「わっ」

がくん、と大きく船が揺れた。だけど、それに続く騒がしい声は聞こえてこないから、たぶん、大きな波を越えただけなんだろう。気を取り直して手元のスケッチブックに視線を落とす。
ナミのみかんの木の影が、真っ白い紙の上でゆらゆら揺れて明暗を作る。そこに線を引くたびに、何かを少しずつ捨てているような気がする。



「オイ」
「わあ、びっくりした。ゾロか」

急に声をかけられて顔を上げると、木と柱の隙間で丸くなっていた私を見下ろすゾロがいた。いつの間にか深く集中して周りのことが見えなくなっていたらしい。さっきまで真っ白だったそこには無数の線が形を織り成し、ひとつの絵と呼べるまでに仕上がりつつあった。

「ロビンが探してたぞ」
「なんだろ、 急用そうだった?」
「いや、茶を飲みながら本がどうとか言ってただけだ」

そう言いながらゾロは私の隣で、柱に寄りかかるようにして腰を下ろした。それを横目に見ながら、ロビンが私を探す理由を思い出そうとする。

「あっ、前に、もし持ってたら貸してって言った本のことかな? うーん、じゃあキリのいいとこまで描けたら行く」
「そう言って、いつも忘れてるけどな」

瞼を閉じて、本格的に寝ようとしているゾロを無言で睨みつける。事実、そうやって何度も約束を反故にしてしまったことがあるので返す言葉がない。

この船に乗るまでは、絵を描いているからといって、こんなにも周りが見えなくなることはなかった。基本はひとり旅だったこともあるし、必要上、誰かと旅を共にすることはあっても、なるべく周囲への警戒は怠らないようにしてきたつもりだ。筆を持てる以上の特技はないけれど、この海でここまで生き抜いてこれたのは、そうした努力の結果だと思っている。

気を許している。そう言い換えることもできるけど、要は結局、この船のクルーたちの人の良さや、あたたかさに触れて、腑抜けてしまったということに他ならない。
ふと顔を上げると、ゾロの短い新緑色の髪が海風に揺れていた。思わず、筆を動かす手が止まる。

「ねえ、ゾロを描いてもいい?」
「あ? 」

寝ようとしていたところに声をかけられたのが不快だったのか。あるいは、私が口にした言葉が不満だったのか。ゾロは煩わしそうに眉間に皺を寄せる。

「そのまま寝てていいからさ」
「……そんなとこ、勝手に何枚も書いてんだろ」
「あれ、気づいてた?」

気づいていて何も言わないでいたんだ、と心の中で思ったけど、口には出さない。ゾロは呆れたように鼻を鳴らしてから、うっすらと瞳を開いて私の方を見た。

「なんでそんなもん描きたいんだよ」
「そりゃ、みんなと別れてからも、いつでも見返せるように」

この船との別れ。それは遠からずやってくるものだ。私はただ旅をするために船に乗っていて、その船がたまたま彼らの海賊船だったというだけ。だから、次の島が気に入れば、そこで降りるつもりだし、そうでもなくてもいずれは一人で歩いていくと決めている。
しばらく口を噤んで黙っていたゾロが、おもむろに口を開いた。ここにいる私たちにしか感じられない、小さな空気の震え。

「……旅がしてェなら、ここで続けてきゃいいだろ」
「それはさ、私の思う旅じゃないんだよ」
「何が違うんだよ」
「この船には目的があって、その旅には終りがあること」

水が流れるように、歌を口ずさむように、淀みのない私の声に一瞬だけゾロが怯んだのが分かった。手が届きそうなくらい近くで海鳥の声がして、それにつられるようにして水平線に目を遣る。

「目的なんて、それぞれだろ」

再びゾロに視線を戻せば、その瞳はじっと私を見据えていた。少しだけ居心地が悪くなって、手持ち無沙汰にスケッチブックをパラパラと捲る。この船に乗ってから描いた様々な絵。これをアルバムとして、彼らとの時間を過ぎ去った思い出にしていくためのもの。
ふと、手が止まる。満面の笑みを浮かべた、この船のキャプテン。これこそが、この船の夢であり、目的になるんだろう。

「そうだけどさ、でも最終的な目標はルフィを海賊王にすることでしょ? 私もルフィならなれるって信じてるけど、だからってその一端になりたいわけじゃない。それって、決定的な違いだと思う」

ぱたん、とスケッチブックを閉じる。「ロビンのところに行くね」の言って立ち上がろうとしたとき、思いがけず腕をつかまれた。骨ばった男らしい手のひらの感触。驚いて振り返ったのと、ゾロが口を開くのは同時だった。

「お前は、おれのことが好きだろ」

告白と呼ぶには、あまりに横暴で色気がない。それでいて随分と切羽詰まっている。だからこれは、愛のはじまりではなくて、愛の押しつけというほうが正しい。チッチッチ、となかなか点火できないライターみたいな音が、頭の中で響き続ける。

