小高い山の上にある観測所からは、水平線がよく見える。緩いカーブを描いて広がる海の果てから、そびえ立つように浮いている積乱雲。まだ日の出前の気配を残す薄い靄が、朝日をきらきらと反射させながら消えていく。こんな早い時間でも、あちらこちらから聞こえてくる鳥たちのさえずりには、もうすっかり慣れたものだった。

「よォ、早いじゃねェか」
「……ゾロこそ」

背後からかけられた声に振り返れば、眩しそうに瞳を細めるゾロが立っていた。まだ眠そうな表情に、思わず少し笑いそうになりながら「おはよう」といえば、「おう」とだけ短く返される。

今日の昼、この島を発つ。昨晩の夕食の席で、そう口にしたナミに、何も言うことは出来なかった。ゾロからの返事はまだ聞けていない。あの強風の後、ゾロは何も言わずに立ち去ってしまって、私も後を追うことはしなかったから。
あのとき、「手折る」と頷かれていたら、私はそれで納得しただろうか。私から自由や旅を奪ってでも、それで恨まれようと、傍に縛り付けてくれたなら、私はその愛に屈服できただろうか。

故郷の両親や村の人たち、旅の行き着く先で、このままずっとここにいたらいいと言ってくれた人たち。それらをすべて、本能のままに自分の手で捨ててきたはずなのに、初めての捨てきれない未練を他人の手に委ねようとしている。
渡りを行う鳥の中にも、その地に永住を決める鳥もいると、あの所長は話していた。渡るべき鳥に、それだけの決意をさせるものがある。私にとっても、たぶん、これが最後の定住のチャンスなのだと思う。ゾロの手を振り払ったその先に、これ以上、私の乗るべき風を遮るものなどないという確信に近い予感がある。

何にも遮られない広大な世界。水平線や地平線を目指すような果てしない旅路。それは自由に対する昂揚を教えてくれると同時に、己の矮小さや無力さを突きつけ、恐怖も与えてくる。
ずっと、その二つの思いを抱えながらバランスを取ってきたのに、すべての風を避けてくれる木の影で休んだせいで、風の吹きすさぶ荒野に一人で立つことが怖くなってしまった。ここにいれば、全身を切り付けるような砂嵐からも守ってもらえる。もう二度と、大空を飛べないことを代償に。

ふう、と息を吐き出してから横目にゾロを窺う。その表情からは何も読み取れず、だけど水平線を凝視する視線からは透明な壁を感じずにはいられない。一度は上手に隠したはずの気まずさが再び顔を出して、私たちを隔てている。でも今は、時間がうやむやにしてくれるのを待っているわけにもいかない。今日の昼の出航。それをタイムリミットとして明確な答えを出せと急いている。

「──え?」

そのとき、私たちの間を一羽の鳥が飛び去って行った。こんなにも鳥たちに溢れた島では珍しいことでもないのかもしれないけれど、胸にわだかまる違和感。どこか疲れきったように蹌踉とした羽ばたき。光沢を帯びた虹色の羽が、顔を出したばかりの陽光に照らされて煌めいた。

「どうかしたか?」
「あの鳥……ここの鳥じゃない」
「は?……あ、おいっ!」

気がつけば足が勝手に動き出していた。視線は飛び去ろうとする鳥を見据えたまま、森へと続く緩やかな坂を駆け下りる。
風切り羽を切られた鳥にはもう許されない自由な飛翔。その脚にも、ここに住む鳥たちの住民権のような個体番号のタグは付いていない。間違いなく、あの鳥は、どこか別の場所からやって来た。何のために? あんなにも、必死になって。

その答えが知りたくて、なんとか鳥を見失わないように走り続ける。シダ植物の生い茂る林に飛び込み、視界が悪い中でも、なんとか鳥を追った。鋭い葉が頬に切り傷を付けても、肺が酸素を求めて悲鳴をあげても、すべてを無視して──









そうして辿り着いたのは、初めて足を踏み入れる島の深層部だった。深い深い森の先、わずかに開けたそこには、一筋の線のような光が差し込み、空気が浄化されてゆくのが目に見えるかのようだった。
その中心には、おそらく何百年という樹齢になるのであろう大樹が厳かに君臨している。この樹が、この森の王であり母なのだと、本能的に察する。あまりの貫禄に圧倒されながら、その根元へと視線を向けようとした時、澄み切った風にも似た音が辺り一面に響き渡った。

「……あぁ」

思わず洩れたため息は、その美しい哀愁のせいだった。樹の根元に身を寄せるようにして、ついさっきまで追っていたはずの鳥は息絶えていた。あの音は、この鳥の最期の鳴き声だったのだ。
そっと傍らにしゃがみこんで、羽根をさするように手を伸ばす。そのとき、ざりと砂を踏む音が近くで聞こえた。

「……チョッパー、呼んでくるか?」
「ううん、もう必要ないよ」

やっと呼吸が楽になってきた私とは違って、まったく息の上がった様子もないゾロが、不思議そうに私の手元を眺めている。さっきまで飛んでいた鳥が、いきなりここで息絶えるなんて思いもしなかったんだろう。私も驚きはした。だけど、どこかで予感していた気もする。

この鳥は、自分の命の終わりを悟って、この森に帰ることを選んだ。この小さな双眸で渡り見る外の世界は、あまりに広く、ときに残酷で、そして忘れることも出来ないくらいに美しかっただろう。この羽根さえあればどこまでも行けると、雲路の果てを夢見ただろうか。それでも、最期に畢生の地として、帰りたい場所があった。

