近くの潅木の梢から、大きな羽音が聞こえて顔を上げる。照葉樹の大きな葉の隙間から覗く空へと、飛び立つかのように広がった薄紫の羽根を持つ鳥。それが一瞬の飛翔の後、近くの大木の枝へと留まった。

ここは万鳥の楽園だ。海辺では海鳥たちが白い砂浜の上を跳ねるように遊びまわり、この樹林では千紫万紅の羽根を持つ鳥たちが、草木や花々の影で羽根を休め、水を啄み、歌うようにさえずり合って過ごしている。ため息の出るほど美しい、極彩色の世界。

しばらく見つめても、再び飛び立つ気配は見せない頭上の鳥から目を逸らす。目の前の水辺、その畔に置いたイーゼルに立てかけたキャンパスには、まだ何の色も付けることが出来ていない。

そのとき、目の前の茂みがガサガサと揺れ始め、視線を向ける。だけど、そこに現れたのは、この島に住まう鳥ではなくて、見慣れた新緑色だった。

「なんだ、ゾロかぁ」
「あ? 悪かったな、おれで」

ゾロが茂みから身体を出すと、近くにいた鳥たちが道を譲るように端に避ける。逃げ去る素振りは見せもしなかった。本当によく、人に慣れた子たちだ。一瞬、飼い慣らすという言葉が頭に浮かんで、そっとかき消した。
隣に立ったゾロの服には、あちらこちらに様々な色の葉がくっついてしまっている。どんな獣道を通ってきたんだという有様だけど、本人はまるで気にしていないので、代わりにその葉に手を伸ばす。

「それより、現れる方向おかしくない? 島を一周でもしてきたの?」
「こんな茂みだらけの島でするかよ、そんなこと。まっすぐ観察所から下りてきただけだ」
「……それならやっぱり、そこから出てくるはずないんだよ」

私たちが滞在している、この島の観察所と呼ばれる施設は、私の真後ろの道を少し上った先にある。それがどうして、目の前の茂みの下から現れるのか。聞きたい気もしたけど、聞いたところで理解もできないし、本人も分かっていないのだろう。すべての葉っぱを取り終えて手を払うと、ゾロは短くお礼の言葉を口にして、隣の岩に腰かけた。

「それにしても、すげェ鳥の数だな」

ゾロの視線が水辺に集まる鳥たちへと向けられる。
船でのあの出来事からは、すでに幾日もが経っていて、私たちの間にあった気まずさのようなものは、すっかりと姿を隠しつつある。だけど、隠されただけで消えたわけではない。その事実から目を逸らすように、私もまた鳥たちの群れを見つめる。

この島にいる鳥たちはみな、その観察所によって保護され、管理されている。一羽ずつ個体番号が付与され、その番号を元に、島内での行動や健康状態に至るまでがデータとして見ることが出来るらしい。夏島であるこの島の気候を好む鳥たちは、このように放し飼いにされ、その他の鳥たちも観察所内に作られた施設の中で、それぞれに適した環境下で暮らしている。

現在所長を務めているという男は、ゾロたちが海賊と知っても大した驚きも興味も示さず、鳥たちに害を及ぼさなければ好きなだけ滞在してもいいという少し変物な男だった。鳥たちを偏愛し、鳥の話となると途端に饒舌になる所長のおかげで、どこで使うかも分からぬ知識を随分と蓄えることとなった。

「鎖で繋がれてるわけでもねェのに、よく逃げずにいるもんだ」
「風切り羽根を切られてるんだって」

所長から教えられた話をすれば、ゾロは怪訝そうに顔を顰めた。ちょうど目の前を白い鳥が横切り、数回羽根を羽ばたかせて近くの梢に留まった。本来なら大空を自由に滑空するはずの鳥に許された精一杯の飛翔。

「鳥たちが空を飛ぶための羽根。それを切ってしまっているから、この子たちは空を飛べないの」

だけど、それも悪戯に羽根を切ってしまっているわけではない。ここ数年の地殻変動や天候不順などの環境変化、あるいは人間同士の争いや森林伐採によって、ここにいる鳥たちの多くはもう、外の世界では生きていけないのだという。この島でしか生きることの出来ない絶滅寸前の種。

だから、本能のままに飛び立ってしまわないように、風を切るための羽根を切ってしまう。切ったところでまた羽根は生え変わるので、そのたびに繰り返すのだという。何度も何度も、大空への希望を断たれるのは、どんな気持ちなのだろう。種の温存。それは本当に、自由を奪い去ってまでも守らなくてはいけないものなんだろうか。

絵を描くつもりでここまで来たのに、その帆布がまっさらなのは、ここが本当に鳥たちの楽園なのか分からなくなったからだ。天敵もなく、餌には溢れ、多少の病気や怪我は治してもらえる。
だけど、それは籠の中にいることと何が違うのだろう。彼らは結局、もう野生には戻れない籠鳥で、その本能もしだいに死んでいくのだろうか。そのうちに風切り羽を切らずとも、ここに留まるようになり、大空の記憶など忘れてしまう。