「うん、好きだよ。だけど、ゾロだって私が好きでしょ?」

好き、と言葉にしたのは初めてだけど、この船に乗ってしばらくが経ってから、お互いにそれぞれを特別視していることには気づいていた。誇示するでもないさりげなさで、だけど押し隠すような健気さでもなく、私たちの間にはそういう穏やかな空気があったはずだった。

「だったら……」
「でもさ、それだけでしょ」

何かを言おうとしたゾロの言葉に被せるようにして発した私の声には、はっきりとした苛立ちの色がこめられている。ゾロもそれに気づいたのか、開きかけた口をゆっくりと閉じた。

ゾロを好きだということ。そして、ゾロもまた私を好きだということ。それを今ここで示すのは、想い合いながら船を降りようとする私への詰問と何が違うのだろう。そういつもりはなくても、始まりも終わりもせず大切にするつもりだった想いを、こうやって正しさを押し付けるための武器みたいにされたことに、私は少なからず腹が立っているのだ。だからこんなにも、冷たい声が出てしまう。

「ゾロを好きだという気持ちが、私の旅を終わらせられるなんて思ってるなら、それは思い上がりだよ」

吐き捨てた言葉に、ゾロは何かに耐えるようにグッと息を詰めて、それからゆっくりと項垂れた。「悪かった」と短く呟かれて、私も黙って頷く。
空を仰ぐと、さっきまですぐ近くを飛んでいたはずの海鳥が、その真っ白い翼を風に乗せて上昇していくところだった。あの羽で、どこを目指しているのだろう。蒼穹の続く限り、果てのない旅路。胸奥が疼いて、逸る気持ちが私を急かす。

「私が生まれ育ったのは、幸福を絵に描いたような村だったの」

突然、故郷の話を始めた私に、ゾロは少し戸惑った顔をして、だけど何も言わずに聞くことに徹することにしてくれたようだ。わずかにほほ笑みを浮かべて、そっと視線をゾロから逸らす。

そう多くはない村人たちは、みんなが互いに助け合い暮らしていた。村の仕事は主に農作で、大人たちはみなせっせと畑を耕し、子供たちも喜んでそれを手伝った。貧しいながらも飢えるほどではなく、生きる喜びに溢れた慎ましい暮らし。両親たちも仲が良く、その愛情を精一杯に私に注いでくれていた。

「だけど、私はずっと、どこかに行きたいと思ってた」

村にも家族にも、不満なんてひとつもなかった。それでも、その衝動は抑えられなかった。生まれ落ちた瞬間から背負ってしまった業のように、本能的に身体を貫く巣立ちへの欲望。あるいは渡りへの渇望。
ついに村を出ることを決めた私を、村の人たちはみんな必死になって引き留めようとしてくれた。だけど、その手はひとつとして私を繋ぐ杭とはなれず、旅立ちの日、船に乗り込んだ背中越しに母の泣き声が響いていたのを、今でも時々思い出す。

「私の国の物語に、ずっと旅をしているおばけが出てくるの」

そのおばけは主役ではなく、時折姿を見せる端役でしかないにも関わらず、初めて読んだあの日から、ずっと旅をするあの姿が忘れられずにいる。

「そのおばけはね、絶対に辿り着きたい場所には辿り着けないの。だって、彼らが目指しているのは水平線だから。私も、たぶん、それと同じ」

少し話が抽象的過ぎたかなと思いながら、視線を上げる。その先で、ゾロはじっと私を正視していて、その衒いない視線にたじろぐ。だから結局、せっかく上げた視線をまた船の板目へと戻してしまった。

「長く旅をしているとね、少しずつ世界から自分が切り離されていく気がするの。帰る場所とか目的とか、最初はあったはずの色々が薄れていって、あとはただ、旅をしたいという本能しか残らない」

早口で紡ぐ言葉はまるで言い訳のようだった。旅を続けることに意識を向けながら、心のどこかでわだかまる捨ててきた人たちに対する罪悪感から目を逸らしていた。安寧や定住によって得られる幸福。私を好きだと言ってくれた人たち。それらを結局は捨てることを選んでしまう私自身の愚かさ。

「だから、ごめん。この船にいたら、私はきっとここを居場所だと思ってしまって、そしてすぐに捨てたくなってしまう……それは嫌なの」

それだけ言って立ち上がる。今度は、ゾロは引き止めることはしなかった。風に運ばれた潮の匂いが鼻腔を擽る。視線をあげれば、緩いカーブを描いた水平線が広がっている。

──次の島で船を降りよう。

そう心の中で呟く。
空を飛ぶ鳥が、地上の大樹に恋をしたところで、その枝は一時の羽休めの場としかなれず、鳥は結局飛び立つことを選ぶだろう。悪いのは大樹ではなく、鳥の方だ。ちゃんと愛し通せもしないくせに、恋などするべきではなかったのだから。
背中に感じるゾロの視線を断ち切るように、船内へと続くドアを閉めた。









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