この鳥が、この森で生まれたのか、あるいは何らかの渡りの途中で立ち寄った場所だったのかは分からない。一体、この樹と何度目の邂逅になるのかも。もしかしたら、人生、たった二度目の再会だったかもしれない。死にゆく瞳が最期にとらえた美しいこの森の大樹。それを讃えるように、この鳥は鳴いたのだ。

だからせめて、分解され、溶け合って、この樹の一部となれるように、ここ掘って埋めてあげよう。そう思って素手で土を掘り返していると、ゾロも黙って隣にしゃがみこんだ。大きな手が、私よりも深く土を掴む。

「お前は、おれの傍にいろよ」

呟かれた声。手を止めてゾロの横顔を見つめても、その瞳が私の方を向くことはなかった。この鳥の死を目にして、ゾロは何を感じたのだろう。憐れだと、そう思ったんだろうか。

「……それが、ゾロの答え?」
「あァ」
「わかった」

静寂に包まれた森に、土を掘る音だけが響く。ぽかりと開けた木々の間から覗く空が、そうやって穴を掘るほどに遠くなって行くような気がする。ここに鳥の亡骸を埋めると共に、私の旅への憧れを墓標とするのだろうか。






たった一羽の鳥のための墓穴なんてあっという間に掘れてしまう。汚れた手の土を叩き落とし終わると、先に立ち上がっていたゾロが手を差し出してくれる。触れ合った手のひらの感触。こうやって、これからは手を引かれて生きていくんだと、身体と心に言い聞かせる。

「でも、おれはお前の羽根は折らねェ」
「……え?」

思いがけない言葉に顔を上げると、ゾロの瞳は真っ直ぐに私を見据えている。言葉の意味が分からないまま首を傾げると、ゾロは少し偉そうに鼻を鳴らした。

「おれの傍にいたいうちは、いりゃいい。それで、どこか行きたくなったら行けばいい」
「……それじゃあ、最初と何も変わらないんじゃない?」

今はまだ、ゾロと共にあの船にいたいと思っている。だけど、必ずいつか私はすべてを捨て置いて遠くに行きたくなってしまうから、それが嫌なんだと、あの日はっきりと言ったはずだった。それでも私を引き留めるつもりなら、どこにも行けないように力ずくで押さえつけることを選べばいい、と。
私の考えを見透かしたみたいに、ゾロが意地悪げに片方の口の端だけを釣り上げた。

「その代わり、必ず帰ってくると約束しろ」

その言葉に、瞠目したまま動けなくなる。帰る、と心の中で反芻した言葉が、消えることなく私の一部となる感覚。この樹の下で眠る鳥のように、帰る場所を決める。渡り往くところ、帰り往くところ。

「それだけは、どんなに長く旅をしようと忘れんじゃねェぞ」

長く旅をしていると、帰る場所を忘れてしまう。そう口にしたのは私だった。あの日言った通り、この恋には、私の旅を終わらせることはできない。いつかきっと、本能に呼ばれるように、私は渡りの旅へと出ていく。それをこの恋は引き留めはしないけど、代わりにずっと、私たちを繋ぎ続けると、そう言われているのだ。

気がついたら、瞳から透明な滴が零れ落ちて頬を濡らしていた。感情の怒涛に押し流されるような、嗚咽し息苦しい涙ではない。ただ静かに、泉から清水が湧き出すように、止めどない涙が頬を伝う。
そうやって声もなく泣き続ける私を抱き締めるでもなく、涙を拭うでもなく、ゾロはただ傍に居続ける。それが、私がこの先、一人で旅に出ていくこと、そしてそれを引き留めないことへの覚悟のような気がして胸が詰まった。こういうところが好きなんだと、思い知らされる。

やっと涙が止まって、そっと指で目尻を拭う。こんなにも泣いてしまって、瞳はきっと真っ赤に充血していることだろう。事情も知らないみんなに見られたら、なんて説明をしようか。
そんなことを考えながらゾロへと視線を向ける。ゾロの視線もまた、あまりにも自然に私を見つめ返す。

「でも、それならもう少し方向音痴は治してよ」
「あ?」
「……だって、これじゃあ帰りたくなっても、ゾロがどこに居るのか予想もできないし」

照れ隠しの軽口のつもりで言ってみれば、ゾロはなんてことないとでも言うように肩を竦めた。

「それなら問題ねェだろ。どこにいようと見つけられるよう、世界中におれの名を轟かせておくから、お前はそれを目印にしっかり帰ってこい」

あまりにも不遜な自信。だけどきっと、本当に世界中どこにいたって、その名を聞くのだろうと信じきっている自分もいる。思わず笑ってしまえば、止まったはずの涙がまた滲む。今度は、そんな私の髪を乱暴に撫でるゾロの手のひらのぬくもり。

空を仰げば、すっかり太陽の昇りきった鮮やかな青が広がっている。またこの空に羽根を広げたいと飛び立つ日を想像する。胸に広がる景色は、希望と憧憬に満ち溢れ、諦念も悲しみの色もない。そうやって飛び立った先が、どれだけの旅路になるかは分からない。もしかしたら、時折何度も隣に降り立つのかもしれないし、帰るべき場所を胸にただひたすら飛び続けるのかもしれない。
だけど、必ず帰ってくる。私の畢生の地、終の住処は、いつだって力強く在り続け、私を迎え入れてくれるのだから。







ウォーゲルの往くところ


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