手に持っていたグラスをテーブルに置く。カツン、と思っていたよりも大きな音が響いたけど、中身はもう飲み干してしまっているのでこぼれる心配はない。

「サンジくん、おかわり」
「……少し飲みすぎじゃないかな?」
「うん、でもほら、あと一杯だけ」

さっきも同じことを言ったような気がするなと頭の片隅で思ったけど、サンジくんは観念したような感じで肩を竦めてから、私の置いたグラスに向けてボトルを傾けてくれた。こぽこぽと気の抜けた音を立てながら注がれていく赤い液体。
それが綺麗だなと思ったら嬉しくなって、ふふふと声に出して笑ってしまう。完全な酔っぱらいだ。そんな自分の有様を自覚したことさえ可笑しくて、笑いがどんどん止まらなくなる。
だけど、そこでふと今このキッチンに私とサンジくんしかいないことに気がついた。

「あれ? ナミたちは?」

今日は三人でお酒を飲もうって話になって、サンジくんにはおつまみを作ってくれるようにお願いして、それから──。辿りたいはずの記憶は靄がかかったみたいに朧で上手く思い出せない。ついさっきのことのはずだけど、それにしては随分と時間が経ったような気もする。

「ナミさんとロビンちゃんならとっくに部屋に戻ったよ」
「えー、冷たいなぁ。でもサンジくんはいてくれるんだねぇ。優しいねぇ」

お酒を飲むのは好きだし、ナミほどじゃないけど強い方だとも思ってる。だけど時々、タガが外れたみたいに、あるいは逆に、パズルのピースがハマるみたいに、その酩酊感に逆らえないときがある。そういうことあるよね、ってナミとゾロに話したことがあるけど、二人揃ってないと言われてしまった。たぶん、あの二人が特別なんだと思う。

そんなことを考えながら、テーブルの上に残っていた最後のミートボールを口に入れる。トマトのソースが絡んだ私の好物。

「これだけずっと、サンジくんの作ってくれたご飯を食べてきたらさ、私の身体って細胞単位でサンジくんによって作られてるって言ってもいい気がする」
「そうかい? ナマエちゃんみたいな可愛いレディにそう言ってもらえるなんて光栄だよ」

サンジくんは本当に嬉しそうに笑ってくれたけど、その手は空になったお皿をテキパキと片付けている。今が何時かは分からないけど、たぶんもうそれなりに遅い時間だろう。だから、朝の早いサンジくんをそろそろ解放してあげなきゃって頭の冷静な部分は思うのに、私の唇はだらだらと言葉を紡ぎ続けてしまう。

「だからさ、私の伸びた髪とか爪とか、ひとつ残らずサンジくんにあげたい」
「いや……それは気持ちだけで十分かな」
「えぇ、断られた……」

泣き真似をしてテーブルに突っ伏すと、サンジくんは少しだけ困った声で「水でも飲むかい?」と聞いてきた。迷惑な酔っぱらいである私にも、こんなに優しいのだからサンジくんはやっぱり素敵だと思う。声を出さずに頷けば、サンジくんは「少し待ってて」といって去っていった。その後ろ姿を横目に見ながら、火照った頬を冷たいテーブルが冷やしていく。

私とサンジくんは特別な何かではない。あえて関係を言葉にするなら、同じ船に乗るクルーというだけ。だけど私はサンジくんが好きだ。だから、たとえば今みたいに本当は早く寝た方がいいのに私に付き合ってくれてたり、私を気遣ってお水を用意してくれたり、そういう私にだけ向けられる優しさを精一杯集めたいと思っている。

だけど、私にだけ与えられる優しさがあるみたいに、ナミだけとかロビンだけとかに向けられた優しさもある。それどころか、サンジくんは器用だから、世界中の女の子それぞれへの優しさがあるかもしれない。それは私には絶対に手に入らないものだ。それが時々、悲しくなる。
本当はそんなこと思わずに恋をしていたいのに、人間って貪欲だから上手くいかない。