「……そういうのが、本当は愛なのかな」

ぽつり、と呟くと、ゾロの視線がこちらに向いた気配がした。だけど、その瞳を見つめ返すことは出来ない。私の視線は、楽園を謳歌しているようにしか見えない鳥たちに注がれながら、ここにある幸福を認めたくないと頭の奥深いところが否定を繰り返す。

だけどあの所長は、これは庇護だと呼ぶのだろう。この島でしか生きられないか弱き生き物を、なんとか生き残ってゆけるように手助けをしているのだと。
それが、たとえ自由から首輪をかけることになるのだとしても、生きていて欲しいんだって。愛とは結局、そういうエゴイスティックなものなのかもしれない。だけど──

「私は、自由に旅がしたい」

この間から、鳥たちに対して自分を重ねてばかりいる。無意味だと思いながらも、止めることが出来ない思考。私は空を飛べないし、自分の足で歩き続けるしかないのに。

意を決してゾロの方に顔を向ける。点と点を結ぶように混じりあった視線に胸が痛む。込み上げたのは、一度認めてしまったせいで隠しきれなくなった「好き」という気持ちと、「離れ難い」という未練。その一方で、自由と旅立ちへの憧憬が全身を刺すように疼く。

同時に叶えることの出来ない相反する願い。自家撞着。ゾロの瞳に私が映っているというだけで、泣き出したくなるくらいに好きなのに、その無骨な手に引かれて生きていくことは想像ができない。
きっと今、私はとても情けない顔をしている。そう思ったとき、視界の端に躊躇うように伸ばされたゾロの手が見えた。

「……私はこの島で、船を降りるよ」

拒絶のための言葉。それがゾロの手を振りはたくかのように響く。そしてゾロの表情もまた、痛みに耐えるようにわずかに歪んだ。

「それは、おれのせいか」
「……ゾロのせい、ってわけじゃないけど、私たちがお互いを好きだってことに関係がないわけではないかな。だけど、もともと気に入った島があったら、そこからまた一人で旅をしようって決めてたの」

この島には、定期的に物資や人を運ぶ船が運行されている。ゾロたちが去っていってから、しばらくの間はここで売り物用の絵を描いて、大きな町を目指せばいい。故郷の村を出てから、ずっと続けてきた生き方をなぞるだけのはずなのに、ひどく心許ない気がするのは何故だろう。私が旅に憧れ、生きてきた時間よりもずっと短いはずのこの船での邂逅。初めて愛した人。それがこんなにも、私自身を変えてしまうのか。

「……この島が、気に入ったのか?」

低く絞り出した声が、引き留めるための言葉を無理やりに押し隠そうとしているみたいに聞こえてしまう。ゾロが本当に言いたかった言葉は何だったのだろう。行くな、傍にいろ。言われたところで困ると分かっているのに、そんな夢想をしてしまったことに自嘲的な笑みを浮かべようとしたとき、ずっと頭上の枝で羽根を休めていたはずの鳥が、傍らに置いた鞄の上に舞い降りてきた。

「あっ!」

悪戯に鞄を啄んでみた鳥が、留め具を外す。ざあ、と鞄に詰めていたはずの画用紙が乾いた土の上に散る。「やられた!」と口にしようとしたのに、息を吸い込んだまま何も声にならなかった。

「……随分と、描いたもんだな」

ゾロが、からかうような口調で言う。だけど、その声が力なかったのは、この絵に込められた想いが滲み出してしまっているせいだ。
甲板で居眠りをする少し気の抜けた姿、鍛錬をする真剣な横顔、船の仲間と楽しげに酒を飲むあどけない表情──私に向けられた特別な笑顔。

絵を描くのは、生きていくための手段だった。旅をしながらお金を稼ぐのに、ちょうどいいと思ったから筆を取った。それだけのはずだったのに、いつの間にこんなにも想いを詰め込んだ絵を描けるようになっていたんだろう。
散らばった絵のほとんどが、私からゾロへの愛の欠片に他ならなかった。

岩から立ち上がったゾロは、何も言わずに落ちた絵を拾い集めてくれる。動けないまま立ち尽くしている私を、あの薄紫の羽根を持つ鳥が嘲るように見つめている。

──本当は、引き止めて欲しいんだろう?

甲高い美しいさえずりが、そう語りかけてくるように聞こえる。
ここにいる鳥たちも、そう思ってきたのだろうか。外の世界ではもう生きていけないことを悟って、だけど、大空への憧れは捨てきれず、だから、力ずくで手折って欲しいと。
仕方がなかった、他に選択肢なんてなかったからと、自分に言い聞かせ、諦念を正当化してきたんだろうか。私も、そうなりたいんだろうか。

「ほら、これで全部だろ」

ゾロが集めた紙の束を私へと手渡す。それを受け取りながら、じっとその瞳を覗き込んだ。

「ねえ、ゾロなら……私の羽根を手折ってもいいって言ったら、どうする?」

そのとき、強い風が吹き付けて、思わず強く目を瞑ってしまった。ざわざわと木々の揺れる音。そのせいで、ゾロがどんな表情をしたのか、見ることは出来なかった。





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