開いた窓から潮の匂いを含んだ風が流れ込んで、彼の髪を揺らした。それが、船の上に立って去っていくあの姿と重なる。こうして一緒にいる時ですら別れのことを考えなくてはいけないことが嫌で、立ち上がってバタンと力強く窓を閉めた。
響いた音の大きさに驚いたのか、クラッカーさんは少しだけ見開いた瞳で私の方を見つめた。彼の手に持つカップの中の琥珀色の液体がゆらゆらと波打って、それすらも私を苛立たせるには事足りてしまう。

「クラッカーさんは、どうして私を連れて帰ってくれないの」

ぎゅっと唇を噛み締めて絞り出した声に、クラッカーさんはわずかに眉根を寄せて、それからゆっくりと口を開いた。そこから紡がれる言葉は聞くまでもなく分かっている。もう何度も繰り返した質問への変わることない同じ答え。

「いつも言っているだろう。色々と、準備があるんだ」
「私がどこかのお姫様じゃなくて、海賊でもなくて、美味しいお菓子が作れるわけでもない、ただの平凡な女だからビッグ・マムは私を許してくれないの?」
「……それは、ちがう」

ほんの少しだけ躊躇ったクラッカーさんの言葉は、嘘も本当もいり混ぜて私を気遣っている。そうと分かるから私は余計に縋らずにはいられない。
無力なのも無価値なのも私のせいではあるけど、今さらどうにも出来ないものだ。だから、何度も何度も愛されていることを確認したくなる。次もちゃんと会いに来てくれる。次はきっとお別れをせずにすむ。そうやって彼の愛をなぞるたびに安心と虚しさが胸を埋めた。

私の住むこの島とクラッカーさんの治める島が、実際にはどれくらい離れているのかは知らないけど、それなりの距離があることは話を聞いて分かっている。そのうえ、クラッカーさんはとてもすごい海賊で、国の大臣で、島の統治者で、とにかく忙しい身の上なのだ。

だから私たちに許される逢瀬は年に二回。夏と冬の二つの季節が交互に繰り返されるこの島の冬のはじまりと終わり。そこでクラッカーさんは私を訪ねてきてくれる。

「色々と準備が必要なんだ」

聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいに、同じ言葉を丁寧に繰り返すクラッカーさん。だけど実際、その意固地な子供のままの私は、不満を隠すこともせずに睨み返すことしか出来ない。

「好きな女を妻にするだけじゃない。それにどんな準備が必要だって言うの?」
「ナマエが行くことになるのはママが治める国だ。そして、ただ、その国民になるわけじゃない。将星であるおれの妻になるんだ」

ビッグ・マムも彼の暮らす国も、話に聞くばかりで、形のあるイメージは何も持てていなかった。おとぎ話の国を思い描くみたいな頼りない妄想。どんなに濃密な蜜月を共に過したって、魔法が解ける時間が来たら彼は絵本の世界に帰ってしまう。そうやって私からクラッカーさんを奪っていく、海も風も、すべてのものが憎かった。

「……だから、私じゃ不甲斐ないって、そういうこと?」
「違う。それだけ危険に身を置くことになると言っているんだ。無論、海軍からは狙われる。他の海賊たちからもだ。ひいては、おれたちに恨みのある一般の人間からも憎まれることはあるだろう」

そう言って、クラッカーさんは立ち尽くしたままの私をソファへと座らせる。
クラッカーさんの言葉の意味を理解出来ていないわけではない。海賊の妻となること。それは新世界とはいえ片田舎のこんな平和の島で暮らしてきた私には想像もできないくらいの危険と隣り合わせなのだろう。痛いのは嫌いだと言いながら、クラッカーさんは私の知らないところで、たくさんのそういう危険の中で生きている。

そういう実感と覚悟のことを想像すると、身体が竦まないわけではなかった。だけど、彼の船が見えなくなった水平線をいつまでも見つめ続ける寂しさも、朝一番の新聞に彼の悪いニュースが載っていないことを祈る心細さも、私だけしか知らないということが、ひどく腹立たしかった。

クラッカーさんと一緒にいるときの私はとても穏やかでいられるけど、薄く張った氷の下に溶岩を溜め込んでいるような不安定さで激情も抱えている。だから時々、氷を溶かして溢れてしまったそれが、尖った言葉に姿を変えてクラッカーさんを傷つけようとしてしまう。

「クラッカーさんは私を愛してないのよ」
「愛しているに決まってるだろう。だから、なるべく安全な場所を用意したいんだ」

分かってくれ、と言ってクラッカーさんは自分の方へと私の頭を抱き寄せた。おでこから伝わるクラッカーさんの体温と鼓動。

関係だけは続けながら一向に結婚をしてくれない男なんだと、クラッカーさんの素性はすべて偽って、友人に話したことがあった。友人たちはみんな口を揃えて「騙されてる」と言った。
実際、クラッカーさんの島での様子は何も知らないから、彼が本当は既に妻を持っていて、私はただの遊びでしかないとしても知る術はない。だけど、そんな嘘をつきながら「愛している」と言えるほど器用な人ではないと、自信を持って言えるくらいに、は私も彼を愛していた。

「私が、戦えるようになったらいいの? 守る必要のないくらい強い女になったら、ずっとそばにいられる?」
「……ナマエに武器を持たせたくはない。それはおれの我儘だ」

おれのわがまま。私のためだと押し付けがましく言うのではなく、自分のためだと言う。そういうところが好きだった。だから、何も言えなくなる。
しばらくクラッカーさんの腕の中で丸まって瞼を閉じる。完全な黒にはなりきれない、中途半端な闇。庭を通る小川へと流れ出す雪どけ水のせせらぎが、さらさらと耳に届いた。

「……次の冬が来るまでなら、待ってあげる」
「冬?」

場面が切り替わるみたいに、太陽と空気が、夏と冬を入れ替えるこの島で、地上のものたちは数日をかけて季節を移行していく。雪が溶け、緑が芽吹く。木々が葉を落とし、生き物が眠りにつく。その数日の残滓のような時間が私は好きだった。
クラッカーさんの胸から顔を上げて、じっとその瞳を見据える。

「もしも次の冬、クラッカーさんが私をこの島に置いていったら、私は雪の中で眠ることにする」

真っ白な雪の中に横たわって瞼を閉じる。しんしんと降る雪が私の上に降り積もって、そのうちにちっぽけな私なんて覆い隠されてしまうだろう。そうしてひと冬を、私は雪の下で眠って過ごすのだ。クラッカーさんの愛によって目覚めるまでの長い長い冬眠。
これから夏を迎えようとする前で、深い冬の始まりを想像するのは、なんとなく背徳的な気がしてクスクスと声を出して笑ってしまったけど、クラッカーさんは眉間に皺を作るだけだった。

「……なるべく早く迎えに来るようにする」

困り果てたように呟かれた声。怒っている時も、大口を開けて笑っている時も、クラッカーさんの色々な表情をたくさん見たことがあるけど、この顔が一番好きだった。
私のせいで困らされて、だけど、それすらも愛しいと思われているのが伝わるから。

「雪の下で眠る私は、きっと、とても綺麗よ」
「今でも十分だ……勘弁してくれ」




雪垂の恋心


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