「はい、どうぞ」
「……ありがとう」

差し出されたグラスを受け取って口をつける。冷たい水が喉を通って、身体の中に吸い込まれていく。清澄で透明な、好きな人がくれた水。ふと、そういうものだけを吸い上げて生きていたいなと思った。嫉妬とか独占欲とか、プライドとか劣等感とか、そういう不純なものではなくて。サンジくんに与えられたものだけで作られた身体も悪くないけど、やっぱり少しだけ感情が伴うと煩わしいから。
まだ半分ほど残ったグラスをテーブルに置いて、サンジくんの顔を見上げる。

「私、植物になりたいな」
「植物?」
「そう。太古の昔の、始原の植物」

酔っぱらいの世迷いごとに真剣に耳を傾けてくれる優しさ。これは私だけに向けられたものだ。ナミもロビンも、こんな馬鹿みたいなこと言い出したりしないから。

「知ってた? 人間と植物って共通の祖先があるんだって。だからさ、頑張ったら今からだって植物になれるかもしれない。ああ、でもそれって、進化なのか退化なのか分からないね」

サンジくんは何を言ったらいいか分からないでいるみたいに眉毛を下げてしまっていて、私はそんなこと構わずに水が流れ出したみたいに喋り続ける。変な空間。今ここに誰かが入ってきたら、間違いなく開口一番に「なにやってんだ」って呆れた声で言うだろう。でもそんな侵入者はやってこないから、私の言葉は止まらない。

「雄しべも雌しべなくて、受粉も必要としないの。代わりに、サンジくんに恋をすることで種をつける」

恋、って声に出したら、サンジくんが驚いたように瞳を丸くした。それがまた愛しいなって思う。愛しくて愛しくて、愛してる。

「その種を風に乗って飛ばして、それでまた至る所で私はサンジくんに恋をして増え続けるの。そしていつか、この世界中をサンジくんへの恋心で覆い尽くす」

アルコールに侵された脳が、浮かんでいるというか、飛んでいるというか、溺れているみたいにふわふわする。急激に眠くなって、瞼の重みに負けそうになる。このまま眠ったら、きっと、その植物になる夢が見えるだろう。綺麗な花を咲かすことが出来たらいい。そして朝になったら、今話したことなんて全部忘れてしまうに違いない。

「おれの思い違いでなければ、まるでナマエちゃんから好きだって言ってもらっているように聞こえるんだけど」
「うん、好きだって言ってるかもしれない」

沈み込みそうだった眠りの淵から、サンジくんの声によって引き上げられる。だけどまだ、ぼうっとした頭は気を抜けば今すぐにでも眠ってしまいそうだった。ここで寝たら迷惑だろうから、どうにか部屋に戻るまでは頑張りたい。
そんな取り留めもないことを考えている間も、サンジくんは私のことを見つめていて、それから徐ろに口を開いた。

「たしかにナマエちゃんは花のように可憐だけど、おれは植物になんてならないで欲しいな」
「でも、人間は恋をするには不向きだよ」
「そんなことないさ。だって、君が花だったらおれは水のあげすぎで枯らしてしまうかもしれない」

水のあげすぎ。心の中でその言葉を繰り返す。サンジくんに恋をする植物である私にとっての水は愛だ。サンジくんのくれる愛。それを、あげすぎる。

「……サンジくん」
「なんだい?」
「私の思い違いじゃなければ、まるでサンジくんに好きだって言われてるみたいに聞こえる」
「あァ、そう言ってるよ」

今にもくっつきそうだった瞼を見開いてサンジくんを見つめる。一瞬、夢かもしれないと思ったけど、それにしては随分と鮮明で意識的だから、たぶん現実で間違いないだろう。それならつまり、私はサンジくんと両思いということになる。

「……私、植物になるのやめた」
「それはよかった」
「人間も悪くないかもしれない」

そう言って笑ったら、サンジくんも笑ってくれた。グラスの中の氷が溶けて、からんと透明な音を響かせる。人間でいることを決めた私は、これからも不純な感情を生み出したり吸い上げたりしていくんだろう。世界中を愛だけで覆い尽くすことはできなくなった。だけどその代わり、根ではなくて、どこへでも行ける二本の足でサンジくんの隣を歩いて不格好な愛の花びらを撒き散らすことにしよう。




きみの愛で世界を塗り替えて


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