつもり?」

固く結んだはずの唇から滑り落ちた言葉に自分でも驚く。だけど、海に零した水がもう掬い取れないのと同じで、繙かれた言葉もまた戻っては来ない。
聞こえてないはずがないけど、せめてもの足掻きみたいな気持ちで視線を闇に沈む水平線に向けて、なんてことない顔を装う。ゾロが口を開いた気配が夜の中に伝わって小さく唇を噛んだ。

「あー、ナマエが決めていいぞ」
「……え?」
「なんだよ、その顔。お前がどこかに留まりてェっていうならそれでいいし、まだどこか見てェっていうならそこまで行きゃあいい」

きょとん、と瞳をしばたかせる私を怪訝そうにゾロが見下ろす。一つ一つその言葉を丁寧に反芻し、それでもやっぱり飲み込みきれないまま首を傾げる。

「……それって、私が一人でって話?」
「ア? なんでだよ、おれもそこにいるに決まってんだろ。まァ、どこにいても追われる身には変わんねェだろうけどな」

にやり、と片方の口の端を上げてゾロが笑う。その笑顔を見つめながら「決まってる」と心の中で繰り返した。ざわざわと騒がしかった潮騒が、静かに凪いでゆく。

「……そういうのって、願ってもいいんだ」
「願い? なんだよ、そりゃ」
「ううん、なんでもない」

小さく首を振ってから身体を捻って、今度は正面からゾロの胸へと飛び込んだ。夢の果ての明るい明日。夢の先の夢。私たちの永久。

「ねぇ、ゾロ」
「なんだよ」
「呼んだだけだよ」

強く抱きついているせいで少しだけくぐもった声もちゃんと届いた。不安の波は今はもうなくて、安心とは違う嬉しさがひたひたと胸の中を満たしてあたたかくなる。
今夜、きっと私は夢を見るだろう。サヨナラも言えずに分かれた道がその先で再び繋がって、「久しぶり」も言う必要もないくらいの自然さでゆっくりと手を繋ぐ未来の夢を。








まっすぐな足どりで